【Case1】4.「危ない橋」もいろいろ (3)
「じゃあ、社内メールで」
言いかけた翔馬さんに、
「ううん、USBの方が。手渡しでお願い」
かぶせるように境さんが言った。
「早速だけど、今週の金曜日はどう? 早めの時間で」
「……わかりました」
翔馬さんの答えに、俺は翠と無言で目を見合わせる。
二時間ほどで店を出ると、ふたりはバーの入ったビルの前で別れた。
ふたりきりで飲んでいたのを、他の社員に知られたくないのだろう。何度も振り向いて頭を下げながら先に駅に向かう翔馬さんの背中を、境さんが見送る。
その様子を、ふたりの少し前に店を出た翠と俺は、近くの路地から見ていた。
やがて、翔馬さんの姿が見えなくなると、境さんがスマホを取り出した。
酒が入って気怠い雰囲気をまとっていたさっきまでとは別人のように、しゃきっと背筋を伸ばした境さんが、登録済みらしき番号に電話を掛ける。
「××さんですか? Zの境です」
そのまま、なにやら打ち合わせが始まった。
「今、汐留ですか? 今後の予定についてご報告が」
(お?)
汐留には、Z社のライバル企業、業界第二位のY社がある。
建物の陰で、俺はわくわくしながら隣に立つ翠の顔に目をやった。ちらりとこちらを見返した翠は、すぐまた視線を道の向こうの境さんに戻すと、無表情のまま通話内容に耳をそばだてる。
「例のあれ、金曜日には手に入りそうです」
境さんのセリフに、
(――ビンゴ!)
小さくガッツポーズをした俺を、しれっとした目で翠が眺めた。
「はい。――ええ。それより、開発部に配属っていうお約束、お願いしますね? そのために私、危ない橋渡ってるんですから」
アルコールが入っているとは思えない歯切れのいい口調で、電話相手に切り込む境さん。
(まー、強気)
俺は通話中の彼女の後ろ姿を、惚れ惚れと眺める。
同業他社との秘密の電話に、内部資料の持ち出し。「開発部配属のお約束」と「危ない橋」
ここまではっきりしてるともう、あっぱれっていうか。身内なら腹立つとこだろうけど、所詮は他人事だしなー。
きゅっとくびれたウエストに、むっちりしたふくらはぎ。
口笛でも吹きそうな勢いで境さんの曲線美を鑑賞する俺を、引いた顔で翠が見ていた。
~・◆・~・◆・~
四日後の金曜日、午後七時過ぎ。
「境さん、これ」
会社の最寄り駅を通過し、いつものバーに向かう道すがら、本郷翔馬は新人時代の研修担当である人事部の先輩・境に、小さな封筒を手渡した。
「ありがとう」
境が素早く建物の陰に入ると、中身を確認する。
「ほんと、助かるわ。さすが本郷君」
「……いえ」
いたずらっぽい笑顔で言われて、翔馬の耳が赤くなった。
学生時代からつきあっている年下の彼女には、境とのことを嫉妬されているようだが、先輩との間には誓ってなにもやましいことはない。
開発部のことを学びたいなら、翔馬ではなくもっと年次が上の社員に頼む方が自然だとか。内部資料の内容を伝えるのは、社内規定に抵触する恐れがあるとか。彼女――椿には、折に触れ指摘されているものの。
(椿は、神経質すぎるんだ。会社勤めの経験がないから)
翔馬はそんな彼女の指摘を、胸の中で一蹴する。
とはいえ、美人で仕事ができて人望もある先輩から、相談を受けたり、洒落たバーでふたりきりで飲んだりすることに、自分がこっそり胸を躍らせているのも事実だ。
(――ひょっとして、プラトニックな浮気の範疇に入るのかな? これは)
最近では休日も、彼女と会うより、境に頼まれた勉強用の資料を作ることを優先しがちになっている。
文系学部出身だが打てば響くような境に、商品開発について初歩から教えるのは、女子の少ない工学部出身の翔馬には新鮮な楽しさだった。司法試験で頭がいっぱいの椿相手では、こうはいかない。
翔馬の渡した封筒からUSBメモリーを取り出した境が、その手をするりと上着の胸元に差し入れた。どきっとするような動きに、翔馬の視線がくぎ付けになる。
ジャケットの内ポケットにUSBをしまった境は、色っぽく翔馬に微笑みかけた。
「週末、これで勉強するね」
「はい。それで参考になるなら」
どうやら、先輩に満足してもらえたらしい。
ほっとしてこたえた翔馬に、
「じゃあ、今日は家でごはん食べるって母に言ってきたから」
境がさらりと言う。
「え?」
翔馬の目が泳いだ。
てっきり今日も、いつものバーで飲みながら、開発部の業務についてあれこれ話すものだとばかり。
「またね」
そう言うと、境は翔馬の返事も待たず、身を翻して通り過ぎたばかりの駅へ足早に向かった。
「……」
置き去りにされた翔馬は、しばらくその場でなんとも妖艶な彼女の後ろ姿を見送っていたが、やがて小さく息をつくと、いつものバーへと足を向けた。
~・◆・~・◆・~
それから数十分後の、同日七時五十分。郊外にある、ベッドタウンとして知られる某駅の改札そば。
改札から出てきた境が、駅ビルのテナント前を軽い足取りで歩いていく。




