【Case4】3.男のスーツは胸で着る説 (10)
無駄に勘の鋭い部下をいなしながら机の上の書類を揃えつつ、
(……おかしい)
田崎警部は、内心首をひねっていた。
あのあとも病院で一時間以上待機したが、怪盗ブルーからの接触はなかった。
一階総合受付の蛍光灯が一斉に切れた件については、専門家の言った通り偶然の一致だとみる捜査員もいたが、警部自身はブルーのしわざだと信じている。予告状通り、外来棟の電力は「少々」奪われたわけだ。
だが。
「……それだけ、なのか?」
田崎警部の口から、低い声がもれる。
何かがおかしい。
先日、予告状を届けに現れたところを捕らえかけた、あの若者。ブルーはこんなくだらないいたずらのために、あそこまで身体を張ったのか?
スチール製のデスクに向かって考え込む田崎警部のもとに、
「田崎警部、こんなものが!」
突然、捜査員が駆け込んできた。
「どうした?」
振り返った警部の鼻先に、数枚の書類が押し付けられる。
「ブルーから、これが添付されたメールが、警視庁の代表と警部の個人アドレスに」
「なに?!」
ブルーから送られた資料をプリントアウトしたものらしい、A4サイズの書類。それらに目を通す間もなく、警部は慌てて自分のパソコンを起動する。
メールボックスをチェックすると、言われた通りのメールが届いていた。
短い本文には、ブルーの署名。
しかも、送信元は――。
「真山総合病院のアドレスじゃないか!」
「そうです! それも、IPアドレスを調べたところ、わざわざ外来棟事務室のパソコンから送ってきたようです!」
送信時刻は今日の午後、六時四十五分。予告状にあった時刻だ。
だがその時間、外来棟には捜査員たちが張り込んでいたはずで。
「――やられた!」
デスクにこぶしを叩きつけた警部を、周囲の部下たちが恐る恐る見守る。
どうやら、怪盗ブルーの本命はこのメールだったらしい。どんな方法を用いたのかはわからないが、予告状にあった「電力」とは、外来棟のパソコンを無断で使うことを示していたのか。
だが、そこまでして警察の注意を引こうとした、その内容とは。
「そうだ」
気づいて、警部は広げたままにしていたブルーからの資料を手に取り、目を通し始めた。
「……これは?」
そこには、予想もしなかった情報が記されていた。
――「真山総合病院入院棟、VIPフロアの患者に関する、”闇カルテ”の一部をお送りします。 ――怪盗ブルー」
白い指が、メールの送信記録を削除した。
暗い部屋の中で、なめらかな頬がディスプレイの光に照らされる。
八月三日深夜、自分の部屋でワークステーションと数台の端末に向かっていた翠は、ヘッドフォンとブルーライトカットグラスを外すと、ゆっくり肩を回した。
警視庁に送ったメールは、無事開封されたらしい。
あちこちのサーバーを経由し、最終的には遠隔操作で真山総合病院の外来棟事務室マシンから送ったメールだが、今の警視庁の技術では、真の送信元に辿り着くのは不可能だろう。
翠の目が、メールに添付したファイルに向けられる。
その内容は、真山総合病院外来棟の最上階、VIPフロアに入院していたとある患者の、他の患者の電子カルテとは別に保管されている極秘記録。いわゆる闇カルテだ。
入院時期は一九九九年二月、患者の名前は“AOI NARUMI”――成海碧。
闇カルテとは、成海碧による代理母出産、つまり、翠の誕生の記録だった。
「……とはいえ、すぐに動いてもらえるとも思えないけど」
頬杖をついた翠が、コンピュータの画面に向かってつぶやく。
突然こんなものを送りつけられて、警察はさぞかし困惑していることだろう。駄目押しに同じものを送っておいた田崎警部は、個人的にやる気を出しているかもしれないが。
いきなり”闇カルテ”などと言われたところで、病院側がその存在を認めるはずもない。
警察がその気になれば、脱税容疑等でカルテの捜査の口実はみつけられるだろうが、真山絡みの事件について上層部が消極的な現在、わざわざ国税局と縄張り争いをする手間を掛けて、そこまでやるとは到底思えない。
(――そう、現状では)
椅子に座ったまま、うーん、と翠は伸びをした。
この作戦も、これで一段落だ。
ひとつだけ誤算だったのは、犯行予告を夜七時前にしたこと。
外来棟の照明が落ちたとき、建物の外が暗い方がインパクトがあるだろうと、LEDライトが切れる時刻は日没直後に設定したのだが、残念ながらその時刻だとあの辺りはまだそう暗くはなかった。本庁に戻ったあともブルーからのメールの対応に追われるであろう田崎警部のために、病院での陽動作戦はなるべく早い時刻に終わらせてあげたかったのだが。
それにしても、なかなか長い計画だった。なにしろ、恒星があの予告状を届けた日のおよそ二か月前、五月の連休末には、清掃業者を装ってあの外来棟に潜入し、パソコンの不正操作の仕込みを行うと共に、一階受付天井の蛍光灯をすべて、用意したものと取り換えていたのだから。
メールに添付した闇カルテ、つまり謎の患者・成海碧の極秘出産の記録の方は、それよりさらに早く、数年前に入手していた。クラッキングの痕跡は、いまだに気づかれていないらしい。
真山夫妻に捕らえられたきり行方不明の成海碧の消息については、失踪当時に遠縁の親戚から捜索願は出されたものの、手がかりのないまま十六年が過ぎている。
カルテにある成海碧という名前は、そうありふれたものではない。加えて、警察のデータベースにある捜索願と一致する、生年月日と血液型。
このカルテについて調べることで、母の行方に、そして真山夫妻の犯した悪事の一部に、警察は否応なく辿り着くはずだ。
そのために。
翠の頭の中で、様々な考えが渦を巻く。
警察を動かすために。闇カルテの謎の患者について、彼らが捜査せざるを得ない状況を作り出すために。
この先、どんな手を打つか。
「……頼りにしてるよ。世界に名だたる、優秀な日本の警察の皆さん」
画面に向かってぱちりと音のしそうなウインクをした翠が、ふと視線を落とした。
ふっくらした唇の端が、かすかに上がる。
「そろそろ俺も、片付けないとな。……宿題を」