【Case1】4.「危ない橋」もいろいろ (4)
電車を降りた人と、改札に向かう人。ラッシュ時ほどではないが、駅ビルと駅前ロータリーを結ぶ通路には二つの流れができている。
イヤホンで音楽を聴きながら小さくハミングする境の前方に、小柄な女の子の姿が現れた。
塾帰りの中学生だろうか。Tシャツにショートパンツ、背中にリュックを背負ったその子の肩が、すれ違いざま境のジャケットにあたり、
「すいません」
少女がぺこりと境に頭を下げる。
「こちらこそ」
余裕のある笑顔で境は答えた。
長い間温めていた計画が、ようやくうまくいった今夜。ちょっと中学生にぶつかられたくらいで、機嫌をそこねるわけがない。
境と反対方向に歩き去った少女は、そのまま改札の前を通り過ぎ、駅の反対側の出口に向かった。
地上につながるエスカレーターを降りながら、握ったこぶしをそっと開く。手の中にあった小さな機器をスマートフォンで撮影すると、少女は撮った写真をすぐさまどこかへ送信した。
「……」
背中まである長い髪の陰で、猫のような大きな瞳が、楽しそうにきらめいた。
~・◆・~・◆・~
少し時間をさかのぼって、同日午後七時十五分。
翔馬は、いつものバーのドアを開けた。
時間が早いせいか、店内にはまだ他の客の姿はない。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中には、初めて見るバーテンダーが入っていた。
すらりとした姿に、オールバックの黒髪と白い肌。
白いシャツに黒のベスト、黒の蝶ネクタイの上の華やかな顔立ちは、女性と間違えられてもおかしくないほどだ。
年は若そうだが、長い睫毛に縁取られた目には不思議な落ち着きがあった。
「生ビールを」
スツールに腰を降ろしながら、翔馬はメニューを見ずに飲み物を頼んだ。
仕事のあとの一杯目は、つい習慣でビールにしてしまう。せっかく雰囲気のあるバーに来たのだから、なにかカクテルを頼んでみようとはいつも思うのだが。ジョッキではなくグラスを頼んだのは、せめてもの抵抗だ。
受け取ったチューリップ型のグラスに翔馬が口をつけたタイミングで、
「こんばんは」
ひとつ空いた右隣の席に、若い男性客がするりと腰掛けた。
「モヒートください」
人懐っこそうな口調で、隣の客がカウンターの中に声を掛ける。
クリエイティブ系だろうか。珍しいナロータイと小さく後ろで結んだ髪に、翔馬の目がとまった。
黒縁眼鏡に、珍しい耳の縁のピアス、こめかみにピンクの入った長い髪。
なにかスポーツでもしていたのだろう。ラフなスーツの胸は厚い。
ビールのグラスを傾けながら、隣の男の派手な装いを翔馬はこっそり観察した。このあたりには広告代理店の事務所もいくつかあるが、開発部の翔馬にはそうした業種の人と接する機会はない。
「あー疲れた」
飲み物を受け取りながら、男が苦笑いしてバーテンダーに話し掛けた。
「取引先で、トラブルがあったみたいで。こっちまでバタバタなんすよ」
耳に心地よく響く、少し甘くて低い声。きっとカラオケが得意なタイプだ。
つくづく自分とは違う世界の人間だなと翔馬は思う。
「トラブルですか。大変ですね」
涼しげな声でバーテンダーがこたえた。
よく見ればこちらの彼も、右の耳にだけ銀色のピアスが光っている。
「そーなんすよ。なんか、辞めた社員が、開発関係の内部資料持ち出したらしくて。その人、同業他社にヘッドハンティングされてて、手土産代わりにしたんじゃないかって」
言葉を切ってモヒートのグラスに口をつけた客が、「うま!」と目を細める。
(……なんだよ、それ)
急に吹き出てきた額の汗を、なるべくさりげなく見えるよう、翔馬はハンカチで押さえた。
「開発関係の内部資料」「持ち出し」――隣の客が発した言葉に、身体が反応している。
さっき境に渡したばかりの、資料もつけていないただの議事録。翔馬から見れば、あんなのは内部資料とも呼べない、とるにたらない情報だ。
とはいえ、一応部外秘扱いの書類を、「持ち出し」――他部署の社員に渡してしまった形であることは、間違いないわけで。
(落ち着け。こっちの話とは違うから)
震えそうな手で、ポケットから取り出した煙草に火をつけようとしながら、翔馬は懸命に自分に言い聞かせる。
隣の客が噂しているのはきっと、でかい話だ。世間に知られたらニュースになるような、それこそ、設計図の流出みたいな。




