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3(2) 目的


 O博士は多重思考を使って自分自身と話をしていた。


「きっかけは数百年前、いやもっと前でも良いが。その頃の人々は何を考え、どんな会話をしていたのかということだった」

「例えば日本の江戸時代、時間と空間と情報の圧倒的な制約の中で、あの日々の気温と暗さの中で、彼らはどのような文法で何を話していたのか?」


 多重試行チャネルの一つには(せみ)の声が流れている。

 O博士の故郷である日本の信州の夏にかつて生息していた小型の昆虫。大きな声で鳴く。O博士が大好きなチャネルである。


「確かに、季節によって変更される時刻制度は鐘の音で決まり、明け六つで起き、暮れ六つで家に戻って、すぐに寝ていたのだろうね。ある意味で暗黒の時代だった」

「歌舞伎や錦絵(にしきえ)という版画を喜び、後は近所の人たちと与太話(よたばなし)をする……、そんな事しかできなかった」

「勿論、それはそれで悪くはないが、そこから革新は生じない。だから平和が250年以上も続いたのだが、それは進化のない265年間」

「そう、進化のためには情報が必要なのだ。環境適応能力はあったが何の情報処理能力も持たなかった恐竜の時代は一億年以上続いた。種として見れば平和な時代が恐ろしいほど長く続いた」

「しかしもし進化していれば、あの体形を維持したとは思えないが、例えば隕石墜落への対応も不可能ではなかったかもしれない」

「そこまではどうか、まさに情報が残っていないので分からないが、とにかく江戸の町人のように暮らしていれば、同じように隕石が落ちてもその対処法を見つけ出すことはできない。情報を記録し、そこから影響を確かめ、原因を分析しないと再発防止策は策定できない」

「情報が必要だ。既にメタ量子力学では情報とエネルギーの等価式が提唱されている」

「しかし、そこで新たな問題が発生する。もし既に情報が多すぎるとしたら? 一人の人間の大脳の処理能力の制約を超えているとしたら? 我々には今でも実は菜種油の灯しかないとしたら? P=NPは証明できたが、数学理論的には解けるというだけであり、実際には個別問題の具体的解法が見つかったわけではない。もしかすると既に発見・発明されている知識・情報が多すぎて、思考スピードに限界があるとしたら、生物学的には人間の一生のうちにはその情報を整理・理解するだけで一杯となり、もはや新しい発見・発明ができなくなる可能性もあるのではないか?」


 (ひぐらし)が鳴き始めた。背景は赤く低い夕陽に替わっていた。O博士はその空気や色や(にお)いまで感じているのだろうか。


「だから私はロボットを作った」


「この東アジア自治区では知識認定個体群は五つに分類されている。第一階層と第四階層については何も言えないが、第二階層である我々科学者は別として、問題は最大多数を構成する第三階層の一般個体、地下に生存する人類である。彼らが何を考え、話しているのか。ここを理解し制御する必要がある。そうしなければ種としての進化はない。それを第五階層のロボットでシミュレートしたいのだ」


「しかし実際にはまだ効果は表れていない。記憶域は拡大したのだが、まだ中学生のレベルを超えていない。もう少し思考スピード自体を上げる必要があるかもしれない。そうしないと、江戸時代と同じで、改革が生じない」

「速度を上げると熱暴走が怖いが、確かに始めないといけない。『隕石』は近づいている。今はまだ夜なのだ」


 O博士の多重思考の中では、蜩が鳴き続けている。



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