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【Case2】1.猫は木から落ちない(滅多に) (2)

 数時間後。


「だからって、そんなすぐ探し始める?」


 歩きながら、俺はあきれた声を出した。


「『できたら』って言ってたじゃん、あのばーちゃん。ちょっと休んでからにしねえ?」


 手には、ピンク色のフーちゃんのキャリーバッグ。中には、彼女のおやつやお気に入りのおもちゃが入っている。


 おばあちゃんを見送り、掃除を終えた俺たちは、ひと休みする間もなく、フーちゃんを探しに近所の巡回を始めていた。


「元気だといいね、猫ちゃん」


 翠と俺の間で、でかい目をきょろきょろさせながらミーコが言う。


 あの逃亡劇から二か月。新しい住居に、こいつの父親の追っ手が近づく気配はない。俺の思惑通り、娘は外国に逃げたと思ってくれていればいいのだが。

 例の“勘”もOKサインを出しているそうで、まだ家の近くだけだが、最近ミーコは少しずつ外に出始めている。


 そのミーコの向こうで、


「ああ、すまない。疲れているなら、恒星はもう帰ってくれていい。猫の件は追加だからな。バイト代はもちろん、予定通り全額払う」


 足を止めずに言う翠に、


「別に、そういうんじゃなくて」


 俺は眉をひそめた。


「俺は、おまえがフラフラしてるから言ってるだけで」


「フラフラ?」


 不思議そうに、翠が俺を見返す。


「寝てねーだろ、ずっと。すげえクマできてる」


 翠のぱっちりした目の下を俺が指差すと、


「大丈夫。俺はおまえみたいに、走ってヘリからぶら下がったりするわけじゃないから」


 何かがずれた答えが返ってきた。


「……おま、極端だなたとえが。そーゆーことじゃなくて」


 雲ひとつない一月の空の下、いつもながら俺らの会話はかみ合わない。


「あ、あれじゃない?」


 そのとき、ミーコが突然立ち止まって声をあげた。


「あの、枝の分かれてるとこ」

「……おー。猫だな、あれ」


 目の前の木の、上の方で太い枝が二つに分かれたところに、ふわふわの白い毛玉が乗っているのが見えた。

 白いかたまりが動いて、枝の上にひょこっと猫の顔が現れる。


 まだ若いせいか、顔に対して大きく見える三角の耳。まんまるい金色の目。


 わ、かわいい顔してんなー。

 動物好きの俺は、頬を緩めた。


 白猫は機敏な動きで枝の先に移ると、そこから力強く飛び出した。





「だーかーらー。猫は、高いとこから飛び降りるくらい余裕なの!」


 俺の声に、翠が肩をすくめる。


「くるくるっと回って、忍者みてーに降りてくんじゃん。知らねーのかよ。てか、自分がケガしてどーすんだよ」


 俺は今リビングのソファで、風呂上がりの翠の右手に、湿布やら保冷剤やらを包帯で巻きつけているところだ。前のマンションから無事運び出された、めっちゃ座り心地のいい、「人をダメにする」茶色い革のソファ。


「……知ってはいたけど、実物を見たことがなくて。咄嗟に、つい」


 上目づかいでぼそぼそ言う翠と、その隣で大あくびするフーちゃん。


 昼間、高い枝から飛び降りたフーちゃんを受け止めようと、無謀なダッシュをかました翠は、滑り込んだときに右手をひねって病院送りになった。


 痛む手を押さえてしゃがみ込んだ翠の傍らで、余裕で着地したフーちゃんは逃げるそぶりも見せず、「ねー、お腹空いたんですけどー」とばかりに、初対面の俺の脚にピンク色の鼻をすりつけてきたものだ。さてはおまえ、めちゃめちゃかわいがられて育ってんな? あのばーちゃんに。


 あっさりとキャリーに入ってくれたフーちゃんの保護なんかより、その後休日診療やってる整形外科を調べて、嫌がる翠を車で連れていく方がずっと大変だった。


「……おまえ、そんだけ猫に慣れてないのに、よく今まで捕まえてきたな。迷子猫」


 逆にちょっと感心して、ナイスファイト、と翠の頭をわしわし撫でると、


「!」


 くるっとカールした睫毛に縁どられた大きな目が、俺を見上げて固まる。


 ……ちょっと、なにその反応? 傷つくんですけど。

 こう言っちゃなんだけど、おまえのこと車で病院運んだの俺だからね? ねん挫で済んでよかったよな、マジで。


 こちらも一応獣医に診てもらったフーちゃんは、脱水気味だが健康状態には問題なし。とりあえず、リビングの一角に彼女用のスペースを作った。体調が落ち着いたら、例の譲渡団体に連れていく予定だ。飼い主のばーちゃんに電話で報告したら、すげー喜んでくれてほっこりした。


「……さてと。風呂上がりだし、なんか飲む?」


 作業を終えた俺が、利き手の使えないこいつにいつもの水でも出してやるかと腰を上げかけると、


「いや、それくらい自分で」


 翠が慌ててソファから立ち上がる。


(……頼ればいいのに。こんなときくらい)


 そう思うものの、手を出しかねて黙って見ている俺の前で、キッチンに入った翠が冷蔵庫から炭酸水の瓶を取り出した。


 右の脇にボトルを挟んで、左手でキャップを開けようとするが、うまく力が入らず苦戦しているようだ。パジャマの上に着ているカシミアのカーディガンが滑るのかも。


 数分後、蓋が閉まったままの炭酸水の瓶が置かれた調理台の前で、翠は肩を落として立ち尽くしていた。


(……しょーがねーなあ。こいつは、ほんとに)


 俺は立ち上がると、無言でボトルと対峙している細い後ろ姿に近づき、声を掛ける。


「そーやって、瓶眺めんのが好きなの? おまえ」


「……そう。瓶を眺めるのが好きなんだ」


 頬を赤らめ、かたくなに俺と目を合わせようとしない翠。


「……」


 吹き出しそうになるのをこらえて、俺は瓶のキャップを開け、泡立つ水をグラスふたつに注いだ。


「……ありがとう」


 不本意そうではあるものの、いかなるときも礼儀正しい翠に、


「……別に。俺も飲むとこだったから」


 俺も目を合わせずにこたえる。


「あー、いいお湯だったー」


 ちょうどそのとき、リビングのドアが開いた。


「こーちん、お風呂お先にいただきまし、たー……?」


 髪を拭きながら部屋に入ってきたミーコが、シンクの前で妙な距離感で並んで立つ俺らの姿に、大きな目をまるくした。





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