【Case1】4.「危ない橋」もいろいろ (2)
「そう言うと思った。おまえなら」
翠が微笑んだのと、建物から翔馬さんらしき人物が出てきたのが同時だった。
「来た」
画像と見比べてささやいた俺に、翠がうなずく。
ひょろりとした長身の、一見どこにでもいそうな若手サラリーマン。温厚そうな印象だが、眼鏡の奥の目は意志が強そうだ。
彼と並んで歩いている女性が、おそらく例の不審な先輩社員、境さんだろう。
はっきりした顔立ちに真っ赤なリップ。遠目にもツヤのある髪は前下がりのボブで、タイトなスーツに包まれた胸は、歩くと軽く揺れるほどの存在感だ。
「ゴージャス~」
人目を惹く美女ににやける俺に、
「だな」
無表情に翠がこたえる。
俺らは、ふたりの後をつけはじめた。
~・◆・~・◆・~
「――それはわかってるけど。なんとかならない?」
期待通りのセクシーな低音ボイスで、境さんが翔馬さんに囁いた。
照明を抑えた店内で、黒いカウンターの上に点在する小さなキャンドルが、境さんのぽってりした唇を美味しそうに照らす。
「そう言われましても、部外秘は……」
隣のスツールに座った翔馬さんが、手にした煙草を灰皿でもみ消すと、困ったように頭の後ろをかいた。
「……もう吸わないの?」
ちらりとそちらに目をやった境さんが、首を傾げて翔馬さんに笑いかける。
「彼女と一緒のときは、吸わせてもらえないんでしょ? いいのよ? こんなときくらい」
「……じゃあ、遠慮なく」
翔馬さんが軽く頭を下げて、新しい煙草に火をつける。
ふたりの会社の最寄り駅の反対側、ビルの三階にある、隠れ家風の小さなバー。翔馬さんたちの座ったカウンターの背後の席で、翠と俺は会話を盗み聞きしている。
俺らのテーブルの上に並んでいるのは、しゃれたグラスに入ったノンアルビールとジンジャーエール。せっかくのおしゃれバーなのに、尾行中だからノンアルなのは残念な限り。まあ、尾行がなくても、早生まれの翠はまだ飲めないんだけど。
小さな音で流れているジャズと、他の客たちの話し声。それらに紛れたカウンター席のふたりの声は、かろうじて内容は聞き取れるものの、嘘の“響き”までは判別できない。
だけど、そんなものが聞こえなくても、これは――。
「確かに、ちょっとだけルール違反だけど。そうはいっても、単なる議事録よ?」
きれいな色のショートカクテルを手に、境さんが翔馬さんの耳元に顔を寄せた。
これまでのふたりの話から、わかったこと。
入社時からずっと人事部に所属している境さんは、今の環境に不満があるらしい。とある分野で国内首位のシェアを誇る精密機械メーカーであるZ社は、ものづくりにこそ価値があるという社風で、間接部門である人事部の、それも女性社員である彼女は、これまでに何度も他部署の社員から舐めた対応をされて、悔しい思いをしてきたのだという。
さらにいえば、もともとは境さん自身も、ものづくりがしたくてZ社に入った身だ。当然、今まで何度も異動願いを出してはいるのだが、優秀な仕事ぶりが仇になってか、人事部の方では当面彼女を手放す気はないらしい。
そこで境さんは、他の部署の業務内容について、独自に勉強しようと思い立ったのだという。
手始めに、新人時代に研修を担当したことでその後もそこそこ親しかった翔馬さんから、開発部の現在の動向を教わることにした。
その延長で、今は彼の担当案件に関する最新の資料、具体的には、部外秘扱いの会議議事録を読ませてほしいと頼んでいるらしい。
「お願い。本郷君にしか頼めないのよ、こんなこと」
境さんが、胸の前で両手を合わせた。その拍子に寄せられた両の胸が、スーツの下で存在を主張する。
「関係者間の温度差なんかを、頭に入れたいだけで。他の資料はいらないから」
合わせた指の先に塗られた、キャンディみたいなミルキーベージュのネイル。その奥に見えるスーツのインナーの、谷間の見えそうな深い襟ぐりに、翔馬さんの理性がぐらりと揺らぐ音が聞こえてきそうだ。
「……本当に、会議資料はなしで?」
灰皿に煙草の灰を落とし、軽く眉をひそめた翔馬さんに、
「だって」
つややかな髪を揺らして境さんが笑った。
「設計図なんて、私が見たってわかるわけないじゃない」
境さんが、きれいな手で翔馬さんの肩を叩く。
「……今回だけですよ?」
グラスのビールを飲み干して、翔馬さんが前を向いたままつぶやいた。
「嬉しい! ありがとう」
境さんが、翔馬さんの腕にそっと手を置く。途端に真っ赤になる、翔馬さんの耳。
ちょろいわー、翔馬さん。いや、気持ちはわかるけど。




