【Case4】2.理由 (5)
そこで翠は、ちょっと息を継いだ。
「……信じがたいことだとは思うが。彼の両親はそこで、思いついたらしいんだ。彼の代わりに、二男を――俺を、跡継ぎにしようと。ほんの少し前まで、息子の心臓のスペアとしか思っていなかった俺を」
「――!」
あまりにグロテスクな話に、俺はうなじの毛が逆立つのを感じた。
――莫大な権力と財力を誇る嫁ぎ先で、長男の嫁として男子の出産を求められながら、長年不妊に悩んできた妻、つまり翠の遺伝子上の母親は、四十歳を前にようやく生まれた長男に心臓移植が必要だとわかったころから、精神のバランスを崩し始めていたらしい。
そんな彼女に、代理母だった成海碧の思わぬ抵抗や、翠の逃亡、そして長男の急死が追い打ちをかけた。
息子の死を受け入れきれなかった彼女は、いつしか、亡くなった長男と翠を混同するようになっていた。実際、ふたりは兄弟だけあって、顔だちがよく似ていたそうだ。
対応に困った夫は、翠を妻の手元に置くことで、荒れる彼女をなだめられるのではないかと考えた。たとえ、翠本人としてではなくとも。
片や、夫の方は、翠個人に対する執着はないものの、血筋へのそれは先に説明された通り妻以上だった。
幼少期から跡取り息子として特別扱いされてきた彼は、異母弟妹との間に確執があり、家督は彼らの子である甥や姪ではなく、自分の遺伝子をより色濃く持つ人間に譲りたいという強い希望があったのだという。
その結果。
「日本を出て三年。六歳だったある日、俺は当時暮らしていたスイスで、誘拐されかけた。彼らの手の者に」
幸い、父親や瀬場さんの対応により誘拐は阻止されたものの、翠はそこで自分の出生の経緯を知ることになった。
「そのとき、俺は決めたんだ。十五になったら、日本に戻るって」
翠の声に、力がこもった。
「逃げてばかりは性に合わない。難しいことはわかってる。それでも、どうにかして、やつらのしたことを明るみに出す。あいつら――真山グループ総裁、真山晴臣夫妻が、母さんと俺にしたことを」
「……え?」
背後で、ミーコのつぶやく声がした。
俺も、あぜんとして翠の顔を見返す。
真山グループ――俺の知ってるそれは、金融、交通から各種メーカーに不動産等、あらゆる分野にグループ企業を擁する、日本でもっとも有名な財閥系企業グループで。
その総裁夫妻の名が、ここで?
「真山晴臣と妻の陽子、それが、俺の遺伝子上の両親の名前だ」
無表情に翠が告げた。
「やつらが、成海碧――母さんの人生を奪ったこと。そして、生きた臓器として俺を生み出し、殺そうとしたこと。それを、人々の前にさらけ出す。もちろん、正面からあたっても無理だ。財政界だけじゃない、司法やマスコミ、あらゆる分野に真山のネットワークは張り巡らされていて、総裁夫妻に対する個人の告発なんて握りつぶされるのは目に見えている」
さして悔しくもなさそうに、翠が続ける。
「だから俺は、この怪盗ブルーという計画を立てた。成海碧――母の名前を想起させる、ブルーという名の怪盗を。少しずつでいい。世間の注目を集めた上でやつらの力をそぎ、母さんと俺にしたことを裁きの場に出すことを目的に。……ああ、この間の本島美術館は例外だけど」
翠が思い出したようにちょっと笑った。
――“双子の銀河”と呼ばれるオパールを奪った、真山第一美術館。メインダイニングの食品偽装を暴くことになった、ホテル・マヤマ。そして、今日俺が行った、真山総合病院。
俺は、この間『春の池』を一晩拝借した本島美術館を除いた、これまでのブルーのターゲットを思い出す。
そういえば、最初の真山第一美術館の事件のあと、警備会社や保険会社へのダメージについて俺がたずねたとき、翠はろくに取り合おうとしなかった。いつも周到なこいつが、さして気にする様子もなく「いいんだ」と。……あのとき、真山グループ系列であろう警備会社や保険会社も、ターゲットの一部だったとしたら。
そうか。最初の二つの事件が真山絡みってことに気づいたから、田崎のおっさんは今日、あの病院を張ってたんだ。
そうはいっても、他にもめちゃめちゃいっぱいあるけどな。真山グループの事業。
「真山夫妻は今も、俺を手に入れることを諦めていない。俺を捕らえさえすれば、どんなに俺が彼らの後継者になることを拒んでも、薬物を使って洗脳し、やつらの操り人形として真山グループ次期総裁の席に据えることくらい容易にできる。俺の意思など、必要ない」
ぞっとするようなことを、普通に口にする翠。
「彼らの長男、真山慧のスペアパーツとして生まれ、何もかも奪われ、追われて生きるのが俺の運命だというのなら――俺は、運命を超える」
翠の瞳の奥で、見たことのない光が揺れた。
「今度は俺が、やつらを狩る。暗く安全な場所に身を潜め、のうのうと暮らしてきたやつらを、人々の前に引きずり出す」