月の夜に
量販店の黄色く塗られた建物の上に、半月にはまだ満たないオレンヂ色の月が架かっていた。まるでその月の裏側から翻るように男の黒い影が飛び降りた。
ただっ広い駐車場の真ん中で、男の履いているスニーカーのソウルがアスファルトをじりじりと踏み締める音が聞こえる。最後の煙草をくわえて火をつけると、箱をセロファンごと握り潰し足元に捨てた。
「ショータイム。」
男は呟いて歩きだした。
「お疲れしたあ。」
俺は閉店処理を終えて店を出た。時計は十時を周っている。店長はまだ、バソコンに向かって仕事をしていた。
「付き合ってらんねえ。」
店長は仕事が好きというより忙しく仕事をこなしている自分が好きというタイプの人間だ。部下が自分より仕事ができるのが許せない。
--正直俺の方ができるぜ。
いつも思うのだが、そんなことはおくびにもださない。
「さすが、店長っすねえ。」
そう言っておだてておくと、なにかとやりやすい。
入社して三年。新店舗のインショップのマネージャーになって一年経つ。仕事はまあまあだが、扱いにくいのは、パートのおばちゃん連中だ。なにかと自分の存在意義を求め主張したがって困る。面倒だ。
俺は通用口の階段を降りながら、百円ライターで煙草に火を点けた。肺いっぱいに吸い込んだ煙は濾過されて吐きだされる。蒼く澄んだ煙が空気の流れる方向へゆっくり広がってゆく。
半月に満たない月は漆黒の闇をカッターナイフで切り取ったように、片頬で不気味に笑っている。
俺は歩きながら遠隔操作で車のロックを解除する。車はライトを点滅させカタリと軽いのりでロックを外す。さも自分の意思であるかのように。
「疲れた。だりぃ。」
俺はエンジンもかけないまま、ゆっくり煙草を吸っていた。
自宅まで国道を海沿いに走って三十分はかかる。
俺はネクタイを緩めた。ワッシャー加工のカジュアルシャツの衿が渇いた音をたてた。通用口の脇にある自販機で買った缶コーヒーを開け無糖の埃臭い苦みを胃に流し込む。
家へ帰って飯を食ったら、後はシャワーを浴びて寝るだけだ。
--そうだ、コンビニ寄ってくか。
エンジンをかけようとキーを差し込む。それとほとんど同時に助手席のドアが開き、男が乗り込んできた。
「おい、なんだよ。あんた」驚きが先にたって、それだけ言うのがやっとだった。「まあそう吠えなさんな。」
男はドアを閉めた。ドアは湿った重い音をたてた。そして男は無遠慮にシートをリクライニングさせ、スニーカーを履いた足をダッシュボードの上に投げ出した。
カモフラージュ柄のカーゴパンツにカーキとブラックのタンクトップをレイヤーで着ている。髪を無造作にかきあげた男の顔が月光に照らしだされた。
俺は息が止まりそうになった。
ドッペルゲンガー?
助手席に座っているのは、紛れもなく俺だ。
月夜に見るドッペルゲンガーは、死の前兆だと何かで聞いた。
とにかくなんで俺が俺の眼の前にいるのか理解出来ない。
それは幻のように不確かなものではなく、リアルな存在で俺にせまってくる。
「俺はお前じゃないお前に似て非なる者。」
男はそう言って人差し指と中指を立て煙草をせがんだ。
「それってどういうこと。あんたは俺に似ている誰かってことか。」
唇が震えている。とても冷静ではいられない。
「だけどあんたのその肉体は、俺の肉体さ。言ってることわかる?」
「訳わかんねえ。いったいなんなんだ。」
声がうわずっている。俺が焦れば焦るほどもうひとりの俺の思うツボにはまっていくようだ。
「俺は覚えている。でもお前は覚えていない。お前は生まれてくるはずのなかった魂だ。生温い羊水の中で、生まれるはずのないお前の魂と、生まれようとする俺の魂が、
入れ替わった。退屈になったら、また入れ替わろうと約束して。そろそろどうかな。俺は自分を押さえる事に退屈し始めているんだ。」
どうよ。俺と入れ替わろうって事。納得いかない。そんなことが本当にあるなら、俺の存在はどうなる。お前はいままでどうやって生きてきた。
「そんなことは、お前の知った事じゃない。俺はお前のここん中にずっと生きてた。」
もうひとりの俺が俺の心臓のあるあたりを拳でこづいた。
だけどまだ俺は俺の人生に退屈なんかしていない。
ふいに駐車場の電気が消え、あたりには本当の闇が訪れた。道路をへだてて、コンビニの健全で透明な明かりが見える。
「忘れんなよ。」
耳もとで暖かい息が揺れた。
助手席を見ると、誰もいない。血の気が引いた。背筋がぞわっと泡立つ。
オレンヂ色の月の面をなにかが横切った。
俺は慌ててエンジンをかけ訳も分からず車をとばした。
左側の窓に月が張り付いたようにいつまでも追いかけてきた。
あの夜のことは、忘れていない。誰にも話さずみぞおちのあたりに抱えている。けれどどうやら生きていてもいいらしい。ひとつ救われた。ただ、あいつの揺れた息の暖かさがまだはっきりと耳たぶのあたりに残っている。何度振り払っても纏わりついて離れてくれない。
変わったことも何も起きていない。しかしあいつの事は、なんとか時間が忘れさせてくれるだろう。
「まだ帰らないの。頑張るんだね。」
パートのおばちゃんがタイムカードを押しがてら、声をかけていく。
そこそこにしていた仕事が、最近調子いい。店長に任せきりにしていたことも、自分でこなしてゆく。
--今にあんたを飛び越してやる。
ちっぽけな野心さえ芽生えてきた。俺はふっと薄ら笑いを浮かべる。そう、他には何も変わらない。
あいつの残した最後の言葉が記憶の海馬の奥底に埋もれ、思い出す事すら困難になったとしたら。
その時こそ、俺の魂が生まれ変わったといえるだろう。
俺は、清々しい。ようやく歯痒さから開放されたんだ。
仕事を終えて車に乗り込むと、灰皿を引き出し樹脂の底で煙草を揉み消す。消臭ビーズに灰が絡んで粉々になる。俺はおもむろにエンジンをかけた。
今夜の月は螺鈿細工のように白く光を放っている。
--あいにくだったな。
俺ともうひとりの俺の意識は混沌としたカオスの中でそのうち分離を始めるだろう。
沈殿してゆくのはお前だ。
俺はアッシュに染めた長い髪をかき上げた。無造作に。
車は総合病院の仄青い緊急外来の灯の脇をすり抜け国道へと緩いカーブを曲がって往く。後は道なりだ。
さあ月よ。どこまでも付いて来い。




