101.待ちわびて その2
シャワーを済ませ、布団の上に寝そべりながら、図書館で借りてきた絵本を広げる。
右手には日本語訳のもの。左手には英語の原書。
まずは原書から読んでみよう。パラパラとページをめくり、英文を追ってみる。
特に難しい単語や難解な文章があるわけでもなく。
中学卒業程度の英語力でも解読できるくらいに、簡単明瞭な内容であるはずなのに。
繰り返し同じ文章を読んでみるけれど、少しも頭に入ってこないのだ。
韻を踏んだ簡潔な文章は、マザーグースのように心地よいリズムを刻んでいるに違いない。
なのに、わたしの心の中で、ついにそのリズムが軽やかなステップに変わることはなかった。
せめて絵本を見ている間だけでも、遥のことを忘れることができたらと思ったけれど……。
週刊誌に載っていた写真ばかりがくっきりと脳裏に浮かび上がり、消えてくれないのだ。
遥の後ろ姿としぐれさんの笑顔ばかりがクローズアップされて、わたしの心をかき乱す。
わたしはとうとうあきらめて、両方の絵本をパタンと閉じた。
灯りを落として仰向けになり、タオルケットを胸の辺りまで引っ張り上げる。
このまま目を閉じて眠ってしまおう。そうすれば朝が来る。
誰にでも平等に朝日が降り注ぎ、きっといつものように平穏な日常生活が繰り返されるのだ。
朝になれば仕事に行き、夜になれば眠って、また次の朝が来て。
夏が終わる頃には、遥としぐれさんの噂も人々の記憶から遠のき、何事もなかったかのようにいつもの毎日が訪れるかもしれない。
そんなことを考えながら無理やりまぶたを閉じている時だった。
頭上に時計と一緒に並べて置いていた携帯が、ひっそりとした暗闇の中で着信ライトを光らせ、メロディーを奏でる。
きっと遥だ。そうに違いない。
わたしは素早く腹ばいになり、携帯を開いた。
あろうことか、それは本田先輩からの電話のようだ。
何で本田先輩? という疑問を胸に抱きながらも、これは遥に関する連絡に違いないと確信したわたしは、ためらうことなく通話ボタンを押した。
『柊? 柊か? 』
「もしもし、本田先輩? じゃなくて、遥? 遥なの? 遥なのね! 」
わたしは布団の上に飛び起きて、てっきり本田先輩だと思っていた相手に向かって、声を張り上げた。
『ああ、俺。本田先輩じゃない。やっと繋がった。ごめんな、柊。もうあのこと知ってるんだろ? 週刊誌の……』
「知ってるも何も。大変だったんだから。あんなの読まされて、わたし、わたし……」
泣くつもりはなかったのに、遥の声を聞いたとたん勝手に涙が溢れてくる。
『柊に連絡する間もないまま、携帯番号を変えることになってしまって。新しい番号は、このあと先輩の携帯から送っておくから』
「うっ、うっ……。わかった……」
わたしは鼻をすすりながら、やっとのことそれだけ言った。
登録している番号以外は着信拒否に設定しているので、遥の新番号はわたしの携帯では受け付けなかったのだ。
本田先輩の番号は、以前遥が先輩の実家に居候していた時に、もしもの事があった場合の連絡手段ということで、無理やり登録させられていたものだ。
先輩に遥のことを訊ねてみようと思わなかったわけではない。
明日も連絡が取れなかった時の奥の手のそのまた奥の手の手段として、そのことも想定していた……というのは単なる言い訳で。
だってやっぱり、本田先輩は苦手だ。
先輩の携帯に直接電話をする勇気を得るためには、まだまだ修行が足りないようだ。
絶対に必要ないと思っていた先輩の番号が、こんな形で役に立つなんて思ってもみなかた。
削除しなくて良かったとホッと胸を撫で下ろす。
『……それにしても参ったよ。まさかあの時、写真撮られてたとはな。全く気付かなかったよ。こんな事ってあるんだな』
「そうなんだ。遥も知らなかったんだ」
『うん。まあな。でもちょっと前に、しぐれさんの事務所に出版社から打診があるにはあったらしい。もみ消しも可能だったけど、結局、ああいった形で世間にさらされることになってしまったんだ』
「そんなあ……。なんでわかってたのに差し止めしなかったの? だって、あれは全部嘘なんでしょ? 」
『そりゃあもちろん、嘘っぱちのオンパレードだよ。おかげで今朝から俺の携帯も事務所も電話鳴りっぱなしでさ。まいったまいった。おまけにそっちに連絡するのがこんなに遅くなってしまって、悪かったと思ってる。蔵城本家に電話かけて、おじちゃんやおばちゃんが出たらと思うと、それも出来なくて……。ごめん。心配かけたな』
「わたし、いっぱい心配したんだから……。でもよかった。遥の声が聞けて。これで安心して眠れるかも」
そうは言っても、嘘だとわかっていながら出版を許可したしぐれさんサイドの対応が気になる。
あのようなゴシップネタは、しぐれさんにとってマイナス要因になるのは明らかなのに、どうして世間に公表するのを認めてしまったのだろう。
何か裏があるのかもしれないなどと勘ぐってしまう。
ごしごしと涙を拭う。
遥は変わらずいつもの遥だった。
きりっと正面を見据え、毅然とした態度で彼と携帯越しに向き合うことにした。