Act.9 『理』
ローウェル邸を後にしたエビルは水溜りに反射する光に目を顰めながら、胸ポケットからタバコを取り出すと右の人差し指に小さい火を灯してそっとタバコに火をつけた。
長いこと椅子に座って話をしていたこともあり体は少しだけ固まっていたが、ゆっくりと歩くイレーネにあわせて歩くうちに次第に体も元の調子を取り戻しつつあった。
頭一つ分小さいイレーネの表情はフードを被っていたこともあり窺い知ることは出来なかったが、それでも長い付き合いから今の彼女が酷く上機嫌であるということだけは、エビルにもしっかりと分かっていた。
「良かったな」
普段なら口にしないような言葉であったが、旧友のあまり見ることの出来ない感情の機微がうかがい知れたことの方が、今のエビルにはどこか嬉しく感じられていたのだ。
「貴方の協力があってこそですよ」
「ありがとうございました、エビル」
「一つ貸しが出来てしまいましたね」
「お前に貸しを作ると後が怖いからな、先に恩を売っておいたまでだ」
「ふふ、そうですね」
いつも通りの何気ないやり取りに居心地の良さを感じてはいたが、エビルもそろそろ頃合かと咥えたタバコを小さな箱の中に入れると、先ほど自分の目の前で起きた奇跡の現象についての説明をイレーネに求めた。
「そろそろ教えてくれるんだよな?」
自分の声にぴくっとフードが揺れ動いた気がしたエビルは、静かに隣を歩くイレーネの言葉を待った。
「そうですね。貴方には話しておいたほうがいいでしょう」
そういったイレーネはフードを下ろしてその歩みを止めると、真っ直ぐエビルに向き直ってから言葉を続けた。
「あの子の能力には、大きく分けて二つの点で従来の魔法とは異なる点があります」
「・・・二つ?」
思っても見なかった言葉にエビルは少し驚いたが、その先を促すように目配せするとイレーネは静かに続きを語り始めた。
「エビル、『物体が固まっている』という状態を作りたい時、貴方なら魔法でどのようにしますか?」
「ん、そうだな・・・」
いきなりの質問に一瞬思考が鈍ったが、今までの経験から導き出せる最適解であると思われる答えを、エビルは口にした。
「砂をかき集めて覆っちまうか、物体の周りを氷結させちまうかな」
「そうですね。私も同じ状況なら、そうすると思います」
そういうとイレーネは、二本目を吸おうと手を伸ばしていたエビルからそれを箱ごと奪い取り、一本ずつ右手と左手の掌にタバコを乗せると、小さな詠唱紋を形成した。
すると右手に乗った一本の周りには地面から細かい砂の粒子が集まり始め、左手に乗った一本はその周りが次第に氷で覆われていった。
「これで物体の硬質化は完成ですね」
自分に向けて残ったタバコの箱を手渡してくるイレーネは、にこにこといつもの笑みを浮かべていたが、箱の中にタバコが一本しか残っていないことが分かると、エビルの表情はあっ、といったような表情へ変わった。
「・・・それで、それがどうあいつの能力の特別性と繋がるんだ?」
少し不機嫌そうな声色で話しかけながら、エビルは最後の一本に火をつけると、ゆっくり煙を肺へ流し込んだ。
そしてそうイレーネに質問をした瞬間、何でこんなことにも気がつけなかったのかといった表情を浮かべ、その意図を察したイレーネは一層その笑みを強めながら言葉を続けた。
「えぇ、お察しの通りです」
「イスカは、他の魔法特性を一切持っていないんですよ」
「それこそ砂で覆うための土系統も、氷らせるための水系統も」
思い返してみれば当たり前のことであった。イスカに魔力があり、特異ではあるが魔法が使えると分かったことで、エビルはそんな単純なことにすら気が付くことができないでいた。
しかしそれと同時に、当然のように次に湧いて出てくる疑問を、エビルは少しも精査することなくイレーネに向かってぶつけた。
「なら、あいつはどうやってタオルを硬化させたんだ?」
物が硬化する状態を作るにはどうすればいいのかという質問に、エビルは砂と氷を使った答えを用意し、イレーネもそれについて異論はなかった。
しかしそもそもこの二つの方法では、物を硬化させるという目的は直接的に達成されているわけではない。
実際に砂で覆ったり氷付けにすれば硬化はするが、それは覆った「砂」と、物体の周りを覆う水分を凝固させた「氷」が硬いだけで、その対象の「物体」が硬くなったわけではない。
その上イスカは火、水、土、雷、風といった基礎的な特性すらも全く持ち合わせていないのだ。
そこから導き出される答えは一つしかない。
「単純なことですよ」
「あの子は魔法が発生させる二次的な現象のみを発現させているのです」
「・・・そういうことか」
「彼がやっているのは、魔法による過程を一切無視した、結果だけの発現」
「言うなれば、『結果の直接発現』ですね」
「結果の直接発現、か」
魔法というのはつまるところ、戦ったり、癒したり、生活を便利にする為の道具でしかない。
道具はそれを使う使用者の求める成果を実現させる為に「過程」を築き、それによって望んだ「結果」を使用者へともたらす。
イスカがやっているのはいわば物を硬化させたいというイスカの願いを、魔法という過程をかなぐり捨てて、ただ望んだ結果だけを手に入れるという『魔法という過程を必要としない魔法』なのだ。
「といっても、これもまた私の仮説というだけですが」
そういって苦笑いを浮かべるイレーネの金色の髪は夕日の光を浴びてキラキラと煌き、話していた内容も相まってエビルの目には酷く幻想的に映っていた。
「それが、あいつの物を硬化させるという能力の秘密か」
「確かに、アズガルドの魔法史には存在しなかった力だな」
「えぇ、そうですね」
近代アズガルド魔法史は発見と驚きの連続であったが、その発見の一端を垣間見てしまった自分がエビルは少し誇らしくもあり、それと同時に恐ろしくもあった。
しかしイレーネは、そんなエビルの様子もお構い無しにと話を続ける。
「でもエビル、これでやっと半分ですよ?」
「言いましたよね?彼の力は二つの点で異質であると」
「・・・あぁ」
イレーネがこれから話そうとする二つ目の真実に、エビルは何かに背筋を撫でられたかのような不気味な感覚を覚えていた。
それは先ほどイレーネから説明を受けた一つ目の内容が、正確な答えはわからずともエビルの中でもある種の違和感として芽生えていたからに他ならない。
そしてこれから語られる二つ目の異質な点は、自分の予想をはるかに超えるものだということがはっきりと分かっていたエビルは、最後のタバコをそっと吸殻入れに仕舞い、イレーネの言葉を待った。
「突然ですかエビル、魔法三原則は言えますか?」
「・・・は?」
しかし思っても見なかったイレーネの言葉に、エビルは思わず目を丸くしてしまった。
そんな自分をいつもの表情を浮かべながら見守るイレーネを一瞥し、エビルは指を折りながら一つずつその答えを口にしていく。
「『生成』、『分類』、『構築』の三つだ」
「はい、正解です」
エビルの答えを聞くと、イレーネはふざける様に手をパチパチと叩いた。
魔法三原則は、アズガルド魔法史において古くから変わることなく伝わり続ける、魔法を発現させるために必要なプロセスを謳ったものだ。
魔法の発現に必要な分だけの魔力を『生成』し、望む魔法の形へと『分類』し、最後に発現に必要な術式を『構築』し、その結果として浮き上がる詠唱紋から魔法が発現する。
「魔法が発現するにあたって、絶対避けては通れないこの世のルールです」
「初等科に入ってすぐに教わるぐらい基礎中の基礎だからな」
「まぁ、あいつが知っているかどうかは怪しいところだが・・・」
そう言ってイスカの表情を思い浮かべているのであろうエビルの顔を、イレーネは変わらず見つめ続けた。
そして何故自分が子供でも知っているようなこの世の理を説明されたかの真意を問うため、エビルはイレーネの視線に構うことなく言葉を続けた。
「それで、魔法三原則がどうかしたのか?」
しかし自分でその質問を口にした時、今までに感じたことのない強烈な恐怖心が自分の体中を巡っているような感覚に陥り、エビルは少しだけ唇を震えさせながらその言葉を口にした。
「・・・おい、まさか」
「お前は、この世の理を否定するのか?」
今までになく真剣な表情に、イレーネにはエビルが少しだけ怒っているようにも見えたが、今更語ることを止めたところで真実は変わらないことも、彼女は良く理解していた。
「私が否定しているわけでえはありませんよ」
「真実は常にそこにあって、我々はただそのことに気付くか、気付かないかの二択しか持ち合わせていません」
自分の言葉に研究員らしい見解を見せるイレーネに、エビルは少しだけ寂しさを感じていたが、今はただただ彼女の口から知らされる真実を聞き届けるしかなかった。
「イスカの能力は、恐らく我々が知る魔法三原則と『違うプロセス』を辿っています」
その言葉をきっかけに、イレーネから次々と真実に至るまでの道筋が語られ始めた。
「エビル、思い出してください」
「あの時貴方が見たイスカの能力は、単にタオルを硬化するというものだけでしたか?」
「貴方はあの時、無意識の内に別のことに驚き、恐怖を感じませんでしたか?」
「・・・あぁ、感じたよ」
駆り立てられるように数十分前に目の前で起きた現象を思い出したエビルは、その時感じていた強烈な衝撃の正体を、今になってようやく理解できていた。
「あいつの能力には、『詠唱紋が存在しない』んだ」
「・・・その通りです」
「そしてこれは完全に俺の憶測だから、違ってたら笑ってくれ」
「あいつのあの能力は、『術者による継続詠唱』が必要ないんじゃないのか?」
「笑ったりしませんよ、私も同様にそう考えています」
「私も確証はありませんが、状況がすでにその可能性が十分にあることを示しています」
そう言って笑顔で小首を傾げるイレーネを見たエビルの心には、先ほどまで感じていた恐怖心はすでになくなっていた。
「イスカの能力には、三原則でいう『構築』のプロセスが存在しません」
「そして失われた最終プロセスの代わりを埋めるかのように、彼の能力には『維持』のプロセスが加わっています」
「維持、か」
魔法の発現は基本的には一時的なもので、炎を発現させれば暫く燃え盛った後に消えてなくなり、氷を発現させれば数秒した後には砕け散る。
しかし魔法を発現後、術者が意識を集中して詠唱紋を霧散させないようにすることで魔法を発現させ続けることは可能である。
これを継続詠唱といい、魔法に心得がなくとも意識するだけで実行出来る、簡単な魔法の使用方法の一つだ。
しかし継続詠唱は常に詠唱紋を構築し続けなければならないため、意識をすれば誰にでも出来る反面、集中出来ないような状態ではまるで上手くいかない。
「私やエビルのように、魔力値が高かったり慣れているのであれば、継続詠唱はそう難しいことではありません」
「だがあいつは今まで魔法なんて使ったこともないのに、それをやって見せた」
「それもリアやアリシアとじゃれ合いながら、既に術者であるイスカの手を離れているのに、タオルは『硬化したまま』だったんだ」
「その通りです」
そういって頷いたイレーネの脳裏には、イスカを中心に代わる代わるタオルを手に取る子供たちの姿が映し出されていた。
「それが、魔法三原則のもう一つの顔か」
「はい。もはや全ての魔法を標すものではなくなってしまうかもしれませんね」
「ただ残念ながら、これも全て仮説と推論の域を出てはいませんが」
「それを解明するのがお前の仕事だろ?」
「いや、趣味か」
「ふふ、ワクワクしてしまいますね?」
数百年、はたまた数千年の間揺るがなかったこの世の理を、目の前の旧友と自分の生徒がボロボロに破壊してしまったことに、エビルは畏怖の念を抱く前に飽きれて笑いがこみ上げてきてしまっていた。
すでに日も低くなり、オレンジ色に染まった空を次第に闇が侵食し始めていた。
頬を撫でていた風も今はその温かみをなくし、未だに激しく回転し続ける頭を冷やすには心地よい冷たさになっていた。
「エビルもご協力ありがとうございました」
「いや、稀代の大研究者様の熱弁が聞けて俺も楽しかったよ」
「今は気分が良いので、皮肉とは受け取らないようにしておきます」
居心地の良い距離感に、思わず互いに口元が緩んでいた。
「久々に、やるか?」
「思えば折角の再会だってのに、仕事の話ばかりだったからな」
そういって右手を口の前でくいっと捻るしぐさを見て、イレーネも同じ仕草をして返す。
「アーシャ程飲めませんが、それでもいいならご一緒させてください」
「馬鹿言え、アイツに付き合えるほど俺も強かねぇよ」
最後の命を燃やすように、不気味な鮮やかさを最後にテスカの村は完全に闇に包まれた。
灯明石が照らす道筋を、二人はただ静かに歩いていったのだった。