【Case2】3.重なる軌跡 (2)
さすがに、ちょっとやり過ぎた。かもしんない。
数十分後、俺はさっきの自分の態度を、少々反省していた。
つい、ウザ絡みしちゃったんだよなー。珍しくおろおろする翠の顔が面白くて。
ミーコに止められて俺が絡むのをやめたあとも、なんかあいつ、ちょっと元気なかったような気が。
(……なんだよ、もー)
俺は、わしわしと髪をかき回す。
ただの冗談だろ。めんどくせー。……あーまあ、俺のせいなんですけど。
口が、勝手にへの字になる。
……とりあえず、部屋で仕事してるあいつに差し入れでもして。ついでに、軽く謝っとくか。軽ーくね。
そんな殊勝な考えで、俺がキッチンで翠のマグにあいつの好きなココアを淹れた、ちょうどそのとき。当の翠が、二階奥のあいつの部屋から出てくる音が聞こえた。
(お、ナイスー)
階段を降りてくる翠の足音。
俺は厚手のマグをダイニングテーブルに置くと、やつと入れ違いにリビングを出ようと、そそくさとドアに向かう。
やっぱ、わざわざ謝んのとかだるいし。こうしとけば、さすがに言わなくても察してくれんでしょ、あいつも。
リビングのドアを開けて入ってきた翠と、
「……」
俺は目を合わさず、無言ですれ違う。
ドアを閉めようとノブに手をかけたとき、後ろから翠の声がした。
「恒星、これ」
振り向くと、テーブルの脇で大きな目が戸惑うように、水色のマグと俺の顔とを行き来している。
(……おいー……)
まさか、わかんねーの? おまえ用に作ったって。
絶望的に鈍い翠に、俺はなんだか言い出しにくくなって、
「……ああ、忘れてた。さっき淹れたの」
つい、変な嘘をついてしまった。
その途端、翠の目がきらんと光って、俺はちょっとたじろぐ。
「いらないなら、もらってもいいかな? このココア」
期待に満ちた、ガキみたいな瞳。
「……どーぞ」
仕方なく、俺はこたえる。
「ありがとう」
立ったまま、さっそく湯気を立てるマグに口をつけた翠が、
「人の淹れてくれたココアは、おいしいな」
びっくりするほど無邪気な笑顔になった。
それはもう、ピュアっていうか、無垢っていうか、混じりけのない嬉しそうな顔で。
「……」
なんともいえない気持ちになって、俺はくるっと後ろを向くと、足早にリビングを出た。
二階への階段を駆け上がり、音を立てて自分の部屋のドアを閉めると、そのまま勢いよくベッドにダイブする。
(……おまえ用に淹れたに決まってんだろーが! おまえのマグにココアっていったらよー!)
うつぶせでじたばたしながら、俺は無言で思いきり枕にパンチした。
ココアとか、わざわざ自分で作ってまで飲まねーんだよ俺は! 普通にコーヒー飲んでんだろーが、いつも!
砂糖のめいっぱい入った、あっまい子ども用のやつ。あんなの常備してんの、ここんちだけだからな?!
(……なんで気づかねーんだよ、あいつはー?)
どうにも収まらなくなった俺は、罪のない枕を両手でボスボスとシーツに打ちつける。
「だー! もー!」
俺ってそんなに、親切なことしなそうな顔してんの?
それとも、慣れてねーのかな? あいつ。他人からの、そういうの。
さんざん枕をいじめてようやく気が済んだ俺は、ふうと息を吐いてベッドに仰向けに寝転がった。
(……しょーがねーなあ。あいつは、ほんと……)
『防犯カメラの映像には、恒星君の首から下の姿が、はっきりと捉えられていたそうだね』
「ええ」
その夜遅く、二階の突きあたりにある自室の窓辺で、翠はいつかの高齢の男性とスマートフォンで話していた。
ベッドと、窓際の大きなデスク、その上に置かれた数台のコンピュータといくつもの関連機材。それらを除くとほとんど物の見当たらない、殺風景な部屋。
明かりを消した部屋の中から、翠は窓のブラインド越しに葉の落ちた庭木を見下ろす。
『二十歳前後の、おまえにそっくりのプロポーションの若者か。さぞかし動揺しただろうな、先方は』
ざらりとした声で、楽し気に男性が笑った。
『それにしても、楽な方法をみつけたじゃないか。紙切れ一枚でつついただけで、ムシュラン一つ星店のみならず、老舗ホテルのブランドまで失墜か。……私の方は、少々面倒だったがね、古い友人に声を掛けたりと。そうそう、彼には、退職祝いを反故にした埋め合わせをしなければ』
「ご協力、感謝しています」
笑みを含んだ声で翠が言った。
『……ずいぶん、のんびり過ごしているようだな。計画は中止か?』
からかうように、男性がたずねる。
「いえ」
きっぱりと翠がこたえた。
「ケガで少し遅れてしまいましたが、準備が整い次第進めます」
『……そうか』
感情を乗せない声でつぶやくと、男性が声のトーンを変えた。
『ところで、右手の具合はどうだ?』
「おかげさまで、順調に回復しています」
『それはよかった』
ほっとしたような声に、
「このたびは、ご心配をおかけしました。瀬場さんにも、よろしくお伝えください」
湿布を貼った右手に目をやりながら、翠が申し訳なさそうな顔になる。
『利き手のケガとは、不自由だろうな』
「ええ。……ですがケガにも、ときにはいい点もあるようです」
翠の意外な発言に、男性が興味深げにたずねた。
『ほう。それはどんな?』
翠が軽く首を傾げ、言葉を選ぶように視線をさまよわせる。
「そうですね――」
やがて、長い睫毛がわずかに伏せられると、形のいい唇の両端が上がった。
「……たとえば、おいしいココアが飲めたり」
翠の白い顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。
【 Case2 了 】