【Case1】1.「気づいてない」ってことに気づくのが、一番の難関 (6)
「めしどころ 一椀」
紺地に白で書かれた看板をくぐって、からりと引き戸を開けると、正面のカウンター席に座る中年男性の後ろ姿が目に入った。
椅子の背に掛けられたよれよれの背広と、ぴしっと伸びた背筋。
店に入りかけた俺ら三人の間に、緊張が走る。
と、それを吹き飛ばす勢いで、
「いらっしゃいませ!」
若い男の店員が、嬉しそうに近寄ってきた。
今どき珍しい、ペンキみたいな真っ黄色の頭に、人の好さそうなちっこい目。店長夫婦の甥っ子で、名古屋から出てきて住み込みで働いている柊二だ。
「お団子、かわいいっすね! ミーコさん」
「ありがとー。さすが柊二君、わかってるよねー!」
背中まであるまっすぐな髪を、今日は某夢の国の歌って踊れるスーパースターなマウスみたく、両耳の上でお団子にしているミーコ。柊二はいつも、こいつのちょっとした変化も見逃さず大絶賛する。
車が好きで、峠を攻めすぎて高校を中退したという彼は、どういうわけかこの店で会った二歳下のミーコにひとめ惚れしたらしい。
俺から見たら、なんでこんなチビにそうなるのか、めちゃめちゃ不思議なんだけど。ほっそくて胸もねーし、将来的には美人になりそうな顔立ちではあるものの、卵型のつるんとした顔に目尻の上がったでかい目っていう組み合わせは、なんかアンドロイドみてーだし。
でもそのおかげで、ミーコの同居人である俺らにも、柊二は異常にサービスがいい。ミーコの方にはまるでその気がなさそうなのが、気の毒だけど。
過去にはこの柊二に、峠を攻めてたそのドライビングテクニックで、ブルーの作戦を手伝ってもらったこともあった。言うまでもなく、俺らが世間を騒がす怪盗ブルーだなんてことは知らせずにだ。
ありがたかったけどあれは、同乗した俺にとってはなかなかの恐怖体験とでもいうか、ぶっちゃけ地獄のドライブだった。なんとかの向こう側っていうか、きれいなお花畑見えかけたからね、マジで。
ハンドル握ると人格変わる人って、実在するのな。都市伝説じゃなくて。
「こちらへどうぞ」
柊二に案内されて、三つあるテーブル席のうちの一番奥のテーブルに向かう俺らに、さっきのカウンター席の客がちらりと目を向けた。エラの張った四角い顔と、ぶっとい眉毛。推定五十代のおっさんだ。
と思ったら不意に、表情はそのままで、おっさんがこちらに軽く頭を下げた。これまでに言葉を交わしたことはないものの、何度かこの店ですれ違っている俺らの顔を、いつの間にか向こうも認識していたらしい。
俺らも軽く会釈を返して、一番奥のテーブル席についた。
「……焦ったー!」
オーダーを取った柊二が厨房に戻った瞬間、息をひそめてミーコが言うと、テーブルに突っ伏した。
「……」
隣の俺と向かいの翠も、揃って無言で息をつく。
最近この店の常連客であることが判明した、カウンター席の男性。あのおっさんこそブルーの天敵、夏休みに俺が捕まりかけた、警視庁の田崎警部だ。
去年の秋に起きたブルーの最初の事件で、翠と俺が真山第一美術館からブラックオパール“双子の銀河”を盗み出したとき。翠の工作により、警察上層部は捜査に消極的だったにもかかわらず、あのおっさんは独自の判断で現場に現れ、実行犯の俺を捕まえようとした。
その後も、ホテル・マヤマでのレシピ盗難・食品偽装事件や、別の美術館での水彩画盗難(翠に言わせれば「借り出し」)事件、そして、この夏の真山総合病院外来棟での、盗電・闇カルテ事件まで。怪盗ブルーのあらゆる現場で、田崎警部は上層部の指示を無視して、「刑事の勘」一筋で俺らの尻尾をつかもうとしてきた。
そのせいで俺は、ヘリコプターにぶらさがったまま銀座の空を逃走したり、割と大きな川の土手で警部に追い詰められてたところを、瀬場さんにハングライダーで救出されたりと、無駄にアクロバティックな経験を積んでいる。
ちなみに、秘書の仕事も家事も完璧な瀬場さんは、まさかのハングライダーのタンデムもできるというイケオジだ。
俺の死んだ親父より年上であろうあの人に、ぴっちぴちの二十歳の若者であるにもかかわらず、俺はまるで勝てる気がしない。運動神経も胸板の厚さも、絶品ホットケーキを作る腕前も。
無論、カウンター席の田崎警部は、たまにこの店で見かける俺らが怪盗ブルーだなんて気づいてはいない。過去の事件で、遠目に俺の黒ずくめの仕事着姿は見られているものの、身につけていた特殊ゴーグルとニットキャップで、容貌までは認識されていないはず。




