【Case3】4.秘密 (1)
真山百貨店での金のバラ盗難事件の翌日、日曜日の午後。
自宅二階の突き当たりにある自分の部屋でデスクに向かっていた翠は、ふとスマートフォンを手に取った。
白い指が写真のフォルダーを開くと、一枚の古い写真のデータを拡大する。
荒い画質で描かれた、小さな庭に咲き乱れるバラの花と、その前で母に抱かれている二歳の翠。――翠自身の記憶には残っていない、亡き母の面差しと、母と暮らした小さな家。
「……」
翠の黒い目が、苦しげに細められる。
そのとき、手の中のスマートフォンが通話の着信を知らせた。
まるで金縛りがとけたかのように、はっとした翠が表示を見る。
その目が見開かれたかと思うと、スマートフォンの画面が素早くタップされた。
「――こんばんは、父さん」
時刻はもうすぐ午後三時。父のいるアメリカ・シアトルでは、夜の十一時になるはずだ。
「珍しいですね、こんな時間に」
驚きを隠さず言う翠に、
『ああ』
特徴のあるかすれた声で、父が笑った。
『昨日、電話をもらったそうだな。留守にしていてすまなかった』
父の言う通り、昨夜遅く翠は父に電話をかけた。いつものように日本時間で日付の変わるころ、シアトルの現地時間では朝の八時に。
「ええ。昨夜は驚きました。瀬場さんに、父さんが入院中だと言われて」
翠が楽しそうに笑った。
「健康診断だったそうですね。一泊二日の」
『瀬場に、うるさく言われてね。この年になれば、そういったものも必要だと。病院の消灯時刻に合わせて、早い時間に無理にベッドに入ったら、調子が狂って今日はまだ眠くならない』
海の向こうの父が、情けなさそうな声でぼやいた。
『いろいろと面倒ではあったものの、おかげで予定より早く、来月半ばにはそちらに帰れそうだ』
「それは楽しみです。……どこも、悪いところはなかったんですね? 検査の結果は」
確かめるように翠が言う。
昔いためた左脚を除けば、翠の知る限り医者とは縁のない父も、年が明ければ六十九になる。若いころから苦労を重ねたせいか、白髪やしわの目立つ父は、周囲からは実際よりも年上に見られがちではあるが。
『ははは。若いころとまるで同じとはいえないがね』
いつも通りの軽妙な父の答えに、翠は安心して微笑んだ。
翠にとって、父――新堂は、たった一人の家族だ。父親としては高齢であるものの、できる限り元気でいてほしい。
『それより、昨日はなかなか活躍したそうじゃないか』
面白がるように新堂に言われて、
「ええ、人前でカードマジックを。瀬場さんの薫陶の賜物です」
さらりとこたえると、翠は静かに続けた。
「……久しぶりに、ブルーの名前を出しました」
『――そうか』
これまでずっと、この件については翠の考えに任せると言ってきた通り、ブルーの再始動について父は何も言わない。
「百貨店の百周年記念に、バラを持ち出され。それを真山家の象徴とまで言われて」
ぽつりと翠が言った。
「……我慢、できませんでした。よりによって、母さんが大切にしていたバラを」
『……それが、向こうの狙いかもしれないとは思わなかったか?』
穏やかな声でたずねられ、翠が目を伏せる。
「正直なところ、まるで思わなかったとは言えません。でも」
苦しげに翠が続けた。
「……耐えられなかった。これ以上、母さんの大切な物を汚されるのは」
『……そうか』
静かに答えた父が、
『警察の動きは、どうなっている?』
感情を交えない声でたずねた。
「警察ですか」
軽くあごをひいた翠の表情が、不敵なものに変わる。
「八月に警視庁に送った闇カルテの影響で、警察の内部では真山家への疑念が広がっています。真山とつながりの深い上層部は、火消しに躍起になっているとか。そこへ今回の事件があったことで、必然的に真山とブルーの関係を疑問視する声は高まっているようです」




