【Case1】4.「危ない橋」もいろいろ (5)
「それはそれは。開発関係の資料というと、なにか、設計図のようなものですか?」
タイミングよく、カウンターの向こうでバーテンダーが優雅に首を傾げた。
(ほらな)
こっそり胸を撫でおろした翔馬の耳に、
「いやいや」
隣の男が、軽く笑う声が届く。
「さすがにそこまでいくと、内部でもアクセス権限とかあるんで。けど、たとえば開発会議の議事録なんかでも、見る人が見れば宝の山っすからね」
――「議事録」という単語に、一気に酔いがさめた。
(……それは、どういう)
震える指に煙草をはさんだまま、グラスを見つめて硬直する翔馬のすぐ目の前で、
「なるほど。今後の、戦略上の重点だとか?」
わかったというようにうなずくバーテンダー。
隣の男が、カウンターに両肘をついて身を乗り出した。
「そーそ。関係者の名前だけでも、いろいろとね。わかる人にはわかるもんなんですよ」
得意げに説明する客に、
「そうなんですか」
バーテンダーが感心したように言う。
(……そんな。まさか)
俯いていた翔馬の視界が、ぐらりと揺れた。
低く流れるジャズとムーディーな照明の下、すがりつくように握ったグラスの中で、泡の消えかけたビールが小刻みに震える。
「……お勘定を」
気づいたときには、カウンターに手をつき立ち上がっていた。
火のつけられていない煙草を灰皿に残し、ドアを押し開けふらふらと店の外に出ていく翔馬に、右隣の客とバーテンダーが、カウンターから気づかわしげな視線を向けていた。
~・◆・~・◆・~
週明け、月曜日の昼休み。
開発部の先輩と喫煙所から戻ってきた翔馬は、なにげなくエレベーターホールの方を見て目を見開いた。
(……境さん)
いつも通り、身体のラインがはっきりわかるタイトなスーツ姿の境が、こちらに背を向けエレベーターを待っている。
なんとかその視線を捉えようと首を伸ばしかけた翔馬に、隣を歩く開発部の先輩社員が、ベルトの上に乗った腹を揺すりながら耳打ちした。
「知ってた? 人事の境、今日で辞めるってよ」
「……え?」
凍りついた翔馬に、先輩がさらに顔を近づける。
「Y社に、ヘッドハンティングされたって噂。ずっと商品開発やりたがってたって」
ありえるよなー。仕事できるし、美人だし。
ニヤニヤして言う先輩の言葉に、翔馬の頭の中で、バーで耳にした会話がよみがえった。
――『退職した社員が、開発関係の内部資料持ち出したらしくて』
『同業他社にヘッドハンティングされてて、手土産代わりに』
『会議の議事録なんかでも、見る人が見れば宝の山っすからね』
(……いくらなんでも、境さんがそんなこと)
彼女にUSBを渡した金曜の夜、ひとり暮らしのアパートに戻って一度は打ち消した疑いが、夕立前の雲のように胸の中で急激にふくらんでいく。
(まさか。……でも)
青ざめる翔馬の顔を、
「どうした本郷? なんかすげえ汗かいてるけど、大丈夫?」
先輩社員が怪訝な表情で見上げた。
「おまえ、熱中症とかなら」
「大丈夫です」
無理に笑顔を作った翔馬が、肩にかけられた先輩の手を外す。
「――俺、ちょっと挨拶してきます。境さんに」
軽く頭を下げると、翔馬はエレベーターホールに向かって駆け出した。
「境さん!」
切羽詰まった翔馬の声に、黒いスーツを着た境が振り向く。
幸い、周囲に他の社員の姿はない。
「あの。どういうことですか? 辞めるって」
息を整えながら話しかける翔馬に、
「――ああ」
赤く塗った唇を軽くゆがめて、境が不機嫌そうな声を出した。
見たこともないその表情に気圧されながらも、
「……商品のこと、勉強するっておっしゃったばかりじゃないですか」
思いきって翔馬は切り出す。
いくらお世話になった先輩でも、ここははっきりさせておかなければ。