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【Case1】1.「気づいてない」ってことに気づくのが、一番の難関 (8)

「またそんな、適当なこと言って。それに、ひとり暮らしなんてもう五年目だよ? 私」


 レジの前に立ったまま、容赦ない口調で言う椿さん。小柄な警部とほぼ同じ高さから、大きな瞳が父親を射抜く。


「お父さん、安心して。ちゃんと勉強してるから、私。あと、いくら言われても公務員試験は受けないからね」


「しかし」


 言いかけた警部が、


「……わかった」


 言葉を飲み込んだ。


「お母さんによろしくね、お父さん」


「ああ」


 心なしか肩を落として、警部が店を出ていく。

 引き戸がそっと閉められるやいなや、椿さんがこっちを振り向いた。


 まっすぐな眉の下の目が、奥のテーブルから様子を見ていた俺らの視線とぶつかる。黒目の大きな、吸い込まれそうな瞳。


「すみません。お騒がせして」


 顔を赤くした椿さんが、勢いよくこちらに頭を下げた。

 今日は客の出足が遅いのか、店内には俺らの他にはまだ誰もいない。


「まあまあ、椿ちゃん」


 レジから出てきた奥さんが、椿さんの肩をぽんと叩いた。


「大丈夫よ。あちらの学生さんたち、よく来て下さるの。お父さんとも顔見知りよ」


「そうですか。父がお世話になっております」


 椿さんが、もう一度俺らに頭を下げる。


「固いなあ。そういうとこ、お父さんそっくり」


 奥さんに苦笑されて、


「え? それはやだ」


 急に椿さんの眉が下がって、情けなさそうな顔になった。

 ふふ、と楽しそうに奥さんが笑う。


 なんか、父親よりここの奥さんの方が、ずっと仲良さそうじゃん。面倒見いいし、かっこいい大人って感じだしな、奥さん。

 俺は、不器用そうな田崎警部がちょっと気の毒になる。


 そのままカウンター席に座った椿さんに、


「なんだか元気ないわね。今日はひとり?」


 隣に立った奥さんが、なにげなくたずねた。


「……最近、あんまりうまくいってなくて。彼と」


 椿さんが苦笑して目を伏せる。


「ずっとひとりで勉強してたら、なんだか人の作ってくれたごはんが食べたくなっちゃって」


 弱っているらしい椿さんに、奥さんがからっと笑いかけた。


「あららー。でも、来てくれて嬉しいわ。ま、喧嘩するほど仲がいいっていうし。仲直りしたら、また翔馬しょうま君とも一緒に来てちょうだい」


「……できたらですけど」


 椿さんがまた苦笑する。


 話の感じだと、普段椿さんはこの店に、彼氏と一緒に来ているらしい。それも、ほぼ週末の昼限定で。夜に来ることの多い俺らとはすれ違いだ。


「お待たせしました。A定一つに、B定二つです」


 そこで、俺らのテーブルに柊二が料理を運んできた。


「一椀」のメニューは毎日二種類。和食のA定食と、洋食か中華のB定食だ。うまいし栄養バランスいいし値段も手頃だから、あの田崎さんがいるかもと思っても、つい通っちゃうんだよなー。


「いただきまーす」


 俺は箸を取ってサンマの塩焼きのA定を、肉食のミーコと翠は、ロールキャベツのB定を食べ始める。


「お父さん、さっきはああおっしゃったけど。椿ちゃんのことが心配で、わざわざこっちまで来られるのよね」


 カウンターから、椿さんをからかうような奥さんの声が聞こえてきた。


「愛されてるわよねえ」


「もうほんと、子離れしてほしいんですよー」


 椿さんの実家、つまり田崎警部が妻と住む家は東京の東の端にあり、都内西部にあるF大に進学した椿さんは、入学と同時に大学近くのワンルームで暮らし始めたらしい。毎日東京横断するのは大変すぎるってことで。そしてそのまま、今年の春大学院に進んだそうだ。


 F大法学部の大学院か。すげーな。

 中学受験以来、勉強らしい勉強をしていない俺は、感心する。


 俺や翠の通うS大は、中等部からエスカレーター式の、割と裕福な学生の多いブランド大学だ。それにひきかえ、同じ私立でも付属校がなく、ロボットなんとかコンテスト常勝の工学部や、司法試験の合格率が高い法学部で知られるF大は、質実剛健なイメージ。

 そういやこの店、F大の学生多いわ。キャンパス近いもんな。


 ぼんやりそんなことを考えながらメシを食いつつも、気づけば俺の目は、カウンター席の椿さんに吸い寄せられていた。



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