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鈍い鉛色の円錐  作者: 無秋
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第八話 僕と野生

 それから二ヶ月、つまり訓練を始めてから半年、僕と巽はつつがなく進級することができ、中等部二年となった。

 司は司で司らしく、中等部の終了し高等部へと着実に進んでいた。中等部三年の終了率に加え、高等部への門の狭さを考えると、僕らの中で誰よりも順調に進んでいるのは司だろう。というか、司に至っては中等部終了時に外部の大学校の研究室からお呼びが掛かったそうなのだが、彼女はそれを一蹴したらしい。一応は研究室を与えられているとはいえ、高等部の課程を履修しながらと大学校で自由に研究できるのとでは環境としては圧倒的に後者の方が魅力的だろうに。

 四月に入ってしばらくしてから、司にそのことを訊いてみたが、要領の得ない返事しか返ってこなかった。思うところがあるのだろうが、やはり僕には司の心情は推し量れない。

周りの環境は少しだけ変化したが、半年間、それだけの期間が経過してもリングレットからの難題は相変わらず続く。手を変え品を変え。

この頃には訓練の方も大体の基本項目はこなせるようになってきていた。半年前に種本先生に渡された紙に書かれていた内容は、いくらかの不備はあれどやり終えたと言っていいだろう。定期的に種本先生は訓練内容の追加や修正をしてくるし、その度対応に追われたりはするが。

そんな折である。

春になって訓練中の僕らのもとに、いつものように種本先生がやってきた。今日は休日だというのに、この人ちょくちょく現れるが暇なのだろうか。

僕と巽はいまいち歓迎できない気持ちをありありと載せて種本先生を見据える。

「なんて目で大人を見ているんだ。仕方ないだろ仕事なんだから」

「だって先生が来るのは僕らの訓練項目を変更する時ばかりだし」

「私たちが進めた訓練を無にするようなことばかりおっしゃいますし」

「この前なんかリングレットとムドリェーツに変な薬飲ませようとするし」

「いつまでたっても犬達の名前覚えませんし」

「たまに白衣が臭うし」

「一昨日研究室でお酒飲んでらっしゃいませんでしたか」

僕と巽は二人して次々に抗議の声を挙げる。

「君達は言いたい放題だな。後半に至っては犬のこと関係ないじゃないか」

 まあいい、と種本先生は切り替える。さすが大人だ切り替えが早い。

「二人とも予想している通り訓練項目の追加だ。と言っても、今日は今までのような難題を持ってきたつもりはない」

 難題吹っかけてることは自覚してたんだな。ちょっと安心した。

「櫂季言いたいことがあるなら口にしなさい」

「いえ、何も」

「そうか。それで今日やる訓練、というか今日からやる訓練なのだが──路上訓練をしてもらおうと思う」

「「路上訓練?」」

僕と巽、二人そろって同じ言葉を反復する。

「そう、路上訓練。何をするかなのだが、別段難しいことをさせるつもりはない。ただこの宇宙局の敷地から外に出て、そうだな繁華街辺りでも散歩してくればいい」

「なんか簡単ですね。今の僕らがやるようなことですか」

「ただし」

 と種本先生は含みを持たせて言葉を区切る。

 あ、これ面倒なこと言うときの癖だ。

「散歩紐はなし。併走指示を徹底させる」

「それは」

「どうしたグラフ、できないか?」

「できます。できますが、危険が伴うかと。なにぶん敷地の外に連れ出したことはありませんし、車両や一般市民が行きかう中を歩くというのは」

「それに慣れさせるための訓練だからな。環境の変化に順応できるかどうかも大事なことだ」

 訓練だからやれといわれてしまえば従う他ない。年度を跨いではいるが、犬の訓練は部活に属していない僕と巽が、その分の成績評価を受けるためにやっていることでもあるのだから。これをないがしろにすればそれこそ三年に上がれない可能性だってある。

 僕達の裁量を多くとっていただいている分だけありがたいというものだ。

 しぶしぶ肯く僕と巽に種本先生はとりなすように言う。

「といっても、グラフの懸念はわかる。万が一宇宙局の犬が子供を咬んだなんて事態になっても問題だからな。それでだ──これを用意した」

 種本先生は白衣のポケットから金属製の小さな筒のようなものを二つ取り出す。

「なんですかそれは」

 初等部の頃に音楽の時間に使っていた楽器にも似ているが、あれは木製でもっと大きかった。種本先生の手にあるのは親指手のひらに収まる大きさである。

「犬笛というものだ。乾、吹いてみろ」

 種本先生が一本を僕に渡す。

 見た目どおり冷たい金属の笛を切込みが入っている部分を上にして息を吹き込んでみた。

「──あれ?」

 思い切り吹いたのだけれど、甲高い小さな音が出るだけだった。何度繰り返しても変わらない。

「これ壊れてませんか?まったく音が出ないんですが」

「いや、それでいいんだ。可聴域の境界に近い音を出す笛だからな」

「聞こえない笛ですか。櫂季の吹き方が悪いわけでなく、本当にこんな音しか出ないのですね」

 巽も貰った笛を吹きそう言った。

「それでもまだ若い乾とグラフにはよく聞こえている方なんだけどな。先生くらいの歳になると集中していないと聞き取れないくらいだ」

 自嘲気味に種本先生は笑う。そして、しかしと言った。

「犬にとってその音は十分に可聴域に収まっている。吹けば、聴覚に問題のない犬ならそれで興味を引くことができる」

「こんな無機質な音で」

 何度も吹くがやはり音は変わらない。甲高い機械の出す音みたいだった。

「訓練に長じた者ならこの笛一つで複数頭を同時に指揮することもできるが、君達の犬はその条件付けを行っていないから、今から急にとはいかないだろう。しかし根気よくやれば今まで身振りや声で出していた指示をその笛の吹き方を変えるだけで使い分けることができる」

「だったら最初からこの笛をくれればよかったじゃないですか」

 後出しのようなこの道具に僕は抗議の声を挙げる。すると種本先生は首を振って言った。

「この笛は別に万能ではないんだ。遠くに届くような音は出せないし機械の音と混じる可能性もある。何より慣れていない者にとっては音が聞き取りづらいせいで自身の出している指示が把握し難い。訓練を行っている研究員の中でも、この笛を日常的に使用しているのは一握りだ。今日これを渡すのは、緊急用として使ってもらいたいからだ。路上訓練を行っている際に不足の自体が起きた場合、一時でも犬の注意を引いて行動を抑制するために」

 ではがんばってくれ、と言い残して種本先生は去って行った。いまいち効果のわからない笛だけ残して。

 仕方ない、といつものように嘆息し、隣の巽に言う。

「とりあえず路上訓練に行こうか」

「そうですね。やってみないことには先に進めなさそうですし。文字通り一歩を踏み出すことにしましょう」

 となると経路を考えなければならない。僕と巽が同じ道を共に歩くわけにはいかないのだから。

とは言っても、宇宙局から出て歩き出せる道は二通りしかない。海岸線沿いに繁華街へ向かう道か、山間を通りながら住宅街を抜けていく道か。島を一周するわけにはいかないので、どちらにせよ小さな町を一回りするくらいだろう。僕と巽は地図を見ながら経路を決定した。全長としては十キロもない。帰りはお互いが通った道をそれぞれ逆向きに向かうことになる。

「適当に籤で決めますか?」

「そうだな。どっちにしろ方向が逆なだけで通る道は同じなんだから」

 飼育部屋へ一旦戻ってリングレットに水を飲ませる。その途中で何度か犬笛を吹いてみたが、確かに吹いたその瞬間には耳を立てて僕の方を注視していた。しかしそれもほんの数秒、すぐに別の方へ興味が向いた。なるほど、種本先生の言うとおりかもしれない。

 その後は巽の提案通り籤で路上訓練の経路を決め、僕が山間側に歩き出すこととなった。

 巽と宇宙局の門前で別れ、僕はリングレットを連れて歩き出す。併走指示とそれを守ることは既に十分できていると言っていいのだけれど、これだけの距離を歩いたことはないので、不安がないといえば嘘になる。飼育部屋裏の運動場でやったときは最長十五分、横を歩かせることはできていた。十分に一度くらい指示を出しながらいくのが無難だろう。

 そう判断して、定期的にリングレットへ指示を出す。

 リングレットは外の世界を歩くのが楽しいのか、世話しなく辺りを見回しながら歩いているが、僕の横から離れようとはしていない。興味よりも指示を優先しているからだろう。

「これならなんとか上手くいくか」

 いつでも吹けるように右手で握り締めていた犬笛をそっとしまう。山間を歩いているので辺りは閑散としており、時折通過する車にだけ注意していれば問題はなさそうだ。訓練の本番は繁華街に到着してからになる。あそこは人も多いし交通量もそれなりにある。何より商店街を通過するときには食べ物の匂いで溢れてしまう。

 食い意地はってるからなぁ、リングレットは。犬だから当然かもしれないけれど。

 山間から少し抜けて、住宅街を歩いているとリングレットがふと耳を立ててしきりに辺りを気にし始めた。何かあったのかと僕も周囲を見回すと、三毛猫が垣根の上からこちらを眺めているのに気づいた。まるで挑発するようにその尾をたらし、さらりと欠伸をしている。

「気にするなよ」

 リングレットに言う。もちろんリングレットには言葉がわからないので手振りで併走指示を再度出す。

 三毛猫はそのまま目を瞬かせて垣根の上で寝入り始めた。警戒心の薄いやつだ。

 そういえば、司が半年前に実験に使う猫を捕獲しようとしていた。あの実験は一体どうなったのだろうか。あの時に不用意にも面倒な約束もしてしまったけれど。未だに僕は実験対象になっていないが、待たされれば待たされただけとてつもない要求を突きつけられそうで怖い。忘れてしまってくれていればいいけれど、司に限ってそれはないだろうな。

 あれ以降も司の実験を時々手伝っていたが、どれをとっても何をやっているのかとんとわからなかった。宇宙局に残る理由がその研究内容にあるのは間違いないとは思うけれど、どうなのだろう。

「わかるわけないよな」

 独り言を口にして繁華街へ向けて歩く。

 それからしばらくして、日が傾き始めた頃に海側を歩いてきた辰巳とすれ違った。場所は丁度二人の経路の中間辺り。繁華街と住宅街の合間といったところである。

 巽は珍しく顔に疲れが出ていた。

「櫂季に会えたということはこれでようやく半分ですか」

「どうした巽。出発前と今で大違いじゃないか」

「ああ、やはりわかりますか。櫂季の方はあまり変わりなさそうですから、ここから先はそれほど気を張らなくともよいのでしょうね。よかった」

 巽は乾いた顔で笑う。

「大変ですよ繁華街は。ムドリェーツは訓練も当然ですが躾も十分できているはずなのに、それでも興味を引かれ集中が散漫になってしまいましたから。何度犬笛を吹いたことか」

「それほどか」

「ええ、それほどです」

 では櫂季もお気をつけて、と巽は僕が来た道を宇宙局へ向けて進み始めた。

 もう少し細かい助言等も欲しかったというのが本音だけれど、あまり長話してリングレットとムドリェーツに影響があってもうまくない。この程度がせいぜいだろう。

 どうやら覚悟を決めなければならないらしい。そう自分に言い聞かせ、僕は犬笛を取り出して歩き出した。

 僕がどれほど繁華街で大変だったかは描写を割愛する。どれほどの苦労があったかは筆舌に尽くしがたく、半年前の嘔吐よりも描写できない見栄えと記せばある程度は察しが着くだろう。

 ともあれ、満身創痍に近い形でなんとか繁華街を通り抜けることに僕は成功した。巽の疲れ顔の意味は十二分に理解できたが、疲れ顔程度で収まっているあいつも十分に規格外だとも思う。

「あとは海岸線だけか」

 すっかり日も傾き、丁度島の西側を歩いていたので、夕日が水平線に差しかかろうというところが見える。休日以外は宇宙局の外に出ることもなく、ましてやこの半年は休日も犬の訓練で研究棟へ入り浸りだったので、島の海岸線をこんな風にのんびりと歩くのは久しぶりだった。もしかして種本先生なりに気遣ってくれたのだろうか。だとすればその心遣いは悪くない。繁華街を通過した際の疲弊を鑑みれば収支は負に近いだろうが、よくよく考えれば経路を決めたのは僕と巽なので、そこは自業自得の部分が大きいだろう。

 綺麗な場所に住んでたんだな。

 ずっと島にいるから特別なものと思ってはいなかったけれど、久しぶりに見る夕日は一時全てを忘れさせてくれるものだった。

 そして忘れすぎた。

 ふと辺りを見回すと、リングレットがいなくなっていた。繁華街を抜けてからまだ一度も併走の指示を出していないことに遅れながら気づく。咄嗟に犬笛を取り出して吹いてみるものの、これはリングレットにとってはただ一時注意を引くだけの効果しかない。

 まずい。

 血の気が引き始めてようやく事態を理解した。これは宇宙局の中で首輪がすっぽ抜けた半年前とは比べ物にならないくらいまずい。リングレットがどこに行ったかわからない上に、あいつは狭いところに隠れるという悪癖を持っている。

「落ち着け、まず何をやるか考えないと」

 この状況で最悪の場合はリングレットが交通事故か何かで死んでしまうことだ。しかし夕刻が近づいたこの時間帯は車両の通行が皆無だ。もともと交通量なんて高が知れている島、これほど少なくなればそうそう事故も起きないだろう。とすると、次に最悪なのは──繁華街。あの場所でリングレットが何かやらかす状況が二番目の最悪だ。

 繁華街の商店には夕飯の買い物に合わせて人通りが増える。さっき通ったときよりも一層だろう。

 僕は来た道を走って戻る。途中リングレットがいないか目を配ってみるが、やはり見当たらない。

「・・・・・・・・・これは、大変だ」

 繁華街に戻って苦笑いする。先ほどよりもやはり人通りが増えていた。しかも子連れまで。

 最悪の最悪として何か傷害でも起こせば処分されかねない。ともすれば野良犬と間違われる可能性だってある。

 考えていても仕方がない、走りながら呼びかけるしかないだろう。

「──っ。」

 走り出して愕然とした。そういえば僕はリングレットを名前で呼び寄せたことがない。隣にいるときに独り言のように話しかけることはたまにはあったが、離れた場所にいるリングレットを名前で呼んだことは一度もない。訓練中は基本一対一だから、止まれと指示を出せばあいつは反応していた。戻れと出しても同様に。しかしこの人ごみの中で、仮にリングレットがいたとして、あいつはリングレットと呼びかける僕の声を自分への呼び声として認識するのだろうか。

 そもそも、リングレットは自分の名前を知っているのか?

 何と声を出したものかわからず、それすらできない自分の不甲斐なさに呆れながら、僕はひたすらに犬笛を吹き続けた。とりあえずこれで注意を引くことはできるはずなのだ。吹きながら移動し続ける。無酸素と有酸素の境界線ぎりぎりで走りながら笛を吹く。

 見つからない。

 闇雲に動き回って、笛を吹いて吹いて吹き続けて、そして、

「五月蝿いなぁ」

 と通行人に言われた。

 すいません、と言おうとしたが酸素不足で咄嗟に声が出ない。慌てて頭を下げて、そこで声の主に思い至った。あれ?この声聞き覚えがあるぞ。

「櫂季は一人で何やってるのさ」

 顔を上げて僕の視界に入ってきたのは誰あろう高等部に進んだばかりの司だった。司がここにいることよりも、宇宙局の外でも白衣を着ていることにまず驚いた。女子としてどうなんだそれは。

「司が何でここに」

「私が休みの日に繁華街を歩くのがおかしいかい?」

「・・・。」

 おかしいかおかしくないかで言えばおかしい。しかしそんなことを言って司と不毛なやり取りをしている場合でもない。リングレットの問題が何にもまして先決だ。

「ごめん、今リングレットとはぐれてて、司見なかった?」

「リングレット?見てないけど。そかそか、はぐれたからその笛鳴らして呼んでたのね」

「普通、人には聞こえづらい音なんだけど」

 ともあれここで司に会えたのは僥倖だ。一人で探すよりは効率がはるかにいい。

「司、一緒にリングレット捕まえるのを手伝ってくれ」

「そりゃもちろんいいけど、リングレットはどこ?」

「はぐれたって言ったろ。それがわかれば苦労しないよ」

「リングレットがどこにいるかわかれば苦労しない。うんうん。わかった」

 司はそう言って白衣の中から何かを取り出した。黒い金属製の箱。手のひらに収まる大きさのもので、中央には横に何本も溝が彫ってある。前に研究棟で見た短波無線機のようにも見える。

「はい」

「何これ」

「位置指示無線受信機」

「・・・何だって?」

「位置指示無線受信機。発信機から出される無線信号をこれで受けることができるのね。んと、説明面倒なんで、赤い摘みを回してみて」

 まったくもってわからないけれど言われたことだけやってみる。

 金属の箱から鈍い音が鳴り出した。雑音が混じったような一定ではない音。

「これはリングレットの首輪につけてある発信機からの信号を音に変換しているの。音が強く、短い間隔でなってる方向にリングレットがいます」

 金属の箱を手に持ってぐるりと体を回してみる。すると、小さくなっている音が海側に体を向けたときだけ僅かに大きくなった。

「こっちだね。音が小さいからこれは相当距離が離れてるなー。櫂季的外れじゃん。最悪の可能性を考えて繁華街に来たようだけど、それは考えすぎだったのかもだね」

 海側は僕がさっきまでいた方向だ。正常に判断できず、リングレットを探すために手段を講じたつもりが、逆の目になってしまったということか。

「しかし、なんだってこんなものがリングレットの首輪に・・・というか、いつ付けたんだ」

「半年前にリングレットを捕まえた時、櫂季が来る前に仕込んどいたんだよ。そういう実験をしようとも思っていたし。でもその後すぐに櫂季にリングレットを返したから外すの忘れていた。にへへ」

「それはまた、すごい偶然だな。まあいいや、これ借りるぞ」

「いいよ。私はゆっくり後を追いかけるから、櫂季は早く行きな」

「悪いな」

 再度海側の道を走り出す。日はもうはんずんほどが海に沈んでおり、肌寒くなってきていた。ここからは一気に日が暮れてしまう。早く探さないと。

 金属の箱から出る音が徐々に大きく鮮明になってきた。近いのだろうか。細かく何度も方向を変えながら少しでも大きな音がでる方角を探す。

 そしてようやく、それらしき姿を見つけた。夕日は既に消えかかっており、影が東へいっぱい伸びている。そんな砂浜の隅っこにリングレットはいた。

「ようやく見つけた」

 ひとまず姿が見えたことに安心し、僕は止まって息を整える。焦りと走りで心臓に負担をかけすぎだ。

 歩きながらリングレットに近づくと、リングレットが独りでいるわけではないと気づいた。

「リングレット、お友達かそれは」

 僕が指差す先にいたのは、黒い犬である。離れているときは影に溶け込んでいて見えなかったが、リングレットと同じくらいの大きさの犬がリングレットの傍にいた。どことなくリングレットと似た顔立ちにも見える。同種か、あるいは近い犬種なのかもしれない。

 二頭が争った様子はない。黒い犬は首輪を巻かれており、毛並みも整っているようだった。近くに飼い主らしき人物は見えない。どっかの家から脱走でもしたのだろうか。このころになると犬の見分けもある程度はつくようになっていたので、その黒い犬が雄だとわかった。

「おいおい、リングレット。お前彼氏ができたのかよ」

 笑いながらリングレットに近づくと、あと数メートルの距離に近づいたところで、黒い犬は反対方向へと駆けて行った。暮れ始めたこの明るさでは、影に溶け込むその姿はあっという間に見えなくなる。

 余計なことしたかな。

 リングレットを見やると──もちろん気のせいだろうが──不服そうに見えた。逢引の邪魔されて怒っている?まさかな。

「ふん。お前が勝手にどこかへ行くのが悪い」

 こっちがどれほど心を磨り減らしたと思っているのか。

 リングレットに併走の指示を出し、砂浜から歩道へと戻る。繁華街の方向へ目をやると、離れたところに司の姿が見えた。逆光のせいかこちらに気づいていないようなので、僕は手を振る。それに気づいて司も小さく手を振るが、急ぐ気はないらしく、歩調はまったく変わらなかった。司らしい。

「はい、ありがとう」

 金属の箱を司に返す。ついでにリングレットの首輪にあるという発信機も外そうかと考えたが、今回のようなことがまた起きないとも限らない。ならばあって損はない。

「よかった、役に立ったみたいだね」

 白衣の中に金属の箱をしまいながら、司は珍しく笑った。惜しむらくは日が落ちて街灯もまばらだったのでその顔をよく見れなかったことだ。

首輪の発信機のことについて、司は何も言わなかったので返す必要はないのだろう。緊急用にこのままにしておこう。

「しかし、なんだかどっと疲れた」

「そう?でもこの後実験手伝ってね」

「かんべんしてよ。疲れてるって言ってるじゃないか」

「私がいなきゃもっと疲れてたはずなんだけど」

「・・・。」

 それを言われると返す言葉もない。

 どうやら今日はこれからが本番だと覚悟を決めて、司と共にリングレットを連れながら宇宙局へと足を進める。

 そこからは大きな問題はなかった。途中、帰りが遅いからと様子を見に来た巽が司と一緒に歩いている僕を見て、一悶着あったりもしたが。

とまあこんな風に、リングレットに振り回されながらも時間は着々と進んでいたのだった。僕はそれを自覚できてはいなかったけれど。

時計の針は進む。鋭い秒針は止まることなく弧を描く。まるで山を崩すように、その先端で時間という砂を削りながら。

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