【Case2】3.たまには「日常の謎」スタイルで (5)
そのとき、黙ってお茶を飲んでいた翠が立ち上がった。
縁側の隅に置かせてもらっていた便利屋の荷物の中から、なぜか双眼鏡を取り出した翠が、他の三人になにも言わずに庭に出る。
双眼鏡で松の木の方を眺めていた翠が、
「……あれでしょうか」
沢田さんに声を掛けた。
縁側から降りて、促されるまま双眼鏡をのぞいた沢田さんが、
「あれだわ」
両の目をみはる。
「見して」
翠のそばに来た恒星が双眼鏡を受け取ると、
「おー、あそこか」
声をあげた。
双眼鏡のレンズの奥に、曇り空の下で松の木の低い枝の先にぶらさがっている、例の懐中時計が見えた。
「あの高さなら、脚立を貸していただけたら取れると思いますが」
淡々とした翠の言葉に、
「危ないわ、この時期のカラスは気が立ってるから。さっきだって、ほら」
滅相もない、と沢田さんがかぶりを振る。
「でも、どうしてあんなところに主人の時計が?」
不思議そうに沢田さんが首を傾げた。
食べかけのどら焼きを皿に戻した和人君が、不安げな表情で庭に降りてくる。
ひざまずいた翠が、和人君に双眼鏡を差し出すと、
「ほら、この枝に」
レンズをのぞきこんだ和人君に、枝の先に引っかかった懐中時計を示した。
そのとき、
「――ちょっと待っててくださいね」
腰に手をあててあたりを見回していた恒星が、沢田さんが止める間もなく、軽い足取りで庭の奥へと走り出した。
「大丈夫か? 恒星」
「多分平気。今なら」
走りながら翠にこたえた恒星は、あっという間に松の木の下に着くと、軍手をはめて太い幹に取りつく。
「あらやだ。恒星君?」
驚く沢田さんをよそに、恒星はするすると木に登り始めた。
固唾をのんで見守る三人の前で、見る間に問題の枝に辿り着くと、時計を外して地面に飛び降りる。
そのまま行きと同様小走りに戻ってきて、はい、と沢田さんに時計を渡した恒星に、
「もう、恒星君たら!」
沢田さんが、泣きだしそうな声を出した。
「危なかったわよ!」
「俺、高いとこ平気なんで」
恒星があっさりと笑う。
「ちょうどカラスいなかったし、チャンスだと思って」
「もう、ほんとに……。でも、ありがとう」
涙目になって、沢田さんが笑った。
「よかったわ。和ちゃんが大きくなったらあげようと思ってたのよ、これ」
ご主人の懐中時計を見ながら言った沢田さんに、そばに立っていた和人君がはっとしたような表情になった。
「ほんとうに、いろいろとありがとう」
仕事を終え、カーポートに停めていた「ブルーオーシャン」のバンに乗り込もうとした翠と恒星に、沢田さんが丁寧に頭を下げた。
コンパクトなシルバーの車体。二月生まれの翠は、今年の誕生日に十八歳を迎えてすぐに免許を取り、便利屋の仕事に不可欠と思われるこの業務用の車両を購入した。かかった費用のうち、いくらかは父から借りている。
「ブルーオーシャン」を立ち上げたのは、そのすぐあとだった。
といっても、起業は金銭が目的ではない。近い将来、真山に攻撃する際の、隠れ蓑のひとつとして利用するつもりだ。
「なにかあったら、またお願いするわね」
沢田さんが、ふたりに笑い掛けた。
「こちらこそ、ありがとうございました。今度もぜひ、よろしくお願いします」
翠の挨拶に合わせて、隣で深々とお辞儀した恒星が、
「またな」
沢田さんの陰に隠れるように立つ、和人君の頭を撫でた。
「……ありがとう」
和人君が、つぶやくように言う。
「よかったな、それ。かっこいい時計」
恒星に言われた和人君が、両手で持った沢田さんの懐中時計に目をやって笑顔になった。
「ほんと、恒星君も和ちゃんも、ケガがなくてなによりだわ」
男の子って、いくつになっても目が離せないのねえ、と沢田さんが胸に手を当てる。
和人君に近づいた翠が、膝に手をついて身をかがめると、白い顔に静かな笑みを浮かべた。
「……カラスは、賢い動物でね。個体差はあるけれど、光る物をみつけると、それを使って遊んだり、巣に集めたりすると言われているんだ」
「……」
翠の穏やかな声に、和人君の顔がこわばる。
その耳元で、
「大丈夫。わかってるよ」
翠がささやいた。
「おばあさんの大切な時計だから、石の上に置いておいたんだね。蹴って、壊してしまわないように」
目を見開いた和人君が、翠を見上げて大きくうなずく。
身体を起こした翠が、沢田さんに向き直った。
「庭のカラスが卵を産む前に、巣の駆除の相談をした方がいいかもしれません。区役所か、専門の業者に連絡して」
「本当ね。また和ちゃんがいたずらされたら困るもの」
うなずいた沢田さんが、和人君の肩を引き寄せて頭を撫でた。
「それでは」
ふたりに頭を下げ、翠は恒星と共に沢田さんのお宅を後にした。




