Act.14 『飛翔』
【某日 05:47 テスカ村南部:テスカ村入口前広場】
東の空から注がれる真新しい光が、遠くに見える山脈を鮮やかに彩る。
一年を通して山頂に雪を残すGarena山を視界の隅に、イスカとリアは担いでいた少し大きめの旅行鞄を馬車の前へと置いた。
魔獣の襲撃、王都の学園への進学、自分に魔法が使えるという真実。
一ヶ月という月日をまるで一瞬で走り抜けていったように感じながら、イスカはこの日を迎えた。
今日は王都への出立の日。
既に村の入口前広場には移動用の馬車が止まっており、その隣にはイレーネと、少しはなれてイスカとリアを見送ろうと駆けつけた数人の親しい村人たちが集まっていた。
「お!来た来た!お前のことだから寝坊すると思ってたぞ?」
「あ、ガモンさんおはようございます」
「・・・いや、実を言うと寝てない」
「なんかずっと目が冴えちゃってて全然寝付けなかった」
「なんだ、お前もイッチョ前に緊張するようになったか!ガッハッハ!」
早朝でも変わらず大きな声で笑うガモンを見て、イスカは少しだけ下を向いていた気持ちが持ち上がろうとしている気がした。
しかし今この時になっても自分の目の前に現れない幼馴染のことを思うと、心はそう簡単に落ち着かせることは出来なかった。
あの日、エザルの家で気づかされたアリシアの思いにイスカは自分なりの答えを見つけようと再三手を尽くしたが、今日という日を迎えても尚思ったようにはいっていなかった。
村で見かけても軽く挨拶を交わすだけ、彼女の家に行っても留守にしていると言われるか、部屋から出てこないことをマルクから教えられるだけで、そもそも会話をする時間すら作れていなかった。
その上なにか事情を知っている風なリアに聞いても
--『お兄ちゃんは何もしないでいいから』--
と自分からアプローチを掛けることに釘を刺されるだけで、指を咥えたままこの日を迎えてしまっていた。
そして一人一人から暖かい言葉と選別の品を受け取り、最後の一人と言葉を交わした時になっても、待ち人はイスカの前には現れなかった。
「大丈夫、シア姉は絶対にくるよ」
不安そうな表情を読み取ったリアからそう声を掛けられても、イスカの心が晴れることはなかった。
そうして受け取った餞別の品を馬車へと積み込み、次第に太陽がその光を強めていく中、馬車の隣に立っていたイレーネは手にしていた懐中時計に視線を落とし、二人に向かって声を掛けた。
「お二人とも、時間です」
「出発しますので馬車へとお願いします」
「あ、わかりました!」
「・・・わかった」
イレーネの言葉にすぐさま反応したリアは、手を振る群集に笑顔で手を振り返すと足早に馬車へと乗り込んだ。
自分でもある程度覚悟をしていたことではあったが、実際この瞬間を迎えてしまうと改めて自分の不甲斐なさに呆れ果ててしまっていた。
何とかして見せると大見得を切って誓ったあの日の自分は、きっと今の自分を見たら許さないのだろうなと、イスカは溜息を付きながらゆっくりと馬車に向けて歩を進めた。
そして最後に後悔を無理やり脱ぎ捨てようと、馬車の踏み台に鉛のように重くなった足を乗せた瞬間、遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたイスカは俯かせていた顔を上げ、視線をその声がする方へと急いで向けた。
「ちょ、ちょっとまった~!!」
「まだ、はぁ、い、いかないでー!」
「シア・・・」
一括りにした髪を揺らし太陽の光を浴びながら真っ直ぐこちらに向かってくる姿を見て、イスカは思わず立ち尽くしてしまっていた。
「ね?来るって言ったでしょ?」
そしてリアの言葉を聞き我に返ったときは、既にアリシアは肩で息をしながらイスカの目の前に立っていた。
「はぁ・・・はぁ・・・ま、間に合った・・・?」
「・・・間に合ってねぇよ」
「もう出発の時間すぎたっつうの」
「あ・・・やっぱり?」
久々に彼女と交わす会話の第一声は、自分でも思っていた以上に味気のないものであったが、自然と零れる笑みを、イスカは素直に受け入れた。
そして今まで伝えたくても伝えられなかった言葉を、イスカはゆっくりと口にする。
「シア、ごめん。今までちゃんとお前の気持ちとか考えに向き合おうとしてなかった」
「お前と居るのは居心地が良かったから、多分、その上に胡坐をかいてたんだと思う」
「だから勝手に、シアも喜んでくれると勘違いをしてたんだ」
「・・・うん」
「でも、それでも、やっぱり俺は行くよ」
「新しい道が開けたなら、俺はその先に行きたいし、行かないといけないと思うから」
「それが、今まで俺が受けてきた恩を返す、一つの形だと思うから」
最初に考えていた言葉とは少し違ってはいたが、それでも自分の口から出た言葉に嘘偽りはないと、自信を持って言えた。
そして俯きながらイスカの言葉を聞いていたアリシアも、自分の思いを言葉に乗せ始めた。
「あたしもね、ずっと考えてた。どうして今のままじゃいけないんだろうって」
「魔法が使えても使えなくてもイスカはイスカだし、このままの生活が続けばそれでいいって、ずっと思ってた」
一言一言を噛み締めるように、イスカはアリシアの言葉を受け止める。
「正直言うとね、イスカが取られちゃうって思ったら、心の中がぐちゃぐちゃになってたの」
「イスカと出会って間もない人が私の知らないイスカを知ってて、その人がイスカを連れて行っちゃうって思うと、凄く悲しいし凄い嫌だった」
いつの間にか馬車から降りてきたリアもイスカの隣に立ち、静かにアリシアの言葉を聞いている。
「でもそれは間違いだった」
「イスカはただ自分の力で羽ばたこうとしてて、私はそんなイスカにぶら下がってただけだったんだ」
「あたしも、イスカの傍は居心地がよかったからね」
そしてアリシアは笑顔を作ると、手に持っていた折畳まれたタオルをイスカへと手渡した。
「だから今ここで、私もイスカから羽ばたく!」
受け取ったタオルを広げてみた瞬間、イスカの心は晴れ渡る朝日のような力強い光に満ちていくような気がした。
そこには一匹の犬の男の子が、怖がるように身を縮める犬の女の子を、守るようにしっかりと抱きしめている絵が描かれていた。
それはまさしく、訪れる悪夢のような瞬間から大事な人を守ろうとした、イスカが初めて魔法に目覚めた瞬間そのものだった。
「シア、これって・・・」
「それ作るのに、三日も掛かっちゃったよ」
「ごめんね、避けるみたいな真似しちゃって」
そういって照れくさそうに手を組むアリシアの指には、あちらこちらに包帯が巻かれていた。
そしてそんな彼女の思いを受け取りイスカも大きく頷くと、腰に挟んでいた一枚のタオルを取り出した。
「ならシア、これはお前が持っててくれ」
そういうと、イスカはぱさりとタオルを広げ、アリシアの頭の上からそれを被せた。
「わっ!?な、なに?」
タオルに視界が遮られ上手く把握が出来ないアリシアに、イスカは得意げに言葉を掛ける。
「知ってたか?米の伽汁で洗濯すると、良く汚れが落ちるんだぞ?」
「・・・え?これって・・・」
やっとの思いでタオルを広げたアリシアの目には、真新しいほどに鮮やかな白さを誇り、中央にピースをしながら笑顔を向ける犬の絵が描かれていたタオルが映っていた。
そして次第に涙で溢れるアリシアの頭にイスカは手を置き、大きな声で宣言をした。
「そのタオルがあるところが、俺たちの帰る場所だ!」
「俺たちが帰ってくるまで、しっかり預かっててくれよ!」
「・・・うん!二人とも、いってらっしゃい!」
「あぁ、行ってきます」
「シア姉!元気でね!」
涙と笑顔を一杯に湛え、アリシアは二人を送り出し、イスカとリアはその声を背に静かに馬車へと乗り込むと、イスカは向かいに座るイレーネに向かって声を掛けた。
「悪い、遅くなった」
「・・・もうよろしいのですか?」
「あぁ、行こう」
イスカの言葉を聞いたイレーネは少しだけ馬車から身を乗り出し御者に一声掛けると、馬車はゆっくりと速度を上げて走り始めた。
繰り返し遠くで聞こえるいってらっしゃいの声が次第に馬車が走る音にかき消され、やがてその声は完全に聞こえなくなってしまっていた。
「お疲れ様でした」
「ちょっと予定より遅れちゃったな、ごめん」
「いえいえ、しっかりと挨拶は出来ましたか?」
「あぁ、出来たよ」
いつも通りの優しい声色で話すイレーネの顔を見ずに、イスカは馬車の淵に頬杖をつきながら流れていく風景を眺めた。
最後の胸の支えもとれ、今にも暴れだしてしまいそうな巨大な感情のうねりを押さえつけていた力を少しだけ抜こうとしたとき、イスカはイレーネに声を掛けられた。
「良いご友人に恵まれましたね」
「・・・羨ましいだろ?」
「ええ、とても」
「・・・頑張りましたね」
一瞬の気の緩みから、イレーネの言葉はいとも簡単にイスカの心に侵入してきた。
頬を撫でる風がいつもと違う感じに思えたイスカは、霞み始める風景を最後に手にしていたタオルをぎゅっと顔へと押し付けた。
しかし細かい馬車の振動が何度か続いたとき、隣に座っていたリアの頭がかくんと下がったのが視界の隅に入ったかと思うと、途端に自分の肩に少しだけ重みが加わったのを感じた。
「・・・リア?」
「眠ってしまいましたか」
「大分気を張っていたようですし、このままにさせてあげましょう」
「そうだな」
「リアはいつも、頑張りすぎるから」
小さい体で誰よりも元気に声を出し、最後の別れの瞬間も一時も涙を見せていなかったリアの寝顔には、少しだけ雫が線を作っていた。
いつの間にか小さかった妹が、自分の知らないところでこんなにも強くなっていたんだなと、イスカはどこか嬉しくもあり、頼られなくなっていく光景を思うと寂しくもあった。
風に靡く青々とした草原の葉が奏でる音色は止むことはなく、起伏の激しいテスカ周辺特有の連続した緩やかな斜面は、昔のソリ滑りをした時の光景を思い出させた。
そしてふと、そんな光景の中で不自然に揺れる青長い草が視界の隅に移り、代わり映えの無い世界に変化を求めようとしたイスカは、その場所を視界の中心に捉えるために視線を動かした。
しかしそれと同時に目の前に座るイレーネから声を掛けられ、イスカは付いていた頬杖を解くと寝ているリアを起こさないように顔だけ向けて答えた。
「イスカ、一つ聞いてもよろしいですか?」
「ん、どうしたのさ、そんなに改まって」
「あの、聞いても良い事なのかずっと悩んでいたんですが・・・」
「イスカの、小さい頃のお話をお聞きしたくて」
もっと凄い話をさせられるのかと身構えていたイスカは、おどけるような仕草で言葉を続けた。
「あぁ、そんなことか。別に隠しているわけじゃないし、いいよ」
「ただ小声でな?リアの奴俺が自分でその事話すと怒るんだよ」
イレーネのお願いに、イスカは思い出すように少しだけ視線を上へと向けて話し始めた。
「ただ俺も当時の記憶はあまり無いから、これは後で村長、シアのお爺ちゃんから教えてもらった話だ」
リアがちょうど五つを数えようとしている時、リアの母であるSaria Lowelが東の森で、ふらふらと焦点を合わせずに歩く一人の男の子を発見した。
サリアはすぐさま男の子を村へと連れて帰り、村の住人の意見を押し切り村長への直談判を経てようやくローウェル邸へと迎えることが出来た。
家へ連れてきたサリアは一生懸命、男の子に何故森の中にいたのか、親はどこにいるのか、自分の名前は言えるかと語りかけたが、どの質問にも男の子は知らないと答え、村にたった一つしかない病院ではこの子は記憶喪失であると診断された。
それでもサリアは男の子を手放そうとはせず、再び家へと連れ帰った。
その後にイスカと名づけられた男の子は口数も少なくどこか儚げな雰囲気を漂わせていたが、サリアの夫でリアの父親でもあるHans Lowelの理解もあり、イスカは歳が近いであろうリアと共にその愛情を一身に受けて育てられた。
始めは感情の機微を表さなかったイスカも、リアやその友人のアリシアやエザルと一緒に遊ぶことで次第に表情が豊かになり、この頃になると既にリアはイスカのことをお兄ちゃんと呼ぶようになっていた。
しかしイスカがローウェル邸に身を寄せてから一年が経とうとしていた頃、サリアは村から忽然と姿を消した。
サリアを探すために村人が総出で駆け回り捜索は五日間にもおよんだが、その結果発見されたのは東の森奥深くで腹部を血だらけにしてうつ伏せで死んでいるサリアの姿であった。
当時未だ幼かったリアは母親の死を正しく理解していなかったが、そんなリアと手を繋いで埋葬されるサリアの姿を見ていたイスカは、目の前の状況が分かると声を出して泣き喚いた。
そしてその後の生活は、誰が見ても明らかな程に様変わりしていった。
人当たりが良く、いつも笑顔を浮かべていたハンスの顔からは一切の感情が消え、まるで何かに取り憑かれたかのように一日中自室に篭り切りの時もあれば、未だ日も昇らぬうちにどこかへ出かけて行く時もあった。
そしてそんな父親のことが気になり、一度だけ鍵の掛かったハンスの自室に忍び込んだイスカが見たのは、今でも思い出すと身の毛もよだつような光景だった。
その部屋の中は綺麗好きだった父親からは想像もつかないほど、辺りに開きかけの本や書きかけのスクロールが足の踏み場も無いほどに散らばり、そして一番に目を引いたのは、部屋の天井を命一杯に使って描かれた、謎の赤い紋様だった。
あまりの恐怖にイスカはすぐさまリアを連れ立って家を飛び出したが、結局帰る場所はあの家しかないことに気が付くと、とぼとぼとリアと手を繋ぎながら家へと戻った。
その後も実の子であるリアとも会話をせずに、家と外を行き来する生活が一年は続いた。
しかしある時、そんな変わり果てた父親も、リアとイスカの前から突然姿を消した。
そしてその日は、奇しくもイスカがサリアに拾われた日、記憶を持たないイスカの新しい誕生日の日であった。
その後の捜索はサリアの一件もあり、東の森を中心に一週間掛けて行われたが、死体はおろか足取りを掴める物すら見つけることは出来なかった。
しかしいつかはこんな日が来ることを心のどこかで予想していたイスカは、失踪から数年後に立てられた形ばかりの父親の墓石を目の前にしても、涙が出ることは無かった。
その代わり、自分の手を握りじっと俯いていたリアは、家に戻った後に一晩中イスカの元で泣き続けたのだった。
「・・・その後のハンスさんの行方は、分かっているのですか?」
「いや、分かってないよ」
「一応最後に王都で目撃されたって聞いたけど、それも本当かどうかわかってないし、もう十年も昔の話だ、とっくに捜索願も破棄されてる」
「形式上、父さんはもう死人扱いだ」
「・・・そうですか」
予めエビルから表面上の説明だけは受けていたイレーネであったが、実際に本人の口から聞く話はイレーネの心に大きな衝撃を与えた。
「やはり軽々しく聞いていいお話では無かったですね」
「すみませんでした」
「まぁ聞いてて面白くもない話ではあるよな」
「でも、軽々しくなんてないだろ?」
「聞く前から辛そうな顔をしてたのを見れば分かるよ」
「・・・そうですね」
「ありがとうございます、イスカ」
「いえいえ、どういたしまして」
いつものイレーネが受け答えるような口調で返すイスカに、イレーネは少しだけ心の闇が晴れていくような気がした。
村を出てから一時間も経つと、辺りの風景は既にイスカが知る風景とは少し変わり始めていた。
傾斜の多かった草原地帯はすっかり遠くまで見渡せるほど平らになり、遠くには街道に沿って走るRem Riverが、太陽の光を反射してキラキラと光り輝いていた。
リアも相変わらず寝息を立てていたが、何回目か分からない馬車が伝える振動の後にごろんと体の向きを変え、今はイスカとは反対側の馬車の壁に寄りかかるようにして寝ている。
そしてそんな妹の顔を見つめていたイスカに、イレーネは再び口を開いた。
「ではイスカ、今度は私から話したいことがあります」
「実は例の魔獣と思しき姿が、テスカ村から少しはなれた丘陵地帯で目撃されました」
「え?本当か?」
突然のイレーネの報告に、イスカは改めて隣に座るリアが眠っていることを確認すると、再びイレーネに視線を戻した。
「はい、私が個人的に動かせる警邏隊が発見したと、今朝方連絡が入りました」
「え、イレーネが動かせる警邏隊・・・?」
「主席研究員ってそんなことまでできるのか?」
「正確に言えば、一時的に私が動かすことを許可してもらった、ですね」
「国軍も捜索を断念して、既に王都へ部隊を引き払ってしまっていましたから、代わりにテスカを見守っているという環境を残しておきたかったのですよ」
「そこまでしてくれてたのか・・・」
「貴方を皆から取り上げてしまうのですから、このくらいはしないとバチが当たりますよ」
「嘘付け、神様なんて信用してないだろイレーネは」
「自分の目と耳で見聞きしたものしか信じて無いくせに」
「あら、私だって教会で祈りを捧げることぐらいはしますよ?」
「友人の重喫煙が直りますようにですとか、友人の酒癖が直りますようにですとか」
「やっぱり自分の事じゃないじゃん!」
イスカの突っ込みに口に手を当てて笑っていたイレーネであったが、改めて本題に戻すように再び表情を引き締めて言葉を続けた。
「ただ、目撃した情報に一部不可解な点がありまして・・・」
「実は目撃した者の話しによると、確かにその見た目は白い毛並みで、瞳も赤かったそうなんです」
「ですがその体は、その辺にいる普通の野犬と同程度の大きさでしかなかったと」
「・・・え?」
「いや、それってまずくないか?」
「俺たちが見たのとは、別のダイアウルフが居るっていう事か?」
「流石にそれは考えたくはありませんが、可能性の一つではありますね」
可能性の一つというイレーネの言葉に、他の場面を思い浮かべることが出来なかったイスカは、正直にそのことをイレーネに告白した。
「可能性の一つって、他には何か考えられるのか?」
するとイレーネは少しだけ間をあけた後、イスカの目を見て話し始めた。
「私たちの見た魔獣と、同一であるという可能性ですね」
「なんらかの現象で魔獣の体が小さくなり、その状態が目撃された、と」
「いや、流石にそっちの可能性のほうが低いんじゃな・・・い・・・?」
「どうかしましたか?」
しかしイレーネの言葉を聞いたイスカは、ふとあの時の場面を思い返し、一つ一つ自分でも確かめるようにイレーネに話しかけた。
「いや、実はイレーネが魔獣を倒して俺が眠りに付くほんの前に、魔獣がちょっとずつ萎んでいくような感じがしてたんだよ」
「あの時は凄い疲れてたし、瞼も閉じかかってたからただの錯覚だと思ってたんだけど、今にして思うとあれって本当に縮んでたんじゃないのかなって」
「そうですか・・・」
静かにイスカの言葉を聞いていたイレーネであったが、暫く一人で頷いていたかと思うと驚くような言葉が飛び出してきた。
「やはりイスカも見ていましたか」
「やはりって、じゃあイレーネもあの時見てたのか?」
「えぇ、私もイスカと同様のイメージは感じていました」
「ただ、イスカよりは少しだけ状況証拠はありますね」
「状況証拠?」
「えぇ。イスカはあの時、魔獣の体に沿って地面が陥没していたのを覚えていますか?」
イレーネの問いかけに、イスカは自分へと突進を始めた魔獣が途中でその勢いを殺し、勢い良く地面にひれ伏す場面を思い返していた。
「覚えてるよ」
「体を何か目に見えない巨大な物で押さえつけられてるみたいな」
「あれは『グラビティ』という魔法で、対象の周りの重力に干渉する魔法です」
「比較的簡単な魔法で、警邏隊を始めとする治安部隊が対象を拘束する際に良く用いる魔法です」
「あぁ、だからあの時魔獣は重力に逆らえずに地面に倒れてたのか」
「それこそ確かに、魔獣の体に沿って地面が陥没するぐらいに」
「でもそれがどうかしたのか?」
「実はあの後、アルマに魔獣の解析をさせていたのは以前も言いましたよね」
「解析は一分ほどの時間が掛かったのですが、解析を始める前と後で、魔獣の体と陥没した跡の間に、隙間が出来ていたのですよ」
「しかしその後駆けつけてきた警邏隊に視線を送り、指示を出して視線を戻した時には、既にその姿は完全に消えていました」
「・・・イレーネが目を離している隙に急激に縮んで、その場から逃げ去ったってことか」
「えぇ、恐らくは」
「イスカから話を聞くまでは私も勘違いや見間違いの類だと思っていたのですが、この様子だと二匹目の可能性より同一であるという可能性のほうが高くなってきましたね」
イレーネの言葉は、自分が目撃した曖昧なものよりも何倍もの説得力を帯びていた。
「どちらにせよ、白い毛並みと赤い瞳というダイアウルフの特徴は同じです」
「サイズが小さくなっても魔獣は魔獣ですし、警邏隊には引き続き監視をお願いしています」
「普通の魔獣であれば、一度自分がやられた場所には訪れはしないんですが、普通ではないのはこれまでのことで明白ですので」
「だな。ありがとう、イレーネ」
「何も無ければいいけど・・・」
「何もさせませんよ」
思わず口を付いて出た言葉に力強く返事をするイレーネに、イスカは少しだけ乱れ始めていた心に再び安らぎが訪れようとしているのを感じた。
そしてふと、その安らぎが大きく開けた口から外へと出て行くのを見たイレーネは、再び笑みを湛えながらイスカに提案をした。
「イスカも少しお休みになったらどうですか」
「早起きした上に私のおしゃべりにも付き合って疲れたでしょう?」
「そう、だな。ちょっとだけ休ませてもらうよ」
「はい、ゆっくりとお休みください」
微笑みイレーネの表情を最後に、イスカは静かに頭を横にして瞼を閉じると、やがて訪れた眠りへの快楽に身を委ねていった。
村を出発し、既に二時間が経過しようとしていた。