黒い夢を乗り越えて
それは雪が降る寒い夜のこと。ありすはひとり、ベッドのなかで泣いていました。
大好きだったおばあちゃんが、天国に旅立ってしまったのです。ありすが10歳の誕生日を迎えて間もなくのことでした。
おばあちゃんはいつもはつらつとしていて、笑顔が素敵な女性でした。心配性で悩みごとが多いありすは、おばあちゃんの明るさにいつも助けられていました。
「大丈夫よ、ありす。何も心配することないわ。ゆううつなことは全部、笑い飛ばしちゃいなさい」
目を閉じると、励ましてくれたおばあちゃんの顔が浮かんできます。
明るく、元気だったおばあちゃんは不治の病で、命を奪われてしまいました。病気だとわかってから、亡くなるまではあっという間でした。
じょじょに体力が吸い取られ、おばあちゃんは痩せ細っていきました。体も思うように動かせず、ご飯も食べられません。
それでも、おばあちゃんは一生懸命、ありすに笑いかけようとしてくれました。
お見舞いのたびに、変わっていくおばあちゃんの姿を見て、ありすは胸が痛みましたが、頑張っているおばあちゃんの姿はありすの希望でした。
しかし、おばあちゃんの命の灯は静かに消えてしまったのでした。
まるで光を失ったように、ありすの心は闇に閉ざされてしまいました。
* * *
ありすはどのくらい泣き続けていたのでしょうか。
明日はおばあちゃんのお葬式。それなのに眠れそうにありません。
ありすはかぶっていた毛布から、そっと顔を出しました。夜の空気は寒くはりつめていて、ほおがヒリヒリと痛みました。
また毛布に潜ろうとした時、きぃっと不気味な音がして、子供部屋の扉がゆっくりと開きました。部屋のなかにふわっとお線香の香りが入ってきます。
嫌な予感がします。
ありすは香りをだどって、居間の前までやってきました。そこにはきっと、息を引き取ったおばあちゃんのそばで、一晩お線香を焚き続けているお母さんがいるはずです。
「お母さん……」
ありすが居間の扉を開けると、そこにお母さんの姿はなく、全身黒ずくめのマント男が立っていました。
「誰!?」
そう言おうとしましたが、声が出ません。体が凍りついたように、ありすはその場で固まってしまいました。
振り返った黒マント男は、何も言わずにジロリとありすを見ました。尖った鼻と顎、目のまわりがくぼんでいるせいで瞳はよけいに鋭く見えます。まるでガイコツが生きているような恐ろしい姿でした。
黒マント男と目が合った次の瞬間、男の姿は黒いけむりとなって消えてしまいました。
「おばあちゃんは……?」
そこには息を引き取ったおばあちゃんが布団に横たわっているはず……。お葬式を迎えるまで、今夜はありすの家にいることになっています。
それなのに、今は棺桶があるだけです。
棺桶のなかにおばあちゃんはいるのでしょうか?
ありすが棺桶に触れるとあっさりとふたが開き、ざざーーっと、水があふれ出してきました!
棺桶のなかにおばあちゃんの姿はありません。黒い水があるだけでした。まるで深い井戸のように、底が見えません。
大量の水はどんどんあふれ出し、ありすの腰に迫ります。あたふたするまもなく、足がとられ、体が水に浮かんでしまいました。
顔面に天井が迫ってきます。もう息をする空間はありません。とめどなくあふれ出る水はついに天井に達し、ありすは濁流に飲み込まれてしまいました。
ありすは水のなかでもがきながら、恐怖を感じました。息ができません。水は容赦なくありすの体を乱暴に扱い、激しい流れのなかに巻き込んでいきます。
激しい流れにもまれながら、ありすはわらにすがる思いで手を伸ばします。
「お願い。助けて……」
そう強く願うと、誰かがありすの手をつかみました。
誰かが助けてくれたようです。
しかし、ありすにはその姿が見えません。水のなかはとても暗く、何も見えなかったからです。
何者かが体を上へ上へいざない、水面へ連れていきます。体が引きあげられていくなか、ありすはそのまま気を失ってしまいました。
* * *
「大丈夫?」
誰かの声でありすは意識を取り戻しました。目を開けると、心配そうにありすの顔をのぞき込む少年がいました。
ありすは砂浜に横たわっています。見渡すと夜の浜辺で、静かに波が寄せては返していました。
どうやらこの少年が助けてくれたようです。顔立ちや体からありすと同じ年頃だとわかりました。
「ぼくはヒスイ。涙の海に溺れそうになっていたろ? 辛かったね」
ありすはヒスイが言うことがよくわかりませんでした。
「涙の海?」
「そう。君は自分の悲しみの涙に溺れてしまったんだ。きっと悲しいことがあったんだろ?」
「おばあちゃんが……死んじゃって……それで……」
ありすがしくしく涙を流しながらわけを話すと、静かだった海に波が立ち始めます。ヒスイはありすの手をぎゅっとにぎりました。
「いいかい、今は我慢するんだ。君の涙に飲まれてしまわないように」
ヒスイの優しい声で、ありすは少しだけ悲しみがまぎれたように思えました。ヒスイはありすを抱き起こし、頭をなでながら言いました。
「おばあさんが亡くなったのは辛かったね」
落ち着きを取り戻したありすは、自分が今いる場所がどこなのか不思議に思いました。
「ねぇ、ヒスイ。ここはどこなの?」
「ここは夢のなかさ」
「夢のなか!? なら、おばちゃんに会えるかもしれない!」
ありすは目を輝かせましたが、ヒスイは残念そうに首を横に振りました。
「たぶん、ここにはいない。君のおばあさんは楽しい夢のなかにいるはずだよ。今、君がいるのは黒焔が支配する黒い夢なんだ」
黒い夢は楽しい夢ではなさそうです。黒焔という聞きなれない言葉に、ありすは嫌な予感がします。
ありすは恐る恐るヒスイにたずねました。
「黒焔って、もしかして黒マントの男……?」
「そうだよ。やつは死の化身さ。誰もやつからは逃げられない。静かに忍び寄って、ある日突然命を奪っていくんだ」
「あいつのせいでおばあちゃんが死んじゃったんだ!」
ありすが怒り出すと、また荒波が立ち始めます。ヒスイはありすの肩に手を置き、こう言い聞かせました。
「誰でもいつかは死んでしまう。仕方がないことなんだ」
「そんな……」
ありすはぐっとこらえます。
「明日、笑顔でおばあさんを見送るためにも、君は帰らなきゃいけない。黒い夢のなかにいてはダメだ」
「でも、帰り方がわからないの」
「大丈夫。ぼくがいる。ぼくについて来て」
ありすはうなずきました。ヒスイは真剣な顔で話し続けます。
「ひとつ、残念な話がある。黒い夢から帰るためには、黒焔の城に行って、君の影を返してもらわないといけない。影を失くしてしまうと、夢の世界からは帰れないんだ」
「待って……。そんなこと、できないよ」
ありすは怖くてたまりません。黒マント男の姿を思い出すだけで体の芯が震えてきます。あの男は絶望が形になったようなものでしたから。
「いいかい、ありす。君はこの困難を乗り越えなきゃいけない。ありすならきっとできる。心配することなんて何もないさ」
ヒスイが自分の名前を知っていることにありすはびっくりしました。
「わたしのことを知っているの?」
「もちろん、知ってるさ。ずっと昔からね……。さぁ、それより今は先を急ごう」
ありすは不思議そうにヒスイを見つめますが、ヒスイは正体について何も語りませんでした。
ヒスイの話によると、黒焔の城は悲しみの奥深くにあると言います。自分の心によって城までの道が開かれるのです。
ありすはおばあちゃんの命が尽きた日のことを思い出しました。
自分がどんなに頑張っても、願っても、おばあちゃんの命を救うことはできませんでした。無慈悲な死というできごとに、ありすの心が絶望に包まれていきます。
ふたりがいる浜辺は再び波が立ち始め、荒々しい海へと変わっていきます。あたりはおたがいの姿が見えないほど真っ暗闇になり、大地を根こそぎ削り取るような、激しい波の音がどどーっ、ごごーっと、響き渡りました。
轟音と共に、大きな波が押し寄せます。ありすとヒスイの体は悲しみの波に飲まれていきました。ふたりを襲った大きな波は、ふたりの体を海の底へ底へと引きずり込んでいきました。
先が見えず、真っ暗闇な海の底へふたりは沈んでいきます。
悲しみ、苦しみ、不安、絶望……。
あらゆる負の感情にありすの心と体は何度も引き裂かれそうになりました。ヒスイはありすを離さないように、強く手をにぎってくれました。
荒波にもまれ続けてしばらくたった頃、突然水の流れが変わりました。体が浮上していきます。
ありすは流れに身を任せて、上へ上へ手を伸ばしました。何かにつかまり、這い上がると、そこは水瓶のなかでした。人ひとりがすっぽり入る大きな水瓶にありすは浮かんでいました。
周囲を見渡すと、石畳の城のなかでした。石の壁や床は炭のように黒く、氷のような冷たさを放っています。
ありすは寒さなのか、恐怖のせいか、震え出しました。
ここが黒焔の城のようです。
ありすはヒスイが居なくなっていることに気づき、さらに怖くなりました。
離れないように、しっかり手をにぎってくれていたのに。
ひとりでポツンと取り残されたありすは、心細くて仕方がありません。
おろおろしていると、恐ろしい声が聞こえてきます。
「よく来たな。小娘。何用だ?」
声がする方を見ると、大きな鏡がありました。
鏡に黒マントの男がうつっています。ガイコツのように痩せこけた顔の奥に鋭い瞳がギラリと光ります。
ありすは恐る恐る言いました。
「黒い夢から帰りたいの……。わたしの影を、返してください」
黒焔は不気味に笑いました。
「そうか。それなら……、おれから奪い取るんだな」
奪い取る? どうやって?
ありすがどうすることもできず、立ちつくしていると鏡のなかの黒焔が語りかけました。
「そうか。どうやらお前も死にたいらしい……」
すると、ありすの体が勝手に動きだしました。黒焔の声に引き寄せられ、ありすの足は鏡へ近づいていきます。本当は逃げ出したいのに、体が言うことを聞きません。
ついにありすは黒焔と向かい合ってしまいました。
黒焔が手を伸ばすと、鏡のなかから痩せ細った手が出てきました。ありすの首に近づいていきます。
ありすは頭を振るのが精一杯でした。声を出したくても、喉に何かがつまっているみたいに喋ることができません。
「お前の影はもらった。おれから取り戻すことができなれば、お前も死ぬだろう。さぁ、どうやって取り返す?」
黒焔の手はありすの喉元まで届き、ついにありすの首をつかみました。ありすは苦しくて息ができません。黒焔の鋭い瞳がまたギロリと光ります。
「これでお前もおれ達の仲間だ」
ありすが抵抗してもがこうとすると、鏡におばあちゃんの姿が映りました。
「おばあちゃん……」
ありすは心のなかでおばあちゃんに呼びかけました。このまま黒焔の仲間になれば、おばあちゃんに会えるのかもしれない。つらくて、悲しい気持ちを感じずに済むかもしれない。
すべてを諦めようとした時、ありすのペンダントが緑色の光を放ちました。
ペンダントなんて身につけていたっけ?
ありすが不思議に思って、胸元を見ると、緑色の石がついたペンダントがありました。どこかでこのペンダントを見たような気がします。
頭のなかでヒスイの声がしました。
「それはニセモノだ! 思い出して、ありす。おばあちゃんはそんな冷たい顔をしていたかい?」
鏡のなかのおばあちゃんは無表情で、不気味な人形のようです。暖かさや優しさが何も感じられません。
おばあちゃんはいつも笑っていました。病気になってからは思いっきり笑うことは少なくなったけれど、最期まで微笑みを絶やさずにいました。笑顔でありすを元気づけてくれました。
大好きなおばあちゃんは、黒焔に似た冷たい顔をしているわけがありません。
ありすは黒焔に首をつかまれ、息をするのも苦しい状態でしたが、声を絞り出してうったえます。
「おばあちゃんは……いつも笑っていた……。おばあちゃんは……わたしの楽しい記憶のなかにいる……。あんたのところになんて……居ない。仲間に、なるもんか……」
「おのれ……! おれに立ち向かうというのか……!」
黒焔が焦り出しました。鏡に大きなヒビが入り、ありすの首をつかむ手がゆるんでいきます。
ありすは力強く叫びました。
「その手を離して!!」
ありすの声に衝撃を受けたように、鏡面が歪み、亀裂が走りました。さらに黒焔の手は弱々しくなっていきます。それでも黒焔はありすを絶望の世界に引き込もうと、淡々と誘いかけます。
「死は誰しもに訪れる。お前には誰かを失う悲しみを……、受け入れることができるのか……!?」
「できる! きっと、できる! おばあちゃんとの楽しい思い出を大切にするためにも、わたしは乗り越えなくちゃいけない! だから、落ち込んでいる自分には負けたくない!」
ありすがそう叫んだ瞬間、鏡は大きな音を立て粉々に砕け散りました。
鏡のなかにいたニセモノのおばあちゃんも、恐ろしい黒焔の姿も消えていました。
「よく頑張ったね。ありす」
「ヒスイ?」
そこにはありすを抱きしめるヒスイの姿がありました。ありすの瞳から涙がぽたぽたこぼれ落ちます。
「どうして……。さっきまでどこにいたの? 一緒について来てくれるって言っていたのに」
ありすは恐怖に耐えながら、ひとりで黒焔と闘っていたのです。
「君には姿が見えなかったかもしれないけど、ぼくはずっと一緒に居たよ」
「えっ?」
ヒスイの言葉にありすは驚きました。
「これまでも、これからもね」
ヒスイは微笑んでいました。その笑みはどこか見覚えがあり、なつかしいものでした。
ずっと一緒にいた。これからもずっと一緒にいる。
そう話すヒスイの言葉を不思議に思いながら、ありすは微笑みの正体が気になって仕方がありません。
「さあ、もうじき朝だ。君の世界にお帰り」
ありすはうなずいて答えました。ふたりがいる、黒焔の城の景色が歪んでいきます。
「明日も素敵なことがありますように」
ヒスイの声とともにふたりの姿は真っ白な光に吸い込まれていきました。
ぱっと、ありすが目を開けると、ベッドのなかでした。自分の部屋、そこでずっと眠っていたようでした。
昨晩降り続いていた雪はやみ、太陽が昇り始めていました。雪にそまった世界を太陽が光り輝かせています。
悲しみのなか、不安な夜を過ごしていたありすでしたが、黒い夢を乗り越えて、朝を迎えることができたのです。
* * *
「ありす。これ、おばあちゃんから」
おばあちゃんのお葬式が終わった後、お母さんがありすに何かを手渡しました。
それは淡い緑色の宝石がついたペンダントでした。黒い夢のなか、黒焔の城でありすが身につけていたものと同じでした。
「ヒスイ?」
「あら、よく知っているわね。翡翠のペンダントよ。おばあちゃんのお気に入りだったの。形見にもらってくれないかしら」
ヒスイの話していたことが、ありすの頭のなかで繋がりました。
なぜ今まで気づかなかったのでしょうか。
おばあちゃんがいつも身に付けていたペンダントのことをありすはすっかり忘れていました。
「おばあちゃん、ありがとう」
ありすはペンダントをにぎりしめ、そう言うと、心のなかでヒスイに語りかけました。
「ヒスイ、助けてくれてありがとう。これからもわたしを見守っていてね」
おばあちゃんがくれた笑顔を忘れないように、生きていこう。
ありすは心のなかでそう強く願うのでした。
<おしまい>