【Case1】5.逢いたい笑顔 (3)
「父さん? 大丈夫ですか?」
驚いた翠が、父に呼びかける。
だが、電波の状態が不安定なのか、相手の声は一向に返ってこない。
『――恐れ入ります』
しばらくして、ようやく翠の耳に届いたのは、父ではなく秘書の瀬場の声だった。
『瀬場でございます、翠様。新堂様は、先ほど急なお仕事の連絡がありまして、そちらの方に』
「……そうか」
翠が安堵の息をついた。
急な仕事の呼び出しで父が出掛けることなら、これまでにもあった。
何かが落ちて割れたような音と同時に通話が途切れて心配したが、そういうことなら心配ないだろう。
「瀬場さん。なにか大きな音がしたけど、大丈夫?」
『はい。申し訳ありません。わたくしが手を滑らせまして、紅茶茶碗を一客』
電話の向こうで恐縮する瀬場に、
「気にしないで。ケガがないならなによりだよ」
翠が柔らかい声でこたえる。
「大したことがないならよかった。それじゃあまた」
『はい。おやすみなさいませ、翠様』
「そちらも、良い一日を。父さんによろしく」
『承知いたしました』
画面をタップして通話を終えた翠が、
「……」
形のいい眉をひそめた。
(手を滑らせた? あの瀬場さんが?)
そのまま、翠は無言でスマートフォンの画面を眺める。
画面の背景は、咲き乱れるバラの前で幼児を抱く、若い女性の写真だった。
翠との通話を切った瀬場が、素早くひざまずいた。
その目の前には、身体を二つに折った新堂の姿。
窓から爽やかな朝の光が差し込む自宅マンションの書斎で、新堂は苦痛のあまり声も出せずに、腹部を押さえて椅子に沈み込んでいる。
「電話が終わりました。お加減はいかがですか? 新堂様」
懸命に背中をさすりながら、瀬場が新堂に声を掛けた。
「鎮痛剤をお持ちしますか?」
「……いい。いつものことだ。じきに治まる」
目を閉じ息を荒げる新堂の足元、毛足の長い絨毯の上には、室内でも手元から放すことのない杖が倒れ、先刻急な痛みに取り落としたティーカップの破片が散らばっている。
「……気づかれたと思うか? あの子に」
額に脂汗を浮かべた新堂が、目を閉じたまま苦しげに瀬場に問いかけた。
「いえ、おそらくはまだ。……ですが新堂様、そろそろ翠様にも」
ためらいながら言った瀬場に、新堂がかすかにかぶりを振る。
「だめだ。翠には言うな。……絶対にだ」
声は小さいが激しい新堂の口調に、
「……新堂様」
滅多に表情を表さない瀬場の細い目に、なにかに耐えるような色が浮かんだ。
「……頼む」
つぶやいた新堂が、腹部を押さえたままわずかに目を開くと、視線をデスクの上に向けた。
さして大きくはないが美しい装飾の施された、赤味がかったチェリー材のデスク。その上に置かれたノート型パソコンの隣には、フレームも中の写真も様々な、数枚の写真立てが飾られている。
なかでもひときわ目につく、中央に置かれた優美な銀のフレーム。
その中には、翠のスマートフォンにあったのと同じ、咲き誇るバラの前で幼子を抱いて微笑む若い女性の古い写真が――幼い翠と、碧の姿があった。
【 Case1 了 】




