あなたの声が聞こえたから
この世界を作った女神様は、時々いたずらをなさる。
チェスターとエレインの異能もそうだ。
まれにだが、二人は離れた場所から声を届けられた。
私が十二歳の時、エレインと出会って一目惚れした。
同い年のニール・ターナーの家に遊びに行って、輝くような白金の髪に、夏の空のように青い目の彼女が私に挨拶をしてくれた瞬間だった。
動揺を必死に隠して、精一杯の笑顔で挨拶を返したら、白い顔が赤くなった。
「エレイン殿はすごく可愛いな」と言ったら「チェスター、お前って奴は幼児趣味だったのか」とニールに呆れられたが、本当にそう思ったのだから仕方がない。
帰宅したら両親に「許されるなら、婚約したい人ができました」と相談した。相手が伯爵家のため父上は渋っていたが、母上が私を後押ししてくれて、とりあえず釣書を送ろうという事になった。母上も公爵家から侯爵家へ嫁いだ理由が父上への一目惚れだったからだ。運が良かった。
この夜、ベッドの上でエレインの笑顔を思い出していたら「チェスター様にまたお会いできますように!」と、確かに彼女の声で聞こえた。とっさに「僕もエレイン殿にまた会いたい!」と返したが、その時は錯覚だと思っていた。
エレインとの婚約はすんなりとはいかなかった。伯爵は娘を大変可愛がっており、ターナー邸では、「大変に光栄なお話ですが、あの子が自身でも考えられるようになるまで正式な婚約はお待ちください」と回答されたのだ。
とはいえ、帰り道の馬車の中は和やかだった。渋っていた父上も「良い子じゃないか」と婚約に前向きになってくれた。父上は茶道楽で、彼女がお茶好きだったのがお気に召したらしい。
それから四年間は本当に頑張った。今までだって不真面目だったわけじゃないが、エレインの両親から彼女の婚約者にふさわしい相手として選ばれるように、あらゆる事に全力で取り組んだ。学院では文武両道の優等生として評価されつつ、ニールと友人付き合いをする名目でターナー邸に通っては彼と一緒にエレインに会い、時節の挨拶の手紙や、贈り物で好意を示し続けた。
そしてエレインは私を選んでくれた。彼女が十歳となる誕生日の夜に「チェスター様、私の婚約者になってください!」と聞こえた。もちろん「選んでくれてありがとうエレイン!喜んで!」と返した。
後でニールが教えてくれたが、ターナー家に利得をもたらす相手としては残念ながら有力だが最良の候補ではなかったらしい。それでも選ばれたのは、私はもちろん、両親のエレインを欲しいという熱量が他の家に比べて圧倒的で、彼女が一番幸せになれる嫁ぎ先として認められたからだそうだ。私の努力は報われた。
婚約後に初めてエレインと会った時、彼女の誕生日に声が聞こえた事を話した。下手すれば変人扱いされて婚約解消になるかも、とも思ったが、私が聞いた通りの言葉を自室で祈ったら、私の返事が聞こえたそうだ。そして初めて出会った日もそうだったと。
おかげで「私たちの婚約は運命付けられていたんだ!」と二人で盛り上がった。これからも起きるだろうか、条件は何だろうか、と検証したが、再現はできなかった。でもエレイン曰く「この異能は私たちが婚約するための女神様の祝福だったのでは?」という前向きな結論を私も受け入れる事にした。
婚約者時代は、大変だったが楽しかった。
エレインがまだ幼い事もあって、婚約するまでは本やぬいぐるみ、観葉植物など無難な品を贈っていたが、今後は衣服や装身具も許されるというので彼女に似合う品をよく吟味した上で我が家の女性陣にも相談してから贈った。
エレインは欲しいものを聞いてから贈りものをしてくれる人だったので、彼女が得意な刺繍をしたものを欲しがったら、ハンカチからシャツから、身に着けるものすべてを彼女の刺繍入りの品にできるくらいになった。意外と独占欲が強い?
エレインが十二歳の時、ニールが婚約者のスーザンと結婚した。身近で兄夫婦にあてられるようになったせいか、私が「エレイン、今日もきれいだ」なんて彼女を褒めると今までは「ありがとうございます」でさらり流されていたのに、「チェスター様も素敵です」なんて言葉を返してくれるようになった。
この頃からいよいよ娘らしくなってきた彼女は、私という婚約者がいるのに色々な男から好意を示されるようになって大変困った。
格下の家には我が家の爵位で睨みを利かせられたが、同格以上となると無理矢理排除するわけにもいかず、また私は本格的に経営を学び始めていた時期で、あまり自由な時間が取れず、対処が厄介だった。しかし「うちの嫁に手を出すなど許さん」と父上も大いに協力してくれて、正式な抗議文を先方に送りつけるなどしてくれたので何とかなった。この時は小柄な父上がとても大きく頼もしく見えた。
それでも後先を考えない馬鹿が出るのが怖かったので、父上には淑女らしくないと反対されたが、こっそりと舞踊の延長で体術と短剣術、遊びの一環として弓術など、名目を作ってはエレインへ護身になりそうな武芸を教え込んだ。
エレインが十四歳の時、私の母上が亡くなった。元気だったのに、突然胸を押さえて倒れて、それっきりだった。悲しみに沈む私たちを癒してくれたのが彼女だった。「どうかお心を強くお持ちになってくださいませ」と慰められ、親子で泣いてしまった。
父が「お前は親不孝をするんじゃないぞ」と、朝になると私に手製の薬膳茶を飲ませるようになったのはこの頃からだ。
エレインが十五歳となった年のデビュタントは最高だった。王太子の婚約者も来ていたが彼女が一番美しかった。変な虫がつかないように、私と、父上と、ターナー伯とニールの四人が連続して彼女のダンスの相手を務めると、速やかに撤収した。この日からはエレインに様付け無しで呼んでもらった。
このように彼女が他の男に奪われないように努力する日々を送りつつ、父上の仕事の補佐にも慣れ、「もうお前だけでも侯爵家の切り盛りをやっていけるな」と太鼓判を貰った後、私たちは結婚した。
私が二十二歳、彼女が十六歳の春だった。エレイン・ターナーはエレイン・キャンベルになった。
長い時間を掛け、愛する人と順調に関係を深め、とうとう結ばれた。人生最良の日だった。
「私、兄弟姉妹は年の離れたニールお兄様一人だけで、あまり一緒に遊んでもらえなくて、寂しい思いをしました。だから私たちの子供にはたくさん兄弟姉妹を作ってあげたい」
初夜の後、私の腕の中でそう言って笑う彼女に「その願い、必ず叶えると約束するよ」と笑い返して抱きしめた。
新婚生活は順調だった。結婚を機に家業は私が中心に取り仕切り、父上は補佐に回るようになった。いずれ完全に引き継いだら楽隠居していただくつもりだ。家政についてはエレインに任せて全く問題はなかった。婚約してから六年間も出入りしていたのだ。既に侯爵夫人としての予行演習は済んでいた。何もかも順調だった。問題と言えば父上が私たちに出す薬膳茶が苦いくらいだった。
だが、結婚から一年経っても子供ができなかった。貴族にとって、血を繋ぐ事は大事な義務なのに。それを置いても私とエレインの子に早く会いたいのに。
ある朝、父上は「夫婦仲が良過ぎると女神さまが嫉妬して子供ができにくくなるらしいからな」と冗談めかして言ったが、顔は笑っていなかった。エレインの顔もひきつっている。淹れてくれた薬膳茶がいつも以上に苦い。
結婚から二年を過ぎてからは人に会うと跡継ぎはまだかと問われるようになり、私たちは焦らずにいられなかった。そして父上から「三年過ぎても子供ができないようなら経産婦を探して愛人にしろ。何としても後継ぎを作れ。キャンベル家の血が途絶えることは許されない」と言われた日の夜、私たちは寝室で話し合った。
「二年もの間、励んでも子ができなかったのです。あなたが望むなら、私は愛人を受け入れます」
エレインは蒼白な顔でそう言ってくれた。だが、そうする必要があるのはエレインが妊娠できない体だった場合の話だ。子供ができない原因が私にあったら?
「私は愛人を受け入れたくない。どう言いつくろってもそれは不貞になる。それに……経産婦とも子供ができなければ、私のせいだ。子供を作れない貴族の恥晒しだと、約束を守れない男だと、君に捨てられるのが怖いんだ。こんな情けない男とは離婚するかい?君なら再婚相手に困ることはないだろう」と胸の内を正直に話した。
しかしエレインは私を抱きしめて、「私が欲しいのはあなたとの子供です。それが望めないなら、一生二人だけでかまいません。私はあなたがいるだけで幸せなんです」と慰めてくれた。涙が出るほど嬉しかった。「私も君との子供が欲しい。君とこうしているだけで、誰よりも幸せだ」と抱きしめた。さっきまで追い詰められた気分だったのに、私たちがお互いを必要としている絆を確認できて、心が軽くなった。
翌朝、父上に会い、昨晩二人で納得するまで話し合った上で、愛人を家に入れるつもりはなく、他家に嫁いだ姉たちのうち誰かの子供から養子を取ることを望むと伝えた。
覚悟を決めた私たちの様子に父上は苦虫を噛み潰したような顔になったが、養子については認めてくれなかった。
「養子など、実母の家から干渉が入って我が家が食い物にされるだけだ。愛人が嫌なら三年経つまでに子ができるよう精々励め。その上で望まぬ結果であっても受け入れて冷静に最善の選択肢を取れ」
そして、私たち夫婦の努力の甲斐もなく、三年が経過しても子供はできなかった。
間もなく、父上はある家の出戻りの女性を私の愛人に決めてきた。「彼女なら子を産めるはずだ」と。
私は絶対に嫌だ、取り消してくれ、と受け入れなかったが、「どうしてもと言うならお前が先方へ訪問して何とかしろ。儂は絶対に取り消さない」と父上に言われ、愛人となる人の家に出向かざるを得なくなった。先方の領地まで馬車で半月はかかる距離だ。
私は不安そうなエレインに「愛しているのは君だけだ。絶対に断ってくる」と誓い、出立した。
憂鬱な旅路を急ぐ気にもなれず、日が暮れ始めて早々に宿を取った初日の夜、ろくに喉を通らなかった夕食の後、この先を思い悩んでいると、突然「チェスター!助けて!」と絶叫が聞こえた。間違いなくエレインの、恐怖に満ちた声だった。いったい何があったのか。
「エレイン! 今行く! 無事でいてくれ!」
そう叫ぶと私は直ちに旅装をし直し、金に物を言わせて馬を乗り継いで最速で家に引き返した。夜半になってようやく我が家へたどり着き。驚く門番をせかして敷地に入り、屋敷の階段を駆け上がり、寝室へまっすぐ向かう。
扉を開けて見たものは、腕を縛られたエレインへ覆いかぶさるようにして、寝間着を剥ごうとしている、父上の姿をした『獣』だった。
怒りで目がくらみながら、駆け寄ってエレインから『獣』を引きはがし、つかんだ頭を固い床へ力いっぱい叩きつけた。動かなくなったそれをそのままに、エレインの元へ向かう。
「エレイン。私だ。もう大丈夫だ。遅くなった。今助ける」
ぐったりとしている彼女に声をかけると、まぶたが僅かに持ち上がり「ああ……!」と涙を流した。彼女の腕から紐をほどき、鼻血で染まった顔をハンカチで拭ったが、両頬は腫れあがり、体のあちこちに痣ができていた。
あまりにも惨い姿に、防げなかった自分が情けなくて涙が出てきた。エレインをさらに苦しめる事が無いように、そっと抱きしめる。
「君をこんな目に合わせてしまって、本当にすまなかった。許してくれ」
謝る私に彼女は「怖かった……」と弱々しく抱き返してくれた。
少しだけそのままでいた後、「後始末をするから、暫く待っていてくれ」と伝えて、『獣』の躯を掴む。私は親殺しではない。妻を守り『獣』を駆除しただけだ。
寝室の外では起き出してきた使用人たちが入口を遠巻きにしていた。そこに『獣』の躯を投げ出して、「事故死だ。直ちに教会に人をやって葬儀の準備を進めてくれ。今日中に終わらせる。急ですまないが手当は十分に出す」と命じる。
『獣』がしでかした事を思えば荒野に打ち捨てて野獣の餌にしてやりたいが、それでも人の姿をしている以上、やるべきことはやらねばならない。
何人かのメイドにはエレインを介抱させた。今やるべき指示をすべて出し終わり、彼女の身なりが整えられた後、私は寝室に戻った。
湿布と包帯だらけになった痛々しい姿のエレイン。こうなるまで『獣』に抵抗してくれた彼女に心からの感謝を伝えて、キスをすると、手を繋いで眠った。彼女の危機を教えてくれた、私たちの異能に心から感謝しながら。
朝が来て、速やかに教会で『獣』の葬儀を執り行った。今日がとりわけ暑い日なのは幸いだった。慌ただしく行う理由になる。
そして夜、私たちは昨晩の出来事を互いに話し合った。私の方は端的に言って「エレインの悲鳴が聞こえて全速力で家に引き返した」だけだが、エレインの話す彼女の体験は聞くだけでもおぞましいものだった。
* * *
昨晩、私は早めに寝室に入った後、眠気が来るまで刺繍をするつもりだったのですが、私たちの今後を考えると気が滅入って、全然手が進みませんでした。そうしているうちに「少し話がある」と『あれ』がやってきました。
寝室に入れるのは憚られましたから入り口で伺ったのですが、正気とは思えない提案をされました。
「お前たちの不妊の原因を調べなくてはならない。しかしチェスターは自分が種なしか知るのが怖いようだ。仕方のない奴だ。だからエレイン、代わりにお前が石女なのが悪いのか儂が確かめてやる。奴が戻ってくるまで一か月はかかる。それだけあれば十分だろう。安心しろ。跡継ぎができたらチェスターの子として届けてやる。それでお前たちの名誉は守られる」
そう言って、いやらしく笑うと、『あれ』が私の腕を掴んで寝室に押し入ってきたので、あまりの事に私は取り乱しまして、居ないあなたの助けを求めて叫んだのです。そうしたら『あれ』に酷く頬を張られて、「興が削がれる。これから楽しもうというのに他の男の名を呼ぶな」と冷たい声で脅されました。
痛みと恐ろしさで私の心は押しつぶされそうでした。でもその時、あなたの「今行く!」という声が聞こえたから、勇気が出ました。何度も叩かれましたが、私を押さえつけようとする『あれ』を引っかき、蹴り、刺繍針で刺してやりました。
『あれ』が刺された所を押さえて寝室を出ていった時は、これで助かったと思いました。すぐに扉に閂をかけて、そこにソファを押し付けて、さらに寄りかかって、やっと一息つけました。
このまま夜明けまでやり過ごせばチェスターが戻ってきてくれるでしょうか、使用人たちは助けてくれるでしょうか、それとも『あれ』に従うでしょうか、どうにかして逃げ出せないでしょうか。
そう考えているうちに、また『あれ』が戻ってきて扉を無理やり開けようとしましたが、私がソファを扉に押しつけて堪えているうちに罵り声と何かを床に叩きつける音が聞こえて、それを最後に足音が遠ざかっていきました。
やっと諦めたと思って、油断したのがいけませんでした。『あれ』は執念深かったのです。疲れて、いつの間にかうとうとしてしまい、扉とは逆の方から物音がしたと思ったら『あれ』が梯子を使ってベランダから入ってきていたのです。
驚いた私はうまく動けず、『あれ』に殴り倒されてしまいました。そして気が付くと寝室の扉を開けた『あれ』が、外から紐か何かを持ってくるのが分かりましたが、頭が痛くて起き上がれず、そのままベッドに引きずられました。
それでも『あれ』を押しのけようとしたのですが、腕を縛られ、脚も腿を千切るように何度も強く掴まれて、痛くて動かせなくなりました。でも、その時、チェスターが来てくれました。私を『あれ』から救ってくれて、本当に、ありがとうございます。
* * *
話し終わったエレインを私は抱きしめずにいられなかった。
彼女をこんな恐ろしい目に合わせてしまった後悔と、こんなにも勇敢で機転の利いた、素晴らしい伴侶を持ち得た喜び。二つの感情が入り混じって、どうにかなりそうで、ただ、すまなかった、と、ありがとう、を繰り返すしかできなかった。
そんな私にエレインは情交を求めてきた。しかし昨日の今日だ。顔の腫れは大分よくなったが、体の痣はまだ赤黒くて見るからに痛そうだ。怪我が癒えていない君を苦しめたくないと伝えた。
しかし、昨夜の『あれ』の顔が、声が、触れてきた手の感覚が頭から離れない、あなたがいない間は目を閉じる事すらできなかった、お願いだから打ち消してください、とすがる彼女の姿に耐えられなくて、抱き寄せて思いつく限り優しく愛した。
それからは爵位の継承、当主としての業務などに追われて慌ただしいうちに時間が過ぎていった。結婚前に一人前になっていたはずだが、もう相談する人間がいないまま実際に一人でこなすのは慣れるまで大変だった。
件の愛人の家へは「父が勝手に進めたことで、しかも亡くなったため、諸処の業務で当分は全く余裕がない。この話はなかったことに」とそれなりの額の慰謝料を払って契約の解消を提案する書信を送ったが、これは先方に受け入れられた。
忙しくとも夜は一人で眠れないエレインのため、なるべく早く切り上げて一緒に眠った。彼女は毎日のようにうなされ飛び起きていたが、徐々に落ち着き、その頻度は減っていった。
暫くして色々と落ち着いてきたころ、体調を崩したエレインを診た医者から妊娠していると私たちは知らされた。本当に驚いた。「これからはお一人の体ではないのですから、お体をよく労わってください」と医者が話すのを聞きながら、私はついに我が子を授かった幸せに打ち震えていた。が、その様子を見ていたはずなのに、医者が帰った後、二人になると彼女は怯えた顔で「あなたの子です。『あれ』の子ではありません。本当です。信じてください」と必死に訴えてきた。
私はエレインがこんな事を言う理由が分からなかった。あの夜に私が間に合った事は分かっている。泣き出した彼女を引き寄せて頭を私の胸の中に抱え込み、背中を撫でて慰めながら、深呼吸をして考えてみる。
もしかして、三年できなかった子供があの夜の後にできたせいで、実は『獣』の子だと私が疑うと思われたのだろうか。だとしたら打ち震えていたのも怒りからだと誤解されたか?これはまずい。
左腕をエレインの頭から下腹に持っていき、撫でながら我が子に話しかける。
「君が私たちの子だということは分かっている。何も心配はいらない。早く会いたいが慌てなくて大丈夫だ。ゆっくりでいいから元気に生まれてきてくれ」
そう伝えると「ママが泣いていては子供が心配するだろう。笑ってくれ」とエレインを抱きしめてキスをした。
そして数か月後、元気に生まれた子は女の子で、髪と目は私と同じ赤茶色だったが、他はエレインにそっくりだった。ケイシーと名付けた娘を抱きながら、この子はきっと君みたいな美人になるよ、と伝えた時の妻の微笑みはとても美しかった。
ケイシーが生まれて半年ほど経ったころ、エレインは二人目の子を妊娠した。今度は彼女も何の屈託もなく喜んでくれた。急に子供ができ易くなったのではない。三年間できなかったのには理由があった。
『獣』の遺品の中に避妊の効能を持った薬草があった。調べた限りではエレインが嫁いでくる前から買い始めており、残った量から大半が使用されていると分かった。とすれば母を亡くしてから女っ気の無かった『獣』がこれを使うのは、私からエレインを奪うためた。
恐らく『獣』は避妊の効能を持たせた薬膳茶を私たちに飲ませていた。これでは経産婦でも妊娠は無理だ。そうして私に自分が種無しだと思い込ませ、心理的に追い詰める。
血を継ぐ事を何よりの義務とする貴族にとって、その義務を果たせないと見られる事は死に勝る恥辱だ。
他の貴族から種無しだと嘲笑され、心身が疲弊していく暮らしの中で「お前たちのためにはこれしかない」と言われ続けたら、エレインに『獣』の子を産ませて私の子として育てるという汚らわしい提案であっても、いつか私たちは拒否できなくなったかもしれない。こんな悪辣極まる下種が父だという事実を消し去りたい。
しかし、結果的に私たちは愛人を拒否した。話し合って不名誉も養子を取る将来も覚悟して、むしろ夫婦の絆は深まった。
このままではエレインを奪える日は来ないと焦った『獣』は、私を遠ざけている間にエレインを襲い、既成事実を作ることで私を種なしとするつもりだったのだろう。それも異能のおかげで阻止できた。
だから、あの夜の後、私とエレインがケイシーを授かったのは当然だ。私たちの体に問題はなかった。
思えば、『獣』は婚約者だった頃のエレインを私が嫉妬するほど可愛がっていた。幼い彼女と会ってから家格が下の家の娘を嫁に取る事に難色を示さなくなったのも今思えば疑わしい。考えればきりが無いが、正確な時期は分からないものの、相当前から陰謀を巡らせていたのは間違いない。
私はエレインと話し合い、子供たちが結婚を考える年頃になったら、『獣』が私たちに何を仕掛けたか話そうと決めた。この世には恐るべき悪意が存在し、それから愛する者を守るためにはどれだけの備えをしても足りないと知ってもらうために。
私はエレインを主として女性のみの護衛組織『淑女の盾』を作り、私が不在の際も彼女が常に守られるようにすると共に、組織運営の経験を積んでもらった。市井の傭兵団ではなく高位貴族の作った組織という事で縁者からの婦女子警護の依頼もあり、収支は悪くない。
その後、二人目の子も無事に生まれ、跡取り息子としてダグラスと名付けた。
産褥が明けるのを待って、強くなりたい、また暴漢に襲われても自分で身を守れるようになりたい、とエレインは本格的に武芸を学び始めた。彼女には才能があったようで、数か月もしないうちに「貴族のぼんぼん程度なら一捻りですね」と教師に評されるまでになった。
それからダグラスが一歳になるより少し前、三人目の妊娠が分かった。本来の私たちは相性ばっちりだったんだな。
私は今、エレインの手を取って、いつものコースで庭を散歩している。躓いたらすぐ支える準備はできているが、臨月も三度目ともなると慣れたもので、彼女の足取りに乱れはない。どうやら今日も出番はなさそうだ。
「……あなたがいて、ケイシーがいて、ダグラスがいて、もうすぐこの子とも会えるんです。幸せ過ぎて怖くなってきました」
歩きながら、いつもの会話が始まった。
「君との約束を果たすためにはまだまだ足りないよ」
「まあ。私はまた何度もこんな大変な思いをしないといけないのですね」
下腹を撫ぜながら笑うエレイン。昔はこういう話題を振ると真っ赤になっていたものだ。
「あと何度になるかは女神様の思し召し次第かな。でもキャンベル家の財政は至って堅調だからね。何人増えたって養育費で破産したりはしないさ」
「娘ばかり生まれるかもしれませんよ。そうしたら持参金をどうしましょう」
おいおい、何を言っているんだい?
「君の娘だよ?美しく気立ての良い子に育つに決まってる。持参金どころか、支度金を山のように積んで愛を乞われるのは間違いないよ。私がやったようにね」
「流石にそれは楽観が過ぎませんか」
親馬鹿を発揮しながら、改めてエレインを見る。女性は子を産むと容色が衰えると聞いたが嘘っぱちだ。結婚してから六年、エレインは魅力が増す一方で困る。これからも彼女には害虫が寄ってくるのだろう。
そんな事を考えていたら、顔に出ていたのかもしれない。
「チェスター、怖い顔をしていますよ」と心配されてしまった。笑ってごまかす。
「君があまりにも魅力的で、血迷う男が出るのも仕方がないと考えていたのさ」
「言ってくれますね。では私を妻にしたあなたはどうなのですか?」
「大人の世界に興味を持つ年頃の少年が六歳の女の子に夢中になって、自分が使える時間を君に選ばれるための自己研鑽に全てつぎ込んだんだ。今思えば十分いかれてる。後悔はしていないが」
堂々と狂っていると認める私にあっけにとられるエレイン。愛する彼女へ、今の想いを伝える。
「エレイン、君は本当に強くなった。色々な意味でね。一時の愛を求める馬鹿者を叩きのめして官吏に引き渡すくらい逞しくなったし、家政や『淑女の盾』を切り盛りする中で貫禄もついたよ。もう守られるだけの女性じゃない。愛しているよ。これからも一緒に家を盛り立て、家族を守っていこう」
歩みを止めて、体を寄せあう。彼女は微笑んで言った。
「チェスター、私を認めてくれてありがとう。愛しています。一緒に頑張って、ずっと幸せでいましょう」
この人がいれば、何があっても乗り越えられると信じられる。私たちは、今、幸せだ。
拙文をここまでお読みいただきまして、誠にありがとうございます。