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【Treasure5】 1.(3)

 都内からも真山の自宅からも離れたこの家は、真山に一切を託された新堂が選び、産後の碧が子どもと暮らせるよう必要な物を買い揃える等して整えた。他の何より、生まれてくる赤ん坊の健やかな成長を重視して。


 最初に真山からその話を聞いたときは、正直なところ、ひどく金に困った、しかも少々頭の悪い娘なのだろうと思ったものだ。陽子の遠縁の、両親を早く亡くしたという碧という娘のことを。


 いくら「本家のお嬢さん」である陽子と、その嫁ぎ先であるあの真山家に頼まれたからとはいえ。代理母出産のみならず、お腹の子が生まれたあとの数年間、シングルマザーとして育てることまで了承したという碧。まだ二十五だという彼女は、ことの重大さを理解していないに違いない。


(――運の悪い娘だ)


 既に真山の下で多くの汚れ仕事を担ってきた新堂が抱いた感想は、それだけだった。その娘を待ち受ける未来がどれほど悲惨なものであれ、自分には関係のないことだと。


 だがその後、真山から彼女の写真を見せられたとき。


 新堂の中に、それまで予想もしたことのなかった、激しい感情が生まれた。


 白い頬の柔らかな線と、穏やかだが意志の強そうな瞳。

 清楚だが生命力にあふれた碧の容貌に、新堂は一目で惹きつけられた。


 そして同時に。


(――これは)


 写真だけで「見えた」のは、それが初めてだった。


 碧の写真を目にした、その瞬間。新堂の脳裏には、とある映像がありありと浮かんだ。

 幼い少年の手を引き、何者かから逃れようとしている、未来の自分と瀬場の姿。


(――まさか)


 たった今自分が「見た」、人目を惹く整った顔立ちの少年。真山晴臣の長男のけいによく似たあの子は、写真の碧のお腹にいる赤ん坊の、数年後の姿だろうか。


 お腹の子を待つ未来について、既に真山から聞かされていた新堂は、ひそかに戦慄した。

 しかも、その映像の中に、碧の姿はどこにもない。


(……どういうことだ)


 それ以降、人知れず新堂は苦悩した。


 やがて、真山総合病院で無事に極秘出産を終えた碧は、すいと名付けた息子と共に、新堂の用意した小さな家で暮らし始めた。


 真山の遣いで碧の家を訪れるようになった新堂は、彼女と言葉を交わすうちに気づく。碧が、自分の引き受けたことの意味を、十分理解しているということを。


 理解した上で、受け入れた。決して莫大とまではいえない経済的な支援の代わりに、未婚の身で真山夫妻のための代理母となることを。そして、生まれた子を人目につかない環境でひとりで育て、その子を三年後に真山家の二男として手放すことを。


 他人のために、そこまでできる女性。それが果たして、本人にとっていいことなのかどうか、新堂には判断できなかった。

 ただ、気づいたときにはもう、惹かれていた。親子ほども年の違う相手に。


 とはいえ、たとえ碧に思いを寄せることがなかったとしても。自分の振る舞いはおそらく変わらなかっただろうと、その後幾度となく思い返すたび新堂は思う。


 この小さな家への訪問を重ねるうち、天涯孤独な新堂にとって、彼女や生まれたばかりの翠と過ごす時間は、仕事以上のものとなっていった。


 それまで人の情というものを知らず、むしろそれを強みに、貧しい境遇から真山家の顧問弁護士へとのし上がってきた新堂は、碧たち母子を通じて、初めて心の安らぎというものを知った。


 いつしか、新堂にとってふたりは、かけがえのない存在となっていた。


 ――だが。 


「すまなかった」


 新堂が、深く頭を下げた。


「あなたを、助けることができなかった」


 散る花の向こうで、碧が黙ってかぶりをふる。


 翠が真山家に引き渡される前にふたりを逃がそうとした、新堂のひそかな準備もむなしく、碧と幼い翠が真山晴臣の手の者に捕らえられた、あのとき。真山邸の地下牢にいた翠はなんとか助け出せたものの、一方の碧は、どこにいるかさえわからないままだった。


 翠が真山の長男・慧のためのドナーベイビーだったことに気づいた碧は、おそらく捕まってすぐに口封じのため殺害され、遺体は真山家が全国に所有する土地のどこかに埋められたのだろう。


 真山の汚れ仕事に携わってきた新堂には、そうした場所のあてもいくつかあった。

 だが、限られた時間の中では、幼い翠を連れて国外へ脱出するのが精一杯で、碧を探し回る余裕はなかった。


 明るい春の日差しに、淡い色をした新堂の瞳が透ける。

 その瞳をかすかに揺らして、新堂は、何もかも超越したような表情の碧に問いかけた。


「……翠を。あの子のことを、幸せにできただろうか? 私は」


 初めて会ったあの春の日から、およそ二十年。

 七十を前にした新堂と、あのころのままの瑞々しい二十代の姿の碧は見つめ合う。


 新堂の前で、碧の目がゆっくりと細められた。


「――ありがとうございます」


 記憶の中と同じ、柔らかな声。

 この上なく嬉しそうに笑った碧に、新堂は目を伏せて微笑むと、静かにかぶりを振った。


「こちらこそ」


 空から舞い落ちる無数の花びらと、眩しい光。


「あの子のおかげで私は、幸せだった。ずっと」


 噛み締めるように、新堂がつぶやく。


 ふたりの間に、春の強い風が吹いた。


 やがて、視界いっぱいに広がった花びらで、新堂はなにも見えなくなった。





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