10.友の怒り
大通りに出て、なかなか通らないタクシーをやっとのこと止めて乗りこみ、アパートの住所を告げて……。
憶えているのはそこまで。
そのあとどうやって家まで帰ってきたのか、シャワーは済んだのか。
はたまた、ちゃんと着替えたのか、自分で布団に入ったのか……。
何も記憶にない。
ただ、泣いて泣いて、気付いたらとっくに日が昇って、明るくなっていて。
顔を洗った時にはすでに昼過ぎだった……ということだけは、なんとなく認識できる。
この日初めて、大学の講義をさぼった。
ハンバーガーショップのバイトはどうしようと迷いながらも、やはり店長に欠勤を伝えるべきだと思い、携帯を手にした。
電源をオンにしたとたん、受信を知らせるメロディーがポロンと鳴り、画面に着信メールがずらりと並ぶ。
十一件も蓄えられたメール。全部遥からだった。
やっぱり、あの悪夢は本当だったんだ……。
夕べの出来事がもう一度鮮やかにわたしの脳裏によみがえる。
遥にすがるように立っていた先輩の横顔が。
ハル、ハルと、彼を呼ぶ彼女のなまめかしい声が……。
とてもじゃないけど、今、彼のメールを読める気分なんかじゃない。
それに、今更……。言い訳なんて、聞きたくない。
遥からこんなに立て続けにメールが来たのは生まれて初めてだというのに、悲しみに埋め尽くされた今のわたしでは、彼の弁明など到底受け止められそうにないからだ。
店長に電話をした後、再び携帯の電源を切って、テーブルに投げ出した。
さて、これからどうしたものかと途方に暮れる。
このままここにいたら遥がやって来るかもしれない。
ごめん、あれには訳があって……とか言い出すのだろうか。
あれだけ衝撃的な場面を見せつけておきながら、どんな言い訳をするというのか。
あんなにべったり先輩と寄り添い、まるで恋人同士のように部屋に帰って来た遥に、全く下心がなかったと言い切れるのだろうか。
わたしが恐れていたのは、きっとこのことだったのだ。
相手が先輩であれ、他の誰であれ、いずれこうなることを薄々予感していたわたしは、あえて彼を遠ざけることで、自分を守っていたのかもしれない。
彼と身も心もひとつになってしまったら、もう後戻りはできない。
彼なしでは生きていけない弱い自分が露呈してしまうのだ。
でも彼はどこかに羽ばたいて行ってしまう人。
わたしを置いて、違う世界に飛び込んで行ってしまう人なんだと、本能的にわかっていたのだ。
遥は何も言わないが、高校時代も幾人もの女性に言い寄られていたのを知っている。
彼がわたしの名前を出して付き合っている人がいるからと交際の申し込みを断った時、その相手の取り巻きから、これみよがしの嫌がらせを受けたこともある。
でも不思議と怖くなかったし、遥への気持が揺らぐこともなかった。
あの頃は、まさか将来こんなことが起こるなんて、想像すらしていなかったからかもしれない。
このまま、いつしか時が過ぎ去って、わたし達の関係は自然消滅という末路をたどるのだ。
こうなった場合、親たちに二人の関係を知られてなくてよかったと思う。
これまでどおり、隣に住む親戚同士というスタンスを貫けばいいだけだ。
わたしと遥が付き合っているというのを知っている人は、いったいどれくらいいるのだろう。
夕べの様子だと、少なくとも里中先輩は知っているようだ。
わたしに向かって、申し訳なさそうに謝っていた。
友人にしても、同じ人を好きになった夢美にはまだ遥のことは言い出せないままだ。
高校時代の親友、柳田沙代こと、やなっぺだけには全て打ち明けている。
他の同級生も皆が知っているというわけではない。
つまり全容を把握しているのは、やなっぺと、おばあちゃんだけ。
そして遥サイドでは、里中先輩と、サークルのメンバー。そして同級生の藤村だけだ。
結局、ほとんど誰にも知られていない関係なのだから、傍目から見れば、わたしと遥が別れようがどうしようが、誰も痛くもかゆくもないというのが現実だ。
こんな状況になっても誰にも相談できないだなんて、本当にわたしって、今まで一体何をしてきたんだろうと情けない気持になる。
生まれた時からずっと一緒だった遥が、わたしの全てだった。
恋人で、親友で、遊び相手で、時には厳しい家庭教師にもなる、人生の羅針盤のような人だった。
彼との関係が壊れた時、一度にその全てを失ってしまうのだ。
そして、十五の秋の日に遥が言ってくれたプロポーズの言葉を、ずっと信じていたのに……。
嫌いな奴とは結婚しないし、多分これから先も他の誰とも付き合わないからって、言ってくれたじゃない。
なのに、なのに……。
結局裏切られたのは、わたしの方だったというわけだ。
こんなことなら、遥を好きにならなければよかった。
プロポーズなんて、受けなければよかった。
とにかく今夜は家を出て、どこかに身を寄せた方がいい。
今こんな状態で彼と顔を合わせても、冷静に話し合うことなんで出来るわけがない。
わたしは都内の大学に通っているやなっぺに、すがるような思いで連絡を取ることにした。
「許せない! 堂野の奴、いったい何考えてるの? 柊、あんた、ちょっとやそっとで、アイツを許しちゃだめだよ! しばらくここにいてもいいからさあ」
高校で出会った親友のやなっぺは、顔を真っ赤にして怒りを露わにする。
電話で今からそっちに行ってもいいとだけ言って、電車を乗り継いでやって来た彼女の家で、わたしはやなっぺと向き合い、ことの一部始終を打ち明けていた。