1.ロラン その1
【初めてお越しいただいた読者様へ】
続こんぺいとうにお越しいただきありがとうございます。
こちらは、続編になります。
柊と遥の青春の始まり、こんぺいとう本編よりお読み下さい。
続こんぺいとう目次の下方に、こんぺいとう本編へのリンクがあります。
【以前からお読みいただいている読者様へ】
ただいま、全話改稿中です。
2007年の連載当初はパソコンで読まれる方がほとんどだったのですが、次第に携帯での閲覧が多くなり、ガラケー用に改行したものを掲載していたのですが……。
2010年を過ぎたあたりから、タブレット及び、スマホでの閲覧が増え始めています。
様々な媒体を通して少しでも快適に読んでいただけるよう、工夫していきたいと思っています。
2008年1月の連載終了時点と、大筋では変更はありませんが、サブタイトル及び内容の区切り等、各所に変更箇所があります。
小さなエピソードが新たに加わった箇所もあります。
終盤に新エピソードも加わっております。
今後とも続こんぺいとうをどうぞよろしくお願い申し上げます。
今日の夕方五時に提出締め切りが迫っている近代日本文学史のレポートは、結局最後まで書き上げることができなかった。
明治時代の文豪の名が中途半端な位置で途切れたまま、レポート用紙のまん中あたりに鎮座している。
そもそも夕べ、テレビをつけたのがいけなかったのだ。
高校時代にたった一人でわざわざ映画館に足を運んで観たものなのに、解説者の力説に誘われるように、ずるずるとそのまま画面に釘付けになってしまった。
次はああなって、その先はこうなって。
わかりきった筋書きを辿るのも全く苦ではなかった。
そしていつの間に眠ってしまったのだろうか。気付いたら朝。
ほんのちょっぴりうたた寝しただけだと思っていたのに、悲しいかな、すでに何時間も経っている現実に愕然とする。
こぼれんばかりの朝日が淡いクリーム色の小花模様のカーテンを通過して、無情にもこたつに突っ伏しているわたしの背中に、極上のカシミアのストールのごとく柔らかくふんわりと降り注いでいた。
年中出しっぱなしの勉強机代わりのこたつは、四月だというのに、まだ正方形の布団をまとったままだった。
日本人のオアシスでもあるこのこたつが、しばしばこうやって、わたしを窮地に追い込むのだ。
身を傾けて洗面所の鏡を覗き込む。
どうしようもないほどぼさぼさの髪を手櫛でなでつけるように整え、マスカラひと塗りと無色透明のグロスでメイクは完了。
生成りのチノパンツと薄いグリーンのTシャツ、あとは白いパーカーを羽織っただけというありきたりの格好で、アパートを出た。
電車を降りて駅から大学までは、歩けば二十分。バスに乗れば、もっと早くキャンパスに着く。
だが、常時資金不足のわたしには、バスはあまり縁のない乗り物だった。
親に住んでいるアパートの家賃と学費を払ってもらっている上に、生活費の仕送りまで上乗せして頼むだなんてことはしたくない。
家庭教師とファストフードの店員のアルバイトで、食費その他もろもろをなんとか捻出している。
もちろん光熱費もそこから支払わなければならない。
というわけで、いつもぎりぎりの生活を強いられている。
けれどそんな窮屈な日々の中で、ひとつだけ自分に許していることがある。
それは駅から大学までの道の途中にひっそりと店を構えている喫茶店ロランで、ゆっくりと紅茶を飲むことだ。
サーバーごと運ばれてくるので、たっぷり二杯は飲める。
しかし、しかしだ。紅茶だけで五百円という価格は、はっきり言って、大学生のわたしにとって、大変贅沢な一品であることはゆるぎない事実だ。
おまけに、今風のカフェに比べるとレトロな感じは否めず、ランチメニューも少なく、サンドイッチとピラフくらいしか選べないのも正直不便だったりする。
そのせいか、学生の客はほとんど見かけることはなく、いつも店内は静かで落ち着いている。
本を読む人、何かをノートに書きとめる人、ただただ、携帯を操っている人……。
ゆっくりとした時が流れるこの隠れ家を、最近とても気に入っているのだ。
月曜の午前中と木曜の昼過ぎは、誰にも邪魔されず、ひとりで紅茶を飲みながら過ごすひと時が、ささやかな幸せタイムになりつつあった。
今日は期日の迫ったレポートを仕上げるために、ロランの重い木の扉を開けた。
ちょっと奥まったところにあるお気に入りの席は、わたしが来るのを待っていてくれたかのように、黙って温かく迎えてくれる。
複雑な織り模様のレースのカフェカーテンが掛かっている出窓から、時折見える学生の姿を目で追いながら、注文した紅茶が来るのを待った。
大学生活も二年目になる。でもまだ、キャンパスライフというものには慣れないままだ。
つい先日も、今年度の新入生に馴れ馴れしく声をかけられたことがあった。
同じ一年生だと勘違いされたのだろう。
同じ高校からこの大学に進学した人が少ないのもあって、大学内での知り合いは、片手の指で足りるくらいしかいない。
バイトに精を出すあまり、結局サークルにも所属しそびれ、こうやって一人で過ごすことが多いわたしは、いつまでたってもよそ者のまんまだ。
でも、昔から連れ立ってトイレに行くような、女子高生らしいふるまいが苦手だったのもあって、こんなおひとりさまも、別段苦痛ではない。
かえって気楽に感じるのは、この際非常にありがたいと思える。
五分ほどすると、注文したアッサムティーが砂時計と共にテーブルに運ばれてきた。
「お待たせいたしました。砂時計が終了しましたらレバーを引き上げて下さい」
急須のようなぷっくりとした形の透明なガラス製のサーバーと金のふちどりのカップが、テーブルの上に並べられる。
かわいらしい砂時計も一緒だ。
最後の砂粒が落ちるのを見届けてから、茶葉の入った容器がぶら下がるようにくっついたレバーを引き上げ、横に倒す。
何ともいえない深い色をしたアッサムティーを、英国製のティーカップの中に注ぐと、ゆらゆらと小さな波を立て、やがてそのまま静まっていった。
このティーカップは見覚えがある。
実家の隣に住んでいる綾子おばさんのお気に入りのカップと同じシリーズの物だ。
おばさんの誕生日のたびに旦那さんである俊介おじさんが、一客ずつプレゼントしていたものと同じ柄だった。
おばさんの家のカップボードには、ティーポットやミルクピッチャー、シュガーポットも、すべて同じシリーズで並んでいた。
そのイチゴの模様があまりにもかわいくて、でも子供っぽさは感じない洗練された図柄に心を奪われ、ガラスの扉越しにずっと眺めていたのだ。
そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、東京に出てくる直前に一度だけこのカップで紅茶を淹れてくれたことがある。
ようやくわたしも大人として認められたのかなと嬉しくなったあの時を、ふと思い出していた。