第8話『京の都と知の戦場』
織田信長の命を受け、蒼真はついに“京”の地に足を踏み入れた。
絹のように滑らかな石畳。香の薫る公家屋敷。目を伏せ歩く女房たち。そして、遠くにそびえる御所。
だがその空気は、どこか重かった。
「知があるのに、進んでいない……これは、“恐れ”だな」
蒼真の目に映るのは、美しさの裏に眠る保守の影。僧侶たちは蒸気の機械を「魔道具」と罵り、陰陽師は「星の理を乱すもの」と眉をひそめた。
「異形のものよ、天を測り、水を煮立てるなど傲慢の極み……この国に禍をもたらすぞ」
反発は激しかった。信長の背後盾がなければ、追放されていても不思議ではない。
だが蒼真は退かない。
彼が京でまず披露したのは、天文観測装置だった。竹製の測定器と水時計を組み合わせた、簡易プラネタリウムだ。
「星の動きは、季節と雨を司る。農の民も、兵の軍も、天を読むことで命が救える」
次に披露したのは蒸留水装置。不衛生な水から飲用水を得る仕組みに、薬師たちの目が輝いた。
「これは……これで“水痘”や“疱瘡”の罹患を減らせるのでは」
蒼真は静かに言う。
「魔ではない。これは、知識の積み重ねです。人を滅ぼすためでなく、人を生かすための火と水です」
やがて、その言葉は一人の男の耳に届いた。
*
ある夜、蒼真は密かに召され、御所の奥に通された。
待っていたのは、後陽成天皇――若き帝だった。
「そなたが“蒸気の技師”か。信長の奏上により、密かに名を聞いておる」
蒼真は頭を下げ、一つの箱を差し出した。
“蒸気仕掛けの香炉”。
銀細工の箱の中に仕込まれた小型ボイラーが、水に香を溶かし、低温の蒸気として室内に放つ。ゆるやかに揺らぐ霧のような香気は、まるで天女の衣のように空間を満たした。
「……これは……香の新たなかたちか……」
「はい。火ではなく、水と蒸気で香を立てました。いずれ、炎に頼らぬ道具が世を変える日が来ます」
後陽成天皇は微笑を浮かべ、静かに頷いた。
「そなたの“知”には力がある。だがその力は、人を導くにも、惑わすにも使える。忘れるな。真の知とは、民のためにあるべきものぞ」
その日以降、蒼真の周囲に変化が生まれた。
公家の一部が彼を“技の導師”と呼び、若き学僧が彼の機械を見学に訪れ、陰陽師すら一人、天文観測に興味を示した。
反発と共に、**“蒼真派”**が生まれ始めたのだ。
だが、それをよしとせぬ者もいた。
「異国の火の力など……都を穢す魔術にすぎぬ」
洛中のどこかで、仏教勢力の重鎮たちがひそやかに声を潜める。
そして、その火種に、さらなる影が忍び寄ることを蒼真はまだ知らない。
影の者――蒸気と鉄の知を、己の野望のために奪おうとする存在が、京の闇で動き出していた。