赤い風船
26年前に書いてるね・・・
国を守る赤い風船を割った子どもたちは、その罪を償いに出かける。
昔、広い公園にはいつも一人の風船屋がいた。
赤やピンクや青や黄色の風船を配ったり、細長い風船で犬や兎を作って見せてくれた。
そんなことを青年は肩車している小さな息子に話して聞かせた。
父親は風船屋の名前を確かに聞いたはずなのに、どうしても思い出せない。
だが、息子に語るのに風船屋ということだけ教えられればそれでいいのだ。
第1章
シランという種族はそうじて手先が器用な妖精だった。
身のたけは七つ八つの子供と同じぐらい。肌がしわしわで、指が長く、耳たぶがびよーんと長い。首が短いし、肩は盛り上がっているので頭が胸にうずまっているようだった。足も手も短く太い。目がまんまるで大きく、犬のような顔だった。
およそ、かわいらしい生き物ではなかったが、友好的であったので、人間たちと親しく交流はあった。
シランには一人の立派な建築家がいた。
カンパニュラという国の人間の王様は彼に城の設計をお願いして、それはそれは美しい立派な城を建ててもらった。
純白の塔に、屋根はねじ巻き螺旋をえがく。窓の一つ一つにはツタが這っているようにかたどられた格子や手すりがつけられ、バルコニーは景色のよい西側に設置されて、使い勝手もみばえもよい大きな城ができあがった。
建築家はいっとう大きな塔の屋根に赤くて丸い玉をかざりたかった。
だが、とんがった斜面に置くため、それの重みと強い風でかざりは滑り落ち、それがかなわない。それに腹を立て、建築家としてのプライドがそれを諦めるということが許せずに何度も何度も挑戦しては失敗した。
城を造ることを頼んだ王様はそんなシランの建築家がかわいそうで、そんなに完璧に完成しなくてもいいからと言ってはみたが、彼は聞き入れない。
「丸くて赤い物なら、なんでもいいと言うのなら」
家臣の一人が機転を効かせ、風船を一つそこにくくりつけた。
赤い風船が宝玉のように屋根を飾った。
建築家はたいそう喜んだ。
「日のあるうちにこれがこうあるかぎり、この国は安泰だろう」
喜びのあまり口にした彼の言葉がまじないの誓約になるほどに。
そして、カンパニュラのソラヌム城が生まれて百年が経とうとしていた。
毎朝、日の出の前に風船を作ってくくりつける役目を担った風船係の若者はいつものようにその仕事をしていた。
真紅の風船は赤く、大きい。まるで熟しきった上等なリンゴのようだった。
若者は高い背をいっぱいに反らして、窓から上半身を出し、紐のついた風船を一つふんわりと飛ばした。
屋根の上に到達し、彼はその紐を手すりにしばった。
シランの建築家の言葉はこういう呪いになった。
「日の出る間にこの屋根の赤いかざりが失われることがあれば、この国は滅びるだろう」
建築家はそんなことは微塵にものぞまずに、ただ嬉しい気持ちを表しただけだったが、妖精の言葉は口にすると良くも悪くも作用する。
風船がうまく屋根をかざったのをたしかめて、若者はほっと胸をなで下ろした。
途端、風を切る音がして、ぱんっと風船が破れた。
下を見れば子供が二人、パチンコを手にして当たった当たったときゃあきゃあと喜びはしゃいでいる。
この日から朝日は・・・・・・・。
上らなかった。
夜明け前のうすい闇。
紫がかった神秘的な東の夜空はそのまま固定されている。
「いかなることか」
「いかなることか」
風船係はこまったようにいった。
「たぶん、風船がわれてしまったから、こうなった」
新しい風船はなぜか全部穴が開いていた。
国中から風船は消えてしまった。
「割った子らに罰をいかにする?」
「極刑なり」
王様達が騒ぐ中で風船係は静かにいった。
「落ち着きましょう。僕が悪いんですから、首は僕のをはねてください。悪戯のつもりでやっちゃった子供達を罰するわけにはいきませんから」
赤いフェルト絨毯の上で子供達は手に手を取って震えている。
「パチンコで、あんな高さまでよく届いたな。すごいな。でもな、人のものを狙っちゃいけない。わかったら、次からは気をつけるんだぞ」
風船係は二人の子供の頭に手を置いて、優しくいった。
こくこくと頷いて、涙目の少年と少女は風船係を見上げた。
少年の名前はイキシア。少女の名前はストケシア。
どちらも黒髪に黒い瞳、浅黒い肌の元気そうな子供たちだった。イキシアの方が親指の爪ほど背が高く、ストケシアは髪が掌の長さだけ長い。双子の兄妹だった。
「巫女がおいでになりました」
「おお。この凶事を、ささ早く、ご占朴願おう」
しずしずと少女の巫女が王の間に入ってくる。
白銀の衣装は長裾長袖。薄い青の上着の裾が床に引きずられる。赤い色の混じった黄金の髪には銀の冠。
巫女姫ユリ。
おごそかに、彼女は言った。
「もはや、風鞠の飾りは役に立たず。そこな青年と罪を犯した子らは共に新しい飾りを捜す旅に出るべし。これから十昼夜、夜は明けぬ。それまでに見つからねば、この国は滅ぶなり。占朴、確かに告げぬ」
王ルドベギアは聞くやいなや、大声で言った。
「ああ、なんたることかや? この者達に国の命運をかけねばならんとは」
「一刻の猶予もなければ、ただちに三人の旅支度をするがよかろう」
「これで良いのかや」
ユリに問われて、窓に腰をかけている青年は小さく笑った。
「上出来です」
「十日の間、日が上らぬはまことなれど、飾りを探し求める旅云々は朴にない。偽りぞ」
「それは本当になればよいのです。あなたの口から出た言葉が、まことになる」
「風船係」
そう呼ばれて彼の顔は見る見る曇った。
「あなたまで、僕の名前を忘れてしまったの?」
巫女姫ユリははっと口を押さえた。
しばらく懸命に名前を思い出そうとしていたが、ついには瞳からぼろぼろと涙をこぼした。
風船係は彼女が泣きやむのを見届けて、旅の支度を始めた。
第2章
その旅は目的地さえあやふやで、明確な期限だけがあった。
それでも子供たちは国を栄えさせる風船をわった罪で、風船係はそれを守れなかった罪で旅立たねばならなかった。
どこへ向かっていいかもわからない。
「新しいかざりがいるんだよ。ならば、かざりを作れる人のところ。まずはシランの建築家のところへ行くのがいいと思う」
風船係はいった。
イキシアはこくりと頷いた。怯えている妹ストケシアの手を握って、彼のあとを懸命に歩いた。
「風船係のお兄さん、名前は?」
「名前? 僕の名前は長いよ。覚えられるかな? ミオソティス・スコアパイオイディーズって言うんだ」
「本当に長いのね」
「じゃ、ミオ」
「いいよ、それで」
風船係はシラン族の住む村に向かっていた。
よく整備されたカンパニュラのレンガ街道を通り、休みを入れずに半日をかけてたどりついた。
風船係はシランの村への近道をよく知っていた。
そこは金銀銅が豊富に取れる森の奥の山の中。アジサイが変化するように、その村は日を浴びて虹色に変化していったのだけれど、そのお日様が上らないために、紫の空を写して幻のようにあった。
王様たちから特殊な時計をいただいて、今は一日目の夕方だとわかった。
日が昇らない時刻の夕御飯はなんだか妙で、ストケシアはあまりおいしくご飯が食べられない。
「シランの村へようこそ。わしらは子供が大好きさ」
イキシアは自分より小さな妖精の老人を見下ろした。
「風船をわってしまったんです。新しいかざりが欲しいんです。お願いします」
「シランの一族はそうじて手先が器用さ。なんでも作れる。なんでも作れるが、例外がある。あの飾りはシランの建築家でさえも作れなかったのさ。だから」
「駄目なの?」
ストケシアは涙目になった。
「泣いては駄目だよ、ストケシア。特別な材料が必要なのさ。とてもとても、特別な。わしらには取りに行けない、遠いところにある石、チューベローズ。その石でなければ。でもねえ、チューベローズは白い石なのさ。赤い色はないんだよ。あの飾りは赤い色でなければ駄目なのさね。だからね、絶対に落ちない赤い色の染料、石さえ染め上げる、この近くの谷に生えている古い桜の皮がね、必要なんだ。はいだ皮から染料を作るのに、五日かかるよ。そして、おまえさんたちは、自分たちの手でそれぞれをやりとげなくてはならないよ」
老人の説明に、イキシアとストケシアは少しだけ元気を取り戻した。
目に見えて、具体的な目的が見つかったのだ。
「じゃあ、こうしよう。ストケシアはここに残って桜の染料を作っていて。僕はミオとチューベローズを取りに行く」
「私が一人で残るの?」
泣きそうな顔のストケシアを風船係とイキシアはなぐさめながら言った。
「時間がないんだよ、ストケシアにもわかるよね?」
イキシアは兄らしく、妹をさとした。
二日目の早朝、ストケシアは兄イキシアと風船係を見送った。
そしてすぐさま、シランの老人に連れられてストケシアは谷に降りた。
暗くてそこはとても危険だった。
もう花を付けることのない、老いた大木はわずかな光を求めて枝を上へ上へと伸ばしている。
「ぐるりと真横に剥いでは駄目だよ。死んでしまうから。縦にまっすぐ剥がなければいけない」
「なんで? 縦と横が違うの?」
「ストケシア。樹は根から水を吸い上げるだろう? それをこまかな管がてっぺんの葉にまで持っていくのさね。樹の中心にはもうその管がないのさ。ぐるりと皮を剥いでしまったら、管がぜんぶ切れてしまって水も飲めずに、食事もできずに桜の木の上の方は枯れてしまうよ」
「死んじゃうの?」
「死んでしまうよ」
「樹も、痛いの?」
「痛くはないよ。でもね、ストケシア。樹はね、嬉しいのと哀しいのはわかるんだよ。自分の皮を剥いで持っていこうとしているおまえが、なんの理由もいわずにその鉈を当てたら、この桜はとても哀しいだろうね。嫌だろうね。くやしくてくやしくて、ストケシアにずっと怒ったまんまかもしれないよ」
そのまま鉈を当てようとしていたストケシアははっとして、引っ込めた。
「でも、ストケシアがちゃんと誠意を込めて理由を言って、自分の皮が役に立つとわかったのなら。この桜は喜んでくれるかもしれない」
ストケシアは夜まで谷にいた。
何度も桜に説明をしてみた。
自分は城の風船をわってしまい、それによって太陽が昇らなくなってしまったこと。そしてそれに替わるかざりを作るために、赤い染料がいること。
だが、桜に手を当ててみても、嬉しいのか哀しいのかストケシアにはわからない。鉈を当てて、もう皮を剥いで持ち帰ろうと思っても、もしかしたら桜はとても哀しんでずっと怒っているかもしれないと思うと、それができなかった。
でも、ストケシアはどうしても染料を作らなくてはならなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
ついに泣きながら、ストケシアは樹皮を剥いだ。
彼女の腕の太さ分の幅で、ストケシアの身長より少しだけ短いほど。
ストケシアは桜の皮を剥いでから、取り返しのつかないことをしたのだと思って唇をかみしめた。
とても哀しい気持ちで縄ばしごに手をかけ、最後にもう一度、
「ごめんなさい」
と、桜にいって背を向けた。
『ストケシア。綺麗な染料を作ってね』
桜からそんな言葉が投げかけられて、ストケシアの哀しい気持ちは日に当たった霜柱のように溶けて大地に染み込んだ。
「うんっ! 絶対。一番、綺麗な赤い色を作るから」
もう哀しくはなかったのに、今度は嬉しくてまた涙が出た。
第3章
泣きつかれ、夕食もそこそこにぐっすりと眠ったストケシアはいま何時なのかよくわからなかった。
時計は兄と風船係が持っていってしまったからだ。
特別な染料を作るからと、用意された冷たい水で体を洗った。用意された食事もなんだか奇妙な味で、苦かった。
ストケシアの前では熱された鍋がぐつぐつと湯を煮えたたせている。
あの桜はずっと谷の底にあって、明るい光を夢に見て育ってきたのだという。
その幹の内側に、太陽の鮮やかな赤を思い描いて、その色を毎年花にしていた。
今はもう、花をつける力さえなくしたけれど、そのぶん、その樹液の一滴までが外に出ることのない、あこがれた赤い色に染まっている。
染料を作るのに、五日かかる。ならば、これが出来上がったのなら、カンパニュラに太陽が昇らなくなって七日目ということ。
ぐつぐつと鍋が煮立って熱い小屋の中で、ストケシアはたった一人で染料を作り始めた。
イキシアと風船係は煉瓦街道を歩いていた。 単調な道のりを二日間。本来なら昼日中、三時のおやつの時刻にそこに到着した。
チューベローズの石切場はそれほど遠くないところにあった。
山全体が薄闇の中でほんのりと雪白に輝いていた。
雲を突いてあまりある、高い山だ。不思議なことに樹は一本も生えていなかった。
「イキシア」
風船係は足を止めた。
「僕はここから先には行けないから、イキシア一人で行くんだよ」
「なんで?」
「シラン族はここに立ち入れないんだ。緑が少なすぎて」
「ミオもシラン族だったのか?」
「じいさんがね。母さんは人間だったよ。父さんは母さんに黄金細工の首かざりを作って、その心を射止めたのさ。じいさんは、人間のばあさんにそっくりの木像を彫り上げて、妻になってもらったんだよ。僕らは手先が器用だったからね」
「ああ、だから。ミオは他の人よりすごく上手に風船をイヌにしたり、ウサギにしたりできるんだね」
「その言い方はシラン族は気を悪くするから、いっちゃ駄目だ」
イキシアは首を傾げた。
誉めているのに、どうしてそんなことを言うのだろう?
「僕らはたしかに手先は器用だけど、僕が風船をうまく作れるのは僕が努力したからだよ。僕はじいさんのように木彫りの像をうまく作ることはできないし、父さんのように金銀細工を作れない。父さんは風船でイヌを作っても不格好になるし、じいさんは父さんみたいな細工物は作れないんだ。それぞれがそれぞれ、努力して、こうして職業を持っているんだ。シラン族だから、というのは侮辱だよ」
風船係の言葉を聞いてイキシアは素直に謝った。
努力を無視されて、○○だから出来て当然と言われるのは確かに不愉快だ。
「僕はこれから一人で行くの?」
「ああ」
「ここで、ミオは待っててくれる?」
「もちろん」
風船係はイキシアのために夕食と明日の朝食分を分けてリュックに詰めてやった。
「どれぐらいの石ならいいんだろう」
「チューベローズの石はとても軽いから。加工するためには割った風船よりほんの少し大きいカタマリを持って帰っておいで。石切場には人がいるはずだから、理由をちゃんと話して代金を支払うんだよ。そうしないで、持ってきたら泥棒だから」
風船係はイキシアの腰にお金の入った巾着袋を吊してやった。
イキシアは一人で階段を上っていく。
石切場までの道にはたくさんの白い像が並んでいた。
女の人の姿もあれば、めずらしい動物の姿もあった。お城の形もあったし、食べ物の彫刻もあった。
ただ、すべては雪白の中に描かれていて、ともすれば風景の中に溶け込んでイキシアの目にまるきり止まらないこともあった。
イキシアだけが、そこでの色彩だった。
石切場には白髪の男たちが働いていた。
白い衣服に白髭、肌の色も白いので彫像と同じく風景に溶けて目立たない。
彼らは太陽が昇らないことを嘆いていた。
イキシアがチューベローズが欲しいというと、男達はこまった顔になり、
「嗚呼、日輪が隠れ給いて、我らは勤しめず」 太陽が隠れてしまって働けないと、いったのだった。
「それじゃ、僕も困るよ!」
「童、汝が切りいだしたるならば、其れ良し」
「僕が切り出すのは良いの?」
「其れ良し」
「やる」
男達は大きな木槌や、ノミを貸してくれた。 イキシアは渾身の力を込めて、木槌でノミを打った。だが、石にはひび一つ入らない。
「チューベローズはまさらな御心」
イキシアに向かって、真っ白な女の子がいった。
どこにいたのか、イキシアにはわからなかったが、ここにいる者たちはすべて山の持つ白さに溶け込んでしまうので、唐突に現れたことを不思議には感じなかった。
「ノミも通さぬ頑固な表面。でも中はふわふわ。なんででしょう?」
「なんで?」
「イキシア。あなたが自分で考えるの」
少女の姿は周囲の白に消え失せた。
「待ってよっ! なんでなのか教えてって」
イキシアは叫んだが返事はない。
何度も何度も石をノミで打ちながら、彼は考えた。
中身がふわふわで、外が硬いもの。
たまご。
外は白いし、チューベローズとよく似ている。
ならばこれは巨大なたまごで、割られたら死んでしまうのではないか。
日が出ないと仕事が出来ないという理由はなんだろう。
夕食にパンをかじって、イキシアはふっと考えついた。
ノミで木槌を細かく砕いて、それに火をつけた。
火を大岩に近づけて、イキシア自身の体温を与えるように表面を何度もなでてみる。
岩の表面に亀裂が入った。
「そうか。ここは石切場なんかじゃなくて。白い彫刻が」
丸い大きなカタマリがイキシアの腕の中に落ちてきた。
「生まれるところなんだ」
割れた風船と同じぐらいの大きさの生まれたての石はとても軽かった。
加工する必要もない。それは考えられうる中で最も丸い。
もう、今は岩の表面はすべすべで亀裂どころかひびさえなかった。石が生まれたことが嘘だったかのようだ。
あの女の子にお礼が言いたくて、周囲を見回したとき、イキシアは一つの彫刻をやっと見つけた。
小さな女の子の彫刻だった。
「ありがとう」
リュックサックの中に石を入れ、代わりに朝食のぶんのパンと、チューベローズの代金と燃やしてしまったノミの代金をその足下に置いた。
それから、イキシアは身の回りを確かめて、上着を脱ぐと女の子の彫刻の肩にかけた。
イキシアはリュックサックを背負うと、あとは一目散に風船係のいるこの山のふもとに向かって走り出した。
第4章
ストケシアはふらふらになりながら、染料を完成させた。
樹皮を煮込んだ鍋には真紅の液体が出来あがっていた。
「あとはイキシアとミオが帰ってくればいいのね」
鍋の中身をかき混ぜたとき、ついた煮汁が染み渡り、彼女の衣服を真っ赤に染めていた。 それはとても美しい赤だった。
夕日の溶け込む海の色。
夕焼けの赤。
ほとんど休みもせずに、シランの村についたイキシアもふらふらとしていた。
持とうかと言ってくれる風船係に対して、一人で持つと意地をはり、村についた途端、歩くこともできなくなった。
風船がわれてからもう八日目だった。
イキシアはしばらく休んでから食事をし、冷たい水で体を洗った。
そして再会した兄妹は二人でチューベローズの丸い石に色をぬった。
ほんの一滴、染料が触れるだけで見る間に真紅の色彩が広がっていく。
それは内からかがやく鮮やかな赤い玉になった。
まるでそれは太陽だった。
残った染料を捨てるのが忍びなく、ストケシアはマントを四枚、残りで染めた。
一つは自分の物。一つは兄の。一つは風船屋の。そしてもう一つはあの桜の木のものだった。
谷に降りて、ストケシアはマントを広げて言った。
「これが私の作った染料の色です。あなたがくれた、お日さまの色」
桜からは返事はなかった。
そのマントを桜に巻き付けて、ストケシアは言った。
「いつか、この谷を切りくずして、本当の太陽をあなたに見せてあげたいと思ったの。でも、それはやっちゃいけないことだって、おじいちゃんに言われたの。谷には光が嫌いで逃げてきた生き物や植物もいるからって。だから」
イキシアがリュックサックに石をつめて谷に降りてきた。
そっと中身を取り出すとそれは明るく輝いた。
「これを持ってきたの。ずっと、置いておくわけにはいかないけど染料がまだ残っているから、これより小さなのを作るわ。この根の中にしまっておけるくらいのを」
桜は何も語らない。
でも、ストケシアはかまわなかった。
二人にはもう桜の声は聞こえないし、不思議なチューベローズから生まれた彫刻の声も聞こえないのだ。
一つのことを成しとげて、彼らは一つ大人になってしまったから。
子供達が谷に降りているころ、風船係はシランの建築家の家にいた。
小さなテーブルにハチミツを混ぜたパンが乗せられている。ランプに照らされて果物の表面が光っている。
「これが終わったら、僕の宮廷での風船係は廃業だ」
「別の何かをすればいい。おまえは手先が起用なのだから」
「そんなことをしたら、今、僕を風船係と呼んでくれている人たちがすごく混乱してしまうじゃないか。王宮仕えはもうやめだよ。大人しかいなくてつまらなかったからね。どこかの大きな公園で、イヌやウサギの風船を作って子供たちを喜ばせてるよ」
揺り椅子に座っている建築家はパイプを口にしながら言った。
「風船は残らない」
「残らないものだけど、子供が喜ぶ。子供たちだけが、シラン族である僕の名前を呼べる。絶えずに呼ばれ続けていられるならば、それでいい」
風船係は笑う。
「あんただって、もう建物は建てないのに、建築家でいつづけているじゃないか。大人になったイキシアとストケシアには風船屋の兄ちゃんとしか覚えてられなくたって、心のどっかに僕は残っているんだから」
建築家も笑った。
それでいい。
ソラヌム城に赤い玉のかざりがついた。
カンパニュラの国は滅びを免れ、太陽は九日ぶりに昇ったのだった。
そのおかげで三人は無罪放免となり、イキシアとストケシアは家に帰されることになった。
風船係と別れる道で、ストケシアは彼に呼びかけようとして、その名前が出てこなかった。
「風船係」
その名前しか出てこない。
名前を忘れてしまったことに気が付いた子供たち二人は哀しい顔をして風船係を見上げた。
「シランの名前はね、残らないんだよ。神殿にいるユリも、玉座にいるルドベキアも、昔は僕の名前を呼べたさ。シランの名はね、子供しか呼べない名前だ。君たちは一つ一つ、何かを学んで、一つずつ大人に近づいたんだ。それは悪いことじゃない」
風船係はいつもするように二人の頭に手を置いた。
「でも、僕らは名前以外は残るから、忘れないで欲しいな」
二人はこくりと頷いた。
思いきり泣きたかったが、そうしたら目の前の風船係がこまるだろうと思うと泣けなかった。
「忘れたことを泣いてくれた数だけ、僕がいたというあかしだから、いいよ、泣いて」
イキシアとストケシアは風船係の胸にしがみつくと声をあげて泣いた。
ストケシアは名前を忘れると言うことは、記憶の薄闇にその人を追いやってしまうことのような気がした。
イキシアは白い風景の中に、白い彫像が並ぶ、あのチューベローズの山の中を思い出した。
遠くで二人の両親が子供たちの名前を呼んでいる。
「イキシア」
と、父が呼び。
「ストケシア」
と、母が呼ぶ。
二人は自分たちの名前を呼んでくれる人たちのところへと帰る。
その二人の背中を風船係の青年が黙ってみまもる。
ストケシアとイキシアは駆け出した。
九日ものあいだ離れていた両親のもとへと。
カンパニュラのソラヌム城を作った建築家の名前は伝えられてはいない。
ソラヌムの城の最後の風船係の名前もまた、後世には残らなかった。
それでも赤いかざりと、公園にいた風船屋は子供たちの記憶に残っている。
終わり




