【Case2】2.盗まれたレシピ (7)
あてこするような調子でシェフが続ける。
「だってそうじゃないですか。俺が何を言ったところで、材料は結局、」
「よさないか、その話は」
総料理長が、うるさそうにそれを遮った。
「そうですよ。食材については、会議で決まったことじゃないですか」
マネージャーも、まだ若いシェフをにらみつける。
「はいはい、わかってますよ。全部、会議で決まった通り」
シェフが肩をすくめた。
「俺らは、その日店に届いた食材で、手順を踏んで作るだけですよ。『レシピ』の通りに」
「シェフ、その件はもう」
総料理長が言いかけたとき、
「果たして、そうでしょうか」
背後から、穏やかな声が掛けられた。
慌てて三人が振り向く。
その先には、いったいいつからそこにいたのか、グレーを基調とした廊下の壁と床の色に紛れるように、見知らぬ男性が立っていた。
年齢は六十歳前後か。中肉中背、特徴のない顔立ちに、よく手入れされているが型の古いスーツと靴。全体的に、印象の薄い男だ。
「すみませんね。立ち聞きするつもりはなかったのですが、皆さんの声が耳に入りまして。お話しになっていた“ザ・マヤマ”を、先ほどこちらでいただいた者ですが」
地味な男が、軽く頭を下げた。
どうやら、ホテル内に残っていたランチの客らしい。三人も困惑した表情で頭を下げる。
「実は先日、仕事を辞めましてね。退職祝いとでもいいますか、今日は古い友人と約束しておりまして」
ひかえめな笑みを浮かべた男に、
「それはそれは。おめでとうございます」
総料理長が、その場をとりなすように肉付きのいい手を大げさに広げてみせた。
「大切な日に当店をお選びいただき、ありがとうございます」
マネージャーが再度頭を下げ、シェフも目を伏せたまま一礼する。
軽くうなずいて、男が話を続けた。
「以前ビジネスの席でいただいた“ザ・マヤマ”を、今度はプライベートで旧友と楽しもうと思っていたのですが。残念ながら今日、彼は急用で来られなくなってしまいましてね。……でも、その方がよかったのかもしれません。」
思わぬ話の流れに、マネージャーが神経質に瞬きする。
「確か、こちらのお店のお料理、特に“ザ・マヤマ”は、独自の厳しい基準で育てられた酪農製品や野菜を使用しているというのが特徴だったかと」
「おっしゃる通りです」
男の言葉に、総料理長が大きくうなずいた。
「当ホテルのメインダイニング『ラ・ナチュール』、その看板メニューにふさわしく、自然の恵みを最大限に活かしたフレンチをモットーに、真山グループ直営の農場で独自の基準を満たして生産された牛肉と野菜、乳製品を使用しているのが自慢の一皿でございます」
「確かに、牛肉も他の食材も良いものでした」
静かな声で男が言った。
「ただ、いずれも本来のレシピにあった素材とは、似て非なるものとでもいいますか……率直に申し上げて、今日の皿は、以前いただいた“ザ・マヤマ”とは異なる料理という印象を受けました」
抑えた口調ではあるものの、その衝撃的な内容に、総料理長とマネージャーの顔色が変わる。
反対に、それまで目を伏せていたシェフの顔には、場の雰囲気にそぐわない不思議な表情が浮かんだ。
「あの、お客様。詳しくお聞かせ願えませんでしょうか。どのような点で」
目を輝かせて言いかけたシェフを、
「失礼ながら、お客様」
総料理長が視線で抑えると、大きく咳払いして続けた。
「味の記憶とは、あてにならない部分もございます。一流の料理人やその道の専門家ならいざしらず、一般の方ではなかなか難しい部分があると申しますか……。ご存じの通り、当店は昨年あのムシュランガイドにおいて、一つ星という評価をいただいておりまして」
その隣でマネージャーも、威圧するようにうなずく。
慇懃無礼な二人の態度に、見るからに高級料理店には縁のなさそうな男性がひるむかと思われたそのとき、
「申し遅れました。わたくし、そのムシュランガイドの覆面調査員として、昨年こちらで“ザ・マヤマ“をいただいた者です」
古びたジャケットの内ポケットに手を入れた男が、昨年のムシュランガイドと名刺を取り出した。
総料理長とマネージャーが、無言で表情を凍りつかせる。
名刺を受け取ったシェフが、苦し気に目を細めた。
「実はつい先日、調査員を退任しまして。今日は純粋に自分の楽しみのための食事をしようと、こちらにうかがった次第でしたが」
元調査員の男性が、残念そうに首を横に振った。
「怪盗とやらの話は存じませんが、どうやら、あの素晴らしかった“ザ・マヤマ”のオリジナルレシピは、失われてしまったようですね。本当に、楽しみにしていたのですが……」




