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【Case2】2.目的より手段が重要なときもある (2)

「……習慣、というほどでは。恒星は?」


 翠の言葉に、


「いや、俺はたまたま、おまえが玄関出る音で目え覚めて」


 楽しげに恒星が笑った。


「もしかして、ここかなーとか思って、顔洗ってダッシュで来たとこ」


 言われてみれば彼が身につけているのは、パジャマ替わりにしているらしいTシャツにハーフパンツ、足元はスポーツサンダルだ。そのくせ、走るスピードは速い。


「ラグビー部だったな、恒星は」


 無駄のないフォームに感心しながら翠が言うと、


「あーでも運動不足だわ、最近」


 恒星は走りながら軽く肩を回した。


「おまえは? トレじゃないなら、ランニング好きなの? 新堂」


 たずねられて、


「そうだな……走るのは好きだ」


 翠はうなずく。


 ――命を狙われたときのことは、ほとんど覚えていない。なにしろ、三歳になるかならないかという時期のことだったのだ。


 相手は、遺伝子上の両親。翠は彼らの長男――翠にとって兄にあたる子どもに、生きたまま心臓を移植するためのドナーだった。


 重い心臓疾患により、早急な移植手術が必要だった長男のために、拒絶反応を最小限に抑えうるドナーを生み出そうと、彼ら――真山晴臣夫妻は、自分たちの受精卵を用いて、真山グループ系列の病院で秘密裏に代理母出産を行った。そうしてこの世に生を受けたのが翠だ。


 出産後も真山家の依頼で翠を育てていた、代理母・成海碧は、二男として引き取られると聞かされていた翠が、実際には間もなく命を奪われる予定であると知り、翠の三歳の誕生日直前に彼を連れて逃げようとしたものの、真山家に捕らえられた。


 真山家の顧問弁護士をしていた新堂の手で、翠は海外に逃れたが、母の行方は今もわからないままだ。おそらく、生きてはいないだろう。


 その後、誘拐されそうになったときについては、少し事情が違う。


 翠が逃亡した数年後、長男を亡くした真山晴臣は、信じがたいことに、真山家の跡取りとして翠を迎えようと考えていた。翠が今や、彼らの遺伝子を受け継ぐ唯一の子どもであるという理由から。


 真山の妻・陽子ようこは、長い不妊治療の末授かった長男を亡くしたことで精神のバランスを失い、亡くなった長男と翠を混同するようになっていた。そんな妻を、長男とよく似た翠を手元に置くことでなだめられると真山が考えたのも、翠を手に入れようとした一因らしい。


 その結果、スイスで新堂と瀬場に育てられていた六歳の翠は、真山の手の者により誘拐されかけた。


 幸い、無理やり車に乗せられそうになっていた翠を目撃した住民の通報によって、誘拐は未遂で終わったものの。あのときの恐怖と、その後父に聞いた、自分の出生にまつわるおぞましい事実は、翠の心に消えない影を落としている。


 だが、同時にそれらは、走ることへの純粋な喜びを翠にもたらしていた。


 自分の望むときに、望む場所で、望むだけ身体を動かし走ること。それは翠にとって、決してあたりまえのことではない。


 健康に生まれた自分、そして、他者の支配から逃れた自分に与えられた、ギフトなのだ。


 頬にあたる風、靴底に感じる土の感触、さらには、呼吸の苦しささえも。


「俺は、俺のペースで行くから。恒星も、勝手に」


 公園のジョギングコースの分岐点でそう言うと、翠は恒星の答えを待たず、短い方のコースへと進んだ。元運動部の恒星はきっと、長い方のコースを選ぶだろう。


 だが、意外なことに、すぐにまた恒星に肩を並べられた。


「帰宅部だったくせに、速いじゃん。新堂」


 余裕のある声で言われて、


「……そうかな。ありがとう」


 翠は控えめな笑顔を作る。


(――彼は、いつまでついてくるつもりなのだろう)


 走りながら会話を続けようとする恒星に、翠は困惑する。

 正直なところ、そろそろひとりになりたかった。


 恒星は悪いやつではないとは思うものの、これまで他人と深くつきあったことのない翠は、同居を始めて以来、遠慮のない彼の距離感に、なんとも落ちつかない思いをしている。


 ついこの前も、急に自分の部屋にやって来た彼に、「おすすめ」の成人用ブルーレイディスクを貸すと言われて、慌ててどうにか断ったばかりだ。


「やべー。負けちゃいそうだなー、俺」


 ちっとも辛くなさそうな顔で笑いかけてくる恒星に、


「まさか」


 にこやかに返しながら、翠はさりげなくスピードを上げて彼から離れた。


 たとえサンダル履きでも、帰宅部だった自分よりは速く走れるものと、恒星が決めつけているらしいのが面白くなかった。


 とはいえ、彼がそう思うのも無理はない。ラグビー部でウイングだった恒星は、高校時代、学年で一、二を争う俊足だったのだ。


 それにしても、どうしてこの男は、わざわざ自分と一緒に走りたがるのだろう。先月以来、彼と自分は毎日家で顔を突き合わせているわけで、そうした状況下なら、お互いにひとりになる時間を尊重する方が自然だと思うのだが。


 もやもやする頭を軽く振って、ランに集中しようとする翠の傍らに、再度恒星が並ぶ。


「……やるじゃん、新堂」


 まだついてくるのか。うっとうしい。


「……いや、まだまだ」


 もはや表情を繕うこともせず、さらにスピードを上げ、翠は恒星を引き離す。

 うっとうしいなら先に行かせればいいのだが、今となってはそれだけでは気が済まなくなっていた。


「……そっか」


 恒星が、またもや翠に並ぶ。


 無言でまた引き離す翠に、笑顔で追いつく恒星。


 ――気づいたときには、ふたりとも全力疾走だった。


「……今日は、これくらいにしておこう」


 やがて、ようやく立ち止まった翠が、両手を膝について肩で息をしながら恒星に声をかけた。


「……だな」


 こたえた恒星が、流れる汗をTシャツの肩でおさえる。


ってー。皮むけた」


 サンダル履きの足をのぞきこんで、のんきな声をあげる恒星を眺めながら、


(……いったい、何を考えているんだ。この男は)


 翠は、心の中でつぶやいていた。


 同居を始めて以来、なにかと必要以上に自分と距離を縮めようとする恒星。

 その言動に、内心いらだちを感じながらも、


「……なにしろ今日は、記念すべき第一回目の、お客様との約束の日だからな」


 額の汗を拭いながら、翠は恒星に優雅に微笑みかける。


 そう。今日は「便利屋・ブルーオーシャン」の、初めての依頼が入っているのだ。




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