【Treasure7】 2.(1)
一年で最も気温の低い季節の、それも早朝。
それぞれにキャリーケースやスーツケースを引きながら、足早に改札を抜けた乗客たちの人波が、二台のエスカレーターの手前で左右に分かれる。
たった今俺の目の前で左折した、細身の後ろ姿。
チャコールグレーのダッフルコートの、フードの下ですっと伸びた背中に俺は声を掛けた。
「――『成田空港第一ターミナル、南ウイング』。さすがだな、セバさん」
「――!」
驚きに目を見開いた翠が、声も出さずに俺を振り返る。
成田空港第一ターミナル、地下一階。四階の国際線出発ロビーにつながるエスカレーターの手前の、少しだけ広くなったスペース。
左手にある南ウイング行きのエスカレーターに向かっていた翠が、数歩先で振り向いた姿勢のまま、信じがたいという顔で俺を凝視している。
「……」
アルミのキャリーケースの持ち手を握るほっそりした指に、力がこめられたのがわかった。白っぽい照明のせいで、ダッフルコートの上の顔は、まるでよくできた人形みたいに見える。
よお、と俺は翠に片手を上げた。
「『東京・チューリッヒの直行便があるのは、スイス航空のみ。チェックインカウンターは、成田空港第一ターミナル南ウイング。時間からいっても、間違いないかと』
……だってよ、セバさん。
おかげで、なんとか追いつけたわ」
どうということもない、世間話のように言った俺に、
「……そうか」
早々に事態を把握したらしい翠が、小さく息をついて苦笑した。
「さすがだな、瀬場さんは。……おまえも、恒星」
通路の端で向かい合う俺たちを避けて流れていく、上りエスカレーターに向かう人波。翠や俺と同様、朝早くそれぞれの家を出てきたのであろう乗客たちは、気のせいか皆、どことなく眠そうな顔に見える。
カラフルなスーツケースを転がしながらはしゃぎ声をあげる、旅行客と思しきグループに、荷物が少なく歩くスピードの速い、ビジネス目的であろうスーツ姿の人たち。外国人観光客の集団からうっすらと漂ってくる、嗅ぎ慣れない香水やスパイスの香り。
ふと、翠が不思議そうな顔になった。
「昨夜はシャンパンも空けたし、寝たのだって遅かった。なのにどうしておまえは、こんなに早く」
「……どーしても、気になっちゃって」
俺は、目をそらして白状する。
「ゆうべのおまえの飲みっぷりが、あまりによかったからさ。なーんか引っかかって。部屋のドアちょっと開けて寝たら、今朝おまえが出ていく音が聞こえて」
昨夜、日付をまたいだあたりで、俺ら三人は翠の誕生祝いをお開きにして、それぞれの部屋に戻った。
翠の態度にどうにも引っかかるものを感じていた俺は、ドアをわずかに開けたままベッドに入った。
結果、俺は今朝のめちゃくちゃ早い時刻に、玄関の閉まった音で目を覚ますはめになる。
そして直後に、控えめなノックと共に部屋に入ってきたセバさんから、俺は翠の行き先を告げられた。
「……そうか」
諦めたように首を振った翠が、ゆっくりと口を開いた。
「二十歳になったら、受け取れることになっているんだ。スイスの口座にある、父の遺産の一部を」
キャリーケースの持ち手に右手を掛けて、翠がまっすぐに俺の目を見る。
「ずっと、この日を待っていた。自由に使える金が手に入る、この日を」
俺の視界の端を次々と流れていくキャスターの立てる、頭蓋骨に響くような独特の音。それをベースに、様々な人の靴音や笑い声が、俺らの立つ地下通路で混じり合う。
微妙にこもった音の中で、
「……うんざりなんだ、もう」
挑むような目で、翠が言った。
「怪盗ごっこも済んだことだし。そろそろ、ひとりにしてくれないか? 俺ひとりなら、世界中どこでだって暮らしていける。おまえたちみたいな、足手まといさえいなければ」