【Treasure1 胸騒ぎ ~身につける系のプレゼントって難しい~】 1.
「……だあれ?」
幼い、おそらくはまだ就学年齢に達していない、男の子の声。
(――子どもの、声だ)
翠は、ゆっくりと顔を上げた。
濡れた頬に触れる、冷たい空気。
どうやら自分は、膝を抱えて泣いていたらしい。
パンツ――いや、長ズボンと呼ぶべきか。子ども用の衣服の膝の、涙で湿った布地が、外気で急激に冷えていくのを感じる。
伸縮性に富んだ柔らかな布地を、翠は無意識に指で撫でた。
視界は、涙でぼやけている。
(――ああ、また)
いつもの夢だ、これは。
目の前に広がる、これまでに何度も夢の中で目にしてきた風景に、翠は気づく。
翠の意識の中心部分は、現実と同じ――たとえば今なら、十九歳のままなのだが。
この夢の中では、翠の心と身体はいつも、幼い子どものそれに戻っている。おそらくは、三歳前後の幼児の心と身体に。
とはいえ、夢の中の自分の姿を自分で見たことはないのだが。
白っぽい空を背景に、茶色い土と支柱ばかりが目立つ真冬の庭園。その奥で、小さな男の子がこちらを向いて立っているのが見えた。
「どうしたの?」
暖かそうなコートを着た少年が、翠に向かって不思議そうに首を傾げる。ついさっき翠に声を掛けたのも、この子だろう。
晴れてはいるが、気温は低い。
陽だまりで膝を抱える子ども時代の姿の翠に向かって、男の子がゆっくりした足取りで近づいてきた。
細い首と、その上の白い顔。黒目がちな大きな瞳に、花びらのような唇。
女の子と間違えられてもおかしくない、かわいらしいその顔立ちはなぜか、翠自身の幼いころとよく似ているような気がした。
(あれは、俺か? ……いや、違う)
――『これが彼だよ、翠。そして――』
以前父に見せられた、古い写真を翠は思い出す。
そこに写っていた、彼とその両親の姿。
(彼は――)
いつの間にかすぐ近くまで来ていた男の子を、土の上に座り込んだまま、翠は黙って見上げた。
相手は幼いが、その彼よりも今の自分はさらに年下であることを、夢の中の翠はわかっている。
(そうだ)
翠は思い出した。
「日に当たるため」にここに来たのだった、自分は。そして、事前に何度も言われた通り、座って「じっとしている」
だけど。
「……泣いてるの?」
不思議そうに、男の子が翠の顔をのぞき込んだ。
彼の言う通りだった。翠は泣いている。
「……」
瞬きと共に、新たな涙が翠の頬を伝った。怖くて、なにがなんだかわからなくて、――寂しくて。
男の子がコートのポケットから白いハンカチを取り出すと、そっと翠の頬にあてた。
柔らかいハンカチで涙を拭いてくれるその子に、
「母さんがいない」
しゃくりあげながら、夢の中の翠は訴える。
目の前の男の子より、もっと幼い声で。
「母さんが、いない。お誕生日なのに」
そうだ。
今日は二月十三日、自分の誕生日。
なのに、母さんがいない。
翠の瞳から、涙があふれる。
それだけじゃない。
暗くて、寒くて、怖いことばかりで。
「――そうなの?」
翠を気づかうように、男の子が優しそうな笑顔になった。
「それじゃあ」
なにか言いかけた彼の声が、そこで突然聞こえなくなった。
(――まただ)
気づいて、翠は幼い顔に似合わないしわを眉間に寄せた。
この夢の中では、いつもここで、彼の声が聞こえなくなる。
目の前で、賢そうな瞳をきらきらさせて、自分に向かってなにか語り掛けている少年。
その声は、まるで防音効果のある透明な壁で遮られているかのように、翠の耳にはまったく届かない。
夢だとわかっていてももどかしくて、翠はなんとか彼の声を聞き取れないかと、目の前の幼い顔を懸命にみつめた。
と、不意に、その顔がかき消された。
場面が変わって、翠の目の前には真っ赤な炎が広がり、中から二体の「鬼」が現れる。
般若の面をつけた顔のまわりに、ぼうぼうと伸びた白い髪をなびかせ、長い爪の生えた指を伸ばして、翠に迫ってくる鬼たち。
これが夢だと頭の中ではわかっているにもかかわらず、夢の中の幼い身体は、恐怖で言うことを聞いてくれない。
「……」
翠は大きな目をみはって、鬼たちの前で凍りついたように立ちすくむ。
そのとき、身動きできないでいる翠を、温かい腕がさらった。
(――母さん)
きつく抱き締められているせいで顔は見えないけれど、すぐにわかった。
母さんの匂い。「お池の公園」へ散歩に行くとき、いつもつないで歩く手。
幼い翠は、母の温かい身体にしがみつく。
暗闇の中、母と翠を追う鬼たち。
翠を抱いて飛ぶように走っていた母が、突然何かにつまずいて、つんのめるように倒れた。
倒れる瞬間、抱き締められていた腕に思いきり前に放り投げられた翠は、闇の中をひとり落ちていく。
「――!」
怖いのに、喉から声が出ない。
……ひとつ、ふたつ。
大きな目を見開いたまま、どこまでも落ちていく幼い翠の身体のまわりに、ひらりと赤い花びらが舞ったかと思うと、見る間にその数を増やした。
降り出した雨のように身体を包む、無数の花びらたち。翠の目の前の闇が、赤く染められていく。
(……)
やがて、幼い翠の目が静かに閉じた。
閉ざされた視界の中で、強い花の――バラの香りだけが、濃く漂う。
(……母さん――)
シマリスのような大きな瞳が、静かに開いた。
ベッドと窓際にある様々な電子機器の置かれた大きなデスク以外、これといって目につくもののない、殺風景な翠の部屋。
木製のブラインドのかかった窓の外は、まだ暗い。
白いシーツの上で、つかの間、翠はぼうぜんと天井を見つめていた。
「……」
瞬きすると、なめらかな白い頬に、目の中にたまっていた涙が転がり落ちる。
(――久しぶりだな。この夢は)
手の甲で涙を拭うと、新堂翠はゆっくりと起き上がった。
ヘッドボードからスマートフォンを手に取ると、ベッドに腰掛けたまま画面を開く。
夜明け前の暗い部屋の中で、白い頬がスマートフォンの光に浮かび上がった。
翠の指が、画面の背景にしている母と自分の写った古い写真を拡大する。昔住んでいたという家の小さな庭で、咲き乱れるバラの前で翠を抱く母と、二歳のころの翠。
写真を撮られるのが苦手な人だったそうで、母――成海碧の写真は、他にはほとんど残っていない。
「……」
写真を眺める翠の顔に、淡い笑みが浮かんだ。
穏やかに微笑む白い顔と、長い髪。おとなしげな顔立ちの母と、膝の上の自分の顔との間に、共通する要素はあまり見当たらないが、写真の中のふたりは雰囲気がよく似ている。たとえ血縁はなくとも、傍目には十分親子に見えていたことだろう。
翠はすんなり伸びた指で、写真の中の幼い自分の顔に触れる。
「……なぜなんだろうな」
形のいい眉が、軽くひそめられた。
――直接会ったことはないはずの彼が、なぜ自分の夢に、それも何度も現れるのかは、一向にわからないが。
改めて見ても、写真の中の自分の顔は、さっきの夢に出てきた少年――遺伝子上の兄、亡くなった真山慧にそっくりだった。




