【Case2】2.目的より手段が重要なときもある (1)
大学の入学式や新入生ガイダンス、授業の履修登録が終わり、各種サークルの勧誘も落ち着いて、今後のおおまかなスケジュールが固まった四月下旬。
土曜日の早朝、広いがまだあまり人気のない近所の公園で、翠はひとりランニング前のストレッチをしていた。
雲の多い空は、濃い水色。温かい風が、翠の白い頬を撫でる。桜は散ったが、春らしく園内の花壇には様々な花が咲き乱れていた。
速乾素材のスポーツウェアにランニングシューズを身につけた翠は、額のヘアターバンの位置を直して、軽く首を回す。
毎日とまではいかないが、時間のあるときは、なるべく走るようにしていた。
取り立てて、走るのが好きというわけではない。
幼いころ、翠は命を狙われたことがあった。その数年後には、同じ相手に誘拐されかけた。
そして、残念ながら、誘拐の危険は今もなくなってはいない。
相手はおそらく、翠の身体さえ確保すれば、その後は薬物を使って洗脳するなりして、思い通りに動かせると思っている。
自らの身体を他者に支配されないために、つまり自分の身を守るために、何をすればいいか。その答えのひとつとして翠が選んだのが、ランニングだった。
以前、父に言われた言葉を思い出す。
――身体を鍛える? 護身術を身につける? どちらも、悪くはないだろう。
だが、そのやり方には限界がある。
翠、おまえも知る通り、相手は巨大な権力の持ち主だ。向こうの暴力におまえが暴力で対抗しようとしても、金で雇ったプロフェッショナルを使われたらひとたまりもない。
「だからまずは、相手に接触されないように。みつからないように心がけることだ」
父はそう言った。
それでもみつかり、接触されたら、極力ダメージを少なくして、とにかく生き延びる。
そして逃げる。
反撃するのは、基本的には、相手のテリトリーから出たあと。
必要なのは、それらのためのスキルだと。
父からは、初歩的な医学や交渉術、それに相手の力を利用した関節技の使い方など、強い相手に「みつからず」「生き延び」「逃げる」ための様々な技術を学んだ。
……だが、自分はそんな父の教えを、守っているとは到底いえないだろう。わざわざ、敵のホームである日本に戻ってきた上、この先相手を挑発するつもりの自分は。
靴ひもを結び直しながら、翠はひっそりと苦笑する。
母と自分の身に起こったことを知った、六歳のときから決めていた。
たとえどんな相手であろうと、一生逃げてまわるなんてごめんだ。
もしもそれが、自分の運命だというのなら。
俺は、運命を超える。
そのために、父の教えの他に選んだもののひとつが、ランニングだった。
基礎体力と筋力をつけるのは、「無事に逃げる」身体の土台作りともいえる。――単純に、走ると気持ちがいいということもあるけれど。
ゆっくりと走り出した翠の視界に、急になにか青いものが映った。
はっとして振り向いた翠に、
「おっす」
機嫌のよさそうな声が掛けられる。
メタリックな青に染められた、くせのないさらりとした髪。先月から同居を始めた、高等部の同級生だった葉山恒星だ。
「……おはよう」
突然隣に現れた恒星に内心驚きながらも、翠はいつも通り落ち着いた声で答える。
「新堂って、トレーニングする人なの?」
走りながら、恒星が奥二重の目を人懐っこそうに細めた。




