Act.5 『優しい光』
【同日 14:23 テスカ村南東部:東の森】
「おしおし、ちゃんと追っかけて来いよ!」
『ガウゥゥゥゥ!!』
好き放題に伸びる枝や蔦を掻き分けながら、イスカは森の中をただ只管に走り続けていた。
この森はテスカ村北部にある鉱山地帯まで続く非常に広大な森で、イスカを含め地元の人間でも一度深入りしすぎると戻るのに苦労する程の場所である。
村から近いエリアでは所々方角を示す目印が付いており、基本的にはその目印がなくなる境界線より先へは足を踏み込まないのが、子供の頃から教え込まれるこの村でのルールだ。
しかし今回に限っていえばそういうわけにも行かない。
これがただの人間相手の追いかけっこであれば、村周辺の目印があるエリアだけで行えば済む話であるが、今回の相手はイスカ一人では到底太刀打ちできない巨大な魔獣だ。
時間稼ぎをしつつ、且つ付かず離れずの距離を保つことで自分に注意を向け、村から脅威を遠ざけるには目印が無い更なる奥地へと入る必要があったのだ。
「こっからは流石に未知の領域だな」
背後から聞こえる、魔獣が枝や木々をなぎ倒す音を聞きながら、イスカは目印がこの先なくなることを示す赤い印がついた岩を乗り越え、更に奥地へと足を踏み入れた。
避けられるものは避けながら走り続けていたイスカであったが、既に頬や腕などの露出した部分には赤々と線が入り、不安定な足場を長時間は知り続けていることもあり、既に足には相当な疲労が溜まっていた。
だが不思議とイスカは冷静でいられた。聞こえてくるのは自分の息遣いだけで、先ほどまで聞こえていた枝や葉を踏みしめる音や、ドスンドスンというおぞましい足音はいつの間にか背後から聞こえなくなっていた。
「ははっ!調子も出てきたみたいだな!」
「この分ならなんとかなり、そう・・・」
しかしそう自分で口にした時、イスカは強烈な違和感を覚えた。
それは今の自分と魔獣の鬼ごっこという図式に、無くてはならないものが欠けているような気がしていた。
ガサガサと大きな音を立て、そこに魔獣が居るのは疑いようも無い。今のところ目的は達成できている。
ではこの違和感の正体はなんなのか。
そう思った瞬間、突如として強烈な後悔の念がイスカを襲った。
何故気が付かなかった。何故気が付けなかった。
背後に感じ続けていないといけない「鬼」の気配は、今は一体どこにある?
そんな言葉が脳裏を掠めた時には、既に自分の体を包み込むように巨大な影が迫っていた。
「しっ、しまっ!?」
『ガァァァッ!!』
けたたましい唸り声と共に振り下ろされた巨大な魔獣の手に、イスカの体はいとも簡単に弾き飛ばされ、その体は細枝をバキバキとへし折りながら、一本の巨木の元でその勢いを止めた。
「ガッ!?」
無理やり肺から空気を押し出された勢いで、イスカの視界は急激にぼやけ始める。
自分でもどの箇所を負傷したかが分からない程全身に痛みが走り、その痛みは正常な思考を鈍らせた。
「痛ぇ・・・や、やっちまった・・・」
「足が、動かない・・・」
自分の体が吹き飛ばされると本能的に悟ったイスカは、魔獣の手が体に触れる瞬間一瞬早く足を曲げ、衝撃に備えていた。
お陰で右側面からやってきた強烈な魔獣の一撃は、その狙い通りイスカの右腹部を捉えることはなく、結果として致命傷を避けることが出来ていた。
しかしだからといって今の状況が最悪であることは変わらず、イスカは全身に走る痛みに耐えながら上半身だけでもと、背後に聳え立つ巨木へと体をもたれさせた。
イスカの苦労を知ってか知らずか、巨木は変わらず悠然とその幹を天へと伸ばし、その巨木の周りだけが何故か、ここが鬱蒼とした森であることを忘れてしまったかのように青々とした草原が広がり、日の光が優しく降り注いでいた。
「ふぅ・・・。お出ましか・・・」
額から流れる血が目に入り次第にぼやけ始める視界ではあったが、それでもゆっくりとこちらに向かって歩を進める赤い二つの光は、イスカにはしっかりと捉えらることが出来た。
「流石に、やばいな・・・。完全に足が動かねぇ・・・」
「あー駄目だ、頭もぼーっとしてきた・・・」
段々と見えづらくなっていく赤く染まった世界をイスカは必死になって洗い落とそうとするが、次第にその世界が狭まっていくのを感じ、イスカは自然と笑みを零した。
「あーあ、最後にバーラム、食いたかったなぁ・・・」
「種蒔きも、途中だし・・・ガモンのおっちゃんに怒られっかなこりゃ・・・」
「怒られるといやぁ、あいつから貰ったタオル、駄目にしちゃったなぁ・・・」
自分でも不思議なくらいに穏やかな気持ちで、イスカはぼそぼそと言葉を口にする。
それでも尚その歩みを止めず真っ直ぐにイスカの元へと近づく魔獣に対し、イスカは既に恐怖心を感じなくなっていた。
今思うのは、初めて相対したときに抱いた圧倒的美への感嘆の念。
そしてふと、あの赤い瞳は今の自分が見ている世界と同じような世界を映しているのであろうかと考えた時には、既に魔獣の歩みはイスカの目の前で止まっていた。
巨大な前足が一本、ゆっくりと上空に持ち上がり、その影はイスカの体を徐々に包み込み始める
「リア・・・やっぱり俺は出来損ないの兄貴だったよ・・・」
「シアも、タオル駄目にしちまった・・・ごめんな・・・」
「エザルは・・・特にねぇや・・・」
後悔は無かった。辛いこともあったが、大切だと思える家族や友人にも出会えた。
程ほどに楽しい人生だと思えた。
だからきっと、最期の言葉は感謝の言葉で終われると、薄れいく意識の中で口にした言葉を自ら聞いたイスカは、やっぱり自分は要領が悪いなと改めて思ったのだった。
「・・・ごめん、皆・・・」
注がれる暖かい日差しが遮られ、完全にイスカの体が影に飲み込まれようとしていた。
しかしその時、イスカの頬を風がふっと優しく撫でたと同時に、何かが自分の目の前に勢い良く滑り込んできたことに気が付いた。
既に視界は殆ど見えてはいなかったが、それでも一括りに束ねられた髪と、手に握られて皺くちゃになった犬の絵を、イスカは見間違えることは無かった。
「やっと・・・見つけた!」
「こんな所で何やってるのよイスカ!帰るわよ!」
「あ・・・、シ、シア?」
両手を命一杯広げてイスカと魔獣の間に滑り込ませたアリシアの体は、朦朧とするイスカにもはっきりと分かるぐらい細かく震えていた。
魔獣も目の前に現れた突然の闖入者に警戒をしたのか大きく後退し、再びゆっくりとイスカたちに向かって歩みを始めた。
「ば・・・バカ、何してんだ、逃げろよ・・・っ!」
「馬鹿はあんたでしょう!何でそんなところで休んでるの!早く逃げなさいよ!」
「んなこと、言ったって・・・。足、動かねぇんだよ・・・」
「俺の事はいいから・・・はやくにげ」
「馬鹿言わないの!絶対一緒に帰るんだから!」
そういうと、アリシアは倒れているイスカの背中に手を回すと、思い切り力を入れて持ち上げ始めた。
「んーっ!!!おっ重いっ!!」
『グルルルルゥゥゥ・・・』
「いでででっ!シ、シア!止めて!痛いっ!」
「そんなこと言ってる暇があったら体動かしなさいよ!」
「だから動かねぇんだって!」
尚も自分のことを持ち運ぼうとするアリシアに、イスカも思わず噴出してしまいそうになったが、既にすぐそこまで迫ってきている魔獣を視界に捉え、イスカは改めてアリシアに声をぶつけた。
「おいっ!もう諦めろ!まにあわねぇ!」
「俺の事は置いてさっさと逃げろ!」
「そんなことできるわけ無いでしょ!」
「あんたが居なくなったら、リアはどうするの!誰があの子を守ってあげるの!」
「そ、それは・・・シアにたの」
「ぜ・え・た・い・に!!嫌だから!」
「もーっ!何で動かないのよ!!」
次第に自分に向けられる力が弱まっていくのを、イスカも感じていた。
しかし一度退いた魔獣も、既にその前足が届く距離へとやってきている。
そして魔獣は先ほどと同様に確実に獲物を捕らえようと、その巨大な腕をゆっくりと上げていく。
それでも一向に自分の下を離れようとしない幼馴染の体をすっぽりと覆うように、やがてその巨大な影は動きを止めた。
一瞬でも助けに来てくれたことに喜んだ自分を、思い切り殴ってやりたい気持ちだった。
幼馴染の性格を考えれば、こうなることぐらい予測は出来ていたことなのに。
結局自分は最期まで、大切な人一人すらも助けることが出来ないのかと、全てがスローモーションのように感じられる中、自分と少女へと無情にも振り下ろされる巨大な白い塊を、イスカは静かに見つめた。
「そんなのは・・・嫌だよなぁ・・・」
そしてイスカはボソッと一言呟くと、最期の力を振り絞り背にしていた巨木を左手で思い切り叩いた。
自分でも思った以上に勢いが付いていたが、イスカはその反動でアリシアと魔獣の間に体を滑り込ませて抱きしめると、右手でアリシアから奪いとったタオルを、思い切り魔獣に向けて開いた。
自分でもどうしてそんな行動を取ったのかはイスカにも分からなかったが、今はただ、赤く染まってしまっても変わらずに笑い続ける犬の顔が、酷く頼もしく思えた。
すると突然、先ほどまでイスカが横たわっていた巨木から強烈な光が発せられた。
自分の体を包み込むような暖かさを感じたイスカであったが、そのあまりの眩しさに更に強くアリシアを抱きしめると、その瞳をぎゅっと閉じた。
しかし予期していた衝撃が一向に訪れないことに疑問を感じ、閉じていた瞳を開いたイスカが見たのは、到底信じ難い光景であった。
魔獣に向けて広げていたはずのタオルは風にたなびくことも、しな垂れることも無く、まるで一枚の鉄の板のようにイスカの手に握られ、すぐそこまで迫っていたはずの魔獣は大きく後ろへ吹き飛ばされ、仰向けに倒れこんでいた。
「・・・え?な、何が起きた?」
「固まって、る?え?タオル・・・だよなこれ・・・」
手元でカチンカチンに固まったタオルと、遠くに吹き飛ばされた魔獣を交互に見つめたイスカは、自分の足元でごそごそと動く感触を感じ、急いで声を掛けた。
「おいっ!シア!アリシア!大丈夫か!?」
「・・・え?イスカ?ぶ、無事なの?」
「あぁ、お前も平気か?怪我はしてないか?」
「私は大丈夫・・・イスカが守ってくれたから」
「でも、どうして?何が起こったの?」
頬に少しだけ赤みを帯びさせながら大丈夫と口にするアリシアを見て、イスカは心の底から安堵すると同時に口を開いた。
「俺にもわからない。突然この木が光って、そしたらタオルが・・・って、あれ?」
先ほどまで自分の手にまっすぐ収まっていたタオルは、気が付くと先ほどまでの強度は無くいつものやわらかさを取り戻していた。
「えっ!?あ、あれ!?なんで?」
「そ、それよりイスカ!魔獣が!」
『グルルルルル・・・・!!』
目の前で起きた不思議な現象を再確認する前に、吹き飛ばされた魔獣はその体勢を立て直し、誰が見ても明らかなほどに怒りを顕わにしていた。
「今度こそ逃げるわよ!ほら立って!」
「だーかーらー!動かないんだって!」
「あーもう頑固だなお前は!」
ここまできても譲らないアリシアの意志に、イスカも先ほどより自由が利きやすくなった腕の力を使い、なんとか立ち上がろうと必死に巨木に這いつくばった。
流石にあの魔獣でもこの巨木は倒せないだろうと思い、アリシアの手を借りながらイスカはゆっくりと巨木の裏へと身を隠そうとした。
それでも怒りに身を任せた魔獣は、見境無く周囲の木々を押し倒し、凄まじい勢いで再びイスカたちの下へと突進してきた。
しかしその時、魔獣の咆哮が森中に響き渡り木々からは鳥たちが飛び立っていく中、イスカは自分でもアリシアでもない、全く別の声をはっきりとその耳に捉えていた。
『Gravity:Aggravation(グラビティ:アグラベイション)!』
すると突然、イスカたちに向かって走っていた魔獣は徐々にスピードを落とし、ぴたりと止まったかと思うとまるで伏せをする犬のようにずしんとその身を大地へ落とした。
『グアァァァウウウウウゥゥウ!!』
白い毛を異様なまでに逆立たせ、必死にその身を起こそうとする魔獣であったが、その巨大な体の周りの地面にひびが入ったのを見て、イスカはその時ようやく魔獣が何かに押しつぶされているのかと思いついた。
すると魔獣の後ろからひょっこりと、白と紺の色をしたローブを身に纏った女性が、右手に持った杖の先に詠唱紋を輝かせながらイスカたちに向かって声を掛けた。
「どうやら無事のようですね」
「遅くなって申し訳ありませんでした」
にこにこと笑みを浮かべながら話しかけてくる女性は、ゆっくりとした足運びで魔獣の前まで歩いていき、再び口を開いた。
「もうすぐこちらに警邏隊の方たちがやってきます」
「あなた達は安心して休んでいてください」
「私達・・・助かった、の?」
「えぇ、もう大丈夫ですよ」
優しそうに微笑を湛える女性の言葉を聞き、張り詰めていた糸が切れたようにアリシアはイスカの元で気を失った。
「あ、シア?」
「眠ってしまったようですね。」
「貴方を探してずっと走り回っていたのでしょう?」
「そう、ですね」
静かに語りかけるように紡がれる女性の声は、まるで子守唄のようにイスカには聞こえ、次第に瞼が重たくなっていく感じを覚えた。
「疲れたでしょう、どうか貴方も休んでいてください」
「あぁ・・・そうさせてもらう・・・」
「私はこの子を止めましょう」
女性の言葉に頷いたイスカは、アリシアのそばで寄り添うように横になり、次第にやってくる睡魔にその身を委ね始めた。
すると、再び森の中に声が響き渡った。
『Aqua Void!』
女性は大きく叫ぶと、杖の先の詠唱紋はそのままに、新たに左手の先に別の詠唱紋を作り、大きな水の塊を未だ地面へとひれ伏す魔獣の顔の周りへと発現させた。
『グガッボッボゴバッ!?』
酸素を奪われ苦しそうにもだえる魔獣はずしずしと辺りを振動させていたが、次第にその力も弱まり、数秒後にはその巨体をぴくりとも動かさなくなった。
「これで終了です」
そういうと、女性は同時に詠唱紋を破棄し、それと同時に魔獣の背中が少しだけふわりと浮き、顔を覆っていた水もぱしゃんという音を立てて地面へと飛び散った。
「・・・すげぇ・・・」
薄れ行く意識の中、イスカもしっかりと魔獣が動かなくなる瞬間を目撃した。
あまりの疲れから、瞳をゆっくりと閉じていくイスカには魔獣の体がどんどん小さくなっていくような錯覚を覚えたが、すでにそれを確かめることが出来ないほど、イスカの意識は昏睡していた。
「・・・良く頑張りましたね」
そして頬に感じる優しい感触を最後に、イスカは深い闇の中へと意識を落としていったのだった。