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鈍い鉛色の円錐  作者: 無秋
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第五話 僕と名前

 足が尿まみれになった翌日の放課後、そろそろ日課になりつつある道のりを巽とともに走る。

 種本先生から貰った紙には本当に犬をどういう状態にしておくかとしか書いておらず、その目的も道筋もよく読みとることはできなかった。巽と相談した結果、とにかく優秀な犬を育成できればいいのではないかと結論付け、まずは基本的な躾を行うということで二人の意見は一致した。

 もっとも、一致したのは意見だけであり、二人の抱えている犬はまたくの別物、別種であることから、方法は各自で考え、お互いに応用が利きそうな物は教え合う程度にしか足並みは揃えられないのだけれど。しかしそうは言っても、犬の躾及び訓練という話であるならばやはり巽の祖父、グラフ家当主の知識は是非とも得たいところである。

 巽にその旨を相談したところ、あまり芳しくない表情になった。

「どうした?」

「いえ、櫂季のおっしゃることはもっともですし、私も祖父の助言を得られるのであればこの上ないとは思うのですが・・・。」

 巽は言葉を濁す。軽快だった足も動きを鈍らせていた。

「どうした?」

「聞きづらいといいますか、聞いても意味があるかどうかわからないといいますか」

「意味がないだって?ロシアの犬種限定とはいえ長年犬の調教をやっていた人なんだから、助言を請う意味は十分にあると思うけれど」

「ええ、それは、もちろんそうなのですが。問題はそこではなくてですね、その前段階なのです」

 話しにくそうに巽は目線を逸らす。

「あぁ、話を聞くこと事態が難しいということか。確か日本に住んでいるのは巽と両親だけという話だから」

 祖父はロシアに住んでいることになる。それは確かに連絡を取りづらいだろう。

「それももちろんあるのですが、でも実際それは微々たる事です。我が家には国際電話回線に直通できるように整備された通信機器が置いてありますし」

「じゃあ何なのさ」

「そうですね、隠していてどうなるという話でもないですし・・・。実は、私の祖父は日本人によい感情を持っていません。いえむしろ悪感情を持っていると言うのが正解でしょうか」

「何か事情がありそうだな」

「ええ。僕の父方の叔父、つまり祖父の息子は日本人に殺されているのです」

 戦争、殺されたと聞いて真っ先に思い浮かべたのはやはりそれだ。

 そしてその直感は間違っていなかった。

「ノモンハン事件。1838年、この国の年号で言えば昭和十四年、つまり今から十七年前に起きたソビエトと日本間の大規模戦闘です」

「講義で学んだな。国境紛争、だったけ?」

 実のところ戦争史はあまり力を入れて学んでいないのでうろ覚えでだ。

「そうですね、ソビエト連邦と日本間で断続的に生じた国境紛争の一つ。その中でも最も大規模だったものです」

「しかしあれは日本軍の負けだっただろ」

「どちらが勝とうと、あるいはどちらが負けようと、両軍共に死傷者は出ます。それが戦争ですから」

 最後がどうだったかではなく。

「特にこの国境紛争での戦死者は両軍とも大差はなかったそうですし」

「その中に巽の叔父さんが」

「そうです。叔父が死者として報告された」

「それなのに、巽のお父さんは日本人の女性と結婚したのか。なんというか──。」

 僕には兄弟がいないからわかりはしないけれど、しかし自分の親族を殺した国の人間と婚姻関係を結ぼうと思うものだろうか。思えるものなのだろうか。

「私の父はある部分でとても割り切った人物ですから。一度私も父に尋ねたことがあります。兄弟を殺した日本人がにくくないのかと。しかし父は、兄が殺されたことを悲しみはしますが、恨みはしていない・・・・・・らしいですよ」

「それが大人の考え方なのかな」

「いえ、どうでしょう。父が若干普通から外れているだけという機もしますが。だからこそ祖父は日本人を恨んでいるわけですし。その煽りを喰らって私と両親は祖父からあまり快く思われていないですからね」

「なるほど。それでさっきの歯切れの悪い返答になるわけだ」

 つまり、巽は祖父と連絡は取れるが教えてもらえるかどうかはわからない。

 雲行きは良くないな。

「それでも、そうですね。一応訊くだけでも訊いてみます。万が一、ということもありえますから」

「そうだな。そうしてみてくれ」

「ではそれはそれとして。今日は基本的な躾の部分から入りましょうか」

「せめて小便引っ掛けられないくらいまでにはいきたいものだよ」

 研究棟の飼育部屋を開くと、いつものように中にはくせ毛と巽の牧羊犬だけが残っていた。他はいつも通りに屋外で訓練中だろう。

「お待たせしました、ムドリェーツ」

 巽が牧羊犬を撫でながら言う。

「ムドリ・・・・・・って何だそれ」

「この犬の名前ですよ。ムドリェーツ、私の国の言葉で賢者という意味です」

「名前か・・・。」

 言われて気づく。そういえばこのくせ毛に名前を考えていなかった。いつまでもくせ毛と呼ぶのは座りが悪い。

「何がいいかな──うーん」

「日本では犬に付ける名前としてどんなものが一般的なのですか?」

「多いのは、ポチとかタロ、あとは外国語のものかな。チョコレイトとかさ」

「英語ですか」

「うん。響きとしては日本語よりも外国語の方がいいな。巽と同じになるのも嫌だしロシア語よりは英語でいこう。何かこいつから連想できるものは・・・・・・・・・。」

 くせ毛の頭を掴みながら考える。

 茶色いからブラウン、馬鹿そうだからフール──どれもしっくりこないな。外国語の成績が良くないこともあいまって、連想できる名前にも限界がある。

「何か特徴、特徴・・・あ、そうだ。巽、こういうくせのついた毛並みって英語で何と呼ぶんだ?」

「リングレット、です」

 リングレット──頭の中で何度かつぶやいてみる。悪くはなさそうだ。

「じゃあそれで決まりだ」

 掴んでいたくせ毛を一度撫でて言う。

「お前の名前はリングレットだ」

「いいのですか、櫂季の父上は英語がお嫌いでは?」

「それも含めてだな」

 父の嫌う敵性言語による名づけ。つまり反抗の意を含めた名前。

 リングレットをあらためて見る。あまり大きくは感じなかった。これで成犬だとしたら、身体的にはあまり恵まれた犬種ではなさそうだ。しかし欠点らしい欠点といえばそれだけで、リングレットに一般的な犬との差異は認められなかった。やっぱり馬鹿だから選ばれなかったのだろうか。

「改めてよろしくな、リングレット」

 差し出した手をリングレットは注意深く何度も嗅ぐ。やがて満足したのか僕の手を舐めた。

 そして噛んだ。

「この馬鹿野郎!」

「リングレットは雌ですから、野郎ではありませんよ」

「そういう話じゃないんだよ」

 噛む力は大して強くはなかった。これがたまたまの行動なのか恒常的なものなのか。後者でないことを祈るばかりだ。

 巽の犬、ムドリェーツは巽を噛むことはなかったが、実のところ僕達が部屋に入ってからこの方何度も吠えている。昨日巽の言った通り、吠えるのが仕事のような犬種だからだろうか。

「まずは目に見える苦労から処理していくのがいいのかな」

「いえ、それよりも何はともあれ犬達に上下関係を植えつけるのが先決でしょう」

「上下関係?」

「はい。これも先日本で読んだばかりなので表面的な知識にはなりますが、犬というのは群れの中で明確な上下関係を構築するらしいのです。ですからまずは自分と担当する犬が群れであると認識させること。そしてその中でも自分が上位であることを認識させなければなりません」

「群れと上下、か。わかった、それで何をすればいい?組み伏せればいいのか?」

 僕の言葉に巽は少し引きつる。

「そんな暴力的手段は必要ありませんよ」

 そう言って巽は壁に掛けてある用具の中から、二本の紐を手に取る。先には金具が付いており、反対側の端は大きめの輪に結ばれていた。

「それは?」

「散歩紐です。私たちがすべき第一歩は、相棒と散歩をすることですよ」

 巽はいそいそとムドリェーツの首に紐を引っ掛けようとして、そこで止まった。

「そうか、首輪」

「はい。忘れていました」

 見ればリングレットの首にも首輪は巻かれていない。

 二人して飼育部屋の中を探すと、隅においてある箱の中から首輪を見つけた。複数つめてあるので、これも至急品なのだろう。首輪に装飾はされておらず、黒地に白い線が一周してあるだけの簡素なものだった。

 輪の端に穴が複数開いているが、大型犬の使用も想定しているのか、試しにリングレットの首に当ててみるとはるかに大きかった。金属部分のかみ合わせで調節が効きそうなので、巽と僕は自分の犬にあった大きさに合うよう何度か試行錯誤をする。

「櫂季、知っていますか」

 作業をしつつ巽が言う。

「首輪を付けるというのには大きな意味があるそうですよ」

「へえ、どんな」

「支配と被支配、です」

「物騒な言葉だなそりゃあ。あまり聞こえのいい言葉でもない」

「首輪は言葉の通り、首に付ける輪ですからね。首というのは呼吸器の要所、生物の急所です。そこを押させるというのはそのまま命を押させるということに繋がるわけです」

「ゆえに支配か」

「ええ。私の祖父が使う首輪はそういう意味を十分に持たせているのでしょう。ただ、私としてはムドリェーツの首に嵌めるこれにそんな意味を持たせるつもりはありません」

 手に持つ樹脂性の輪に力が篭るのが見えた。

「私はこれをある種の儀式として捉えます。私とムドリェーツを繋ぐ最初の行為。証の譲渡です」

 巽は僕を見る。櫂季はどうします、と言外に訊ねているのがわかった。

 この首輪にどのような意味を持たせるか。

「そうだな。僕はそこまで仰々しくなくていいや」

「と言いますと?」

「識別だよ。僕にとってこんなものは唯の区別さ。管理下にあることを周囲に示す。それだけ。まだリングレットに大して思い入れもないことだし」

「そうですか」

 巽はいくらか寂しそうに苦笑し、

「いつか、その意味が変わるかもしれませんね」

 と言った。

「そうかな──っと、大丈夫そうだな」

 リングレットに首輪を嵌めて、一通り眺める。小さすぎはしていないし、逆に大きく隙間があるわけでもない。すっぽ抜けることはなさそうだ。僕自身、犬の飼育をしたことがないのでどのくらいの締め付けがちょうどいいのかはわからないが、それでも苦しいよりは若干ゆるい方がいいだろう。

 首輪を付けられたリングレットはというと、首に手を回して作業している間こそ嫌がるように動きはしたが、装着が完了した後はさして気にしている様子もなかった。

 付け終えた首輪にようやく散歩紐を通す。

「それでは散歩と参りましょう」

 犬の散歩というとそこら辺の道を適当に移動して適度に運動させればそれでいいものかと僕は思っていたのだが、どうやらそれだけではないらしい。というのも僕が歩くか走るかどちらにしようかと考えているときに、巽は不思議な行動をしていたからだ。

巽は歩き出して数歩で足を止めた。

「どうした巽。早く行こう」

 僕はそう促すが、巽は前に進もうとしない。

「櫂季も一度止まって下さい」

「いや、そうは言っても見てみろよ。久々に外に出たのか、リングレットがぐいぐいと紐を引っ張ってくるんだけど」

 巽と繋がっているムドリェーツも同様だ。とりあえず動き回らせてやった方がいいのではないだろうか。

 しかし巽は首を振る。

「櫂季、既に始まっているのですよ」

「始まってる?何が?」

「訓練です。言ったでしょう上下関係を植えつけると」

 そうだった。ただ犬の世話をするために僕らは散歩をしようとしているわけではないのだ。しかしただ棒立ちでいることの何が訓練なのだろうか。

「とりあえず説明してくれないか」

「はい。無知蒙昧なる櫂季に、僭越ながら犬の飼育において先んじた知識を持つ私から指導をして差し上げましょう」

「どうせ本から得た知識だろうが」

「調べようともしなかった櫂季の言うことではないですね」

 ぐう。

 僕の顔が歪むのを見て巽は嬉しそうに説明を始める。

「散歩は集団行動の基本です。群れを伴って移動する場合、その指針を決めるのは群れの頭ですから、ただの散歩といえど、一挙一動は全て人間側が管理しなければなりません」

「立ち止まるのもその一環だと」

「そうです。停止と始動どちらも管理してこその頭というものです。もっとも、私とムドリェーツ、櫂季とリングレットはお互いを認識してからの日が浅く、また連れ立って行動することは初めてですから、順位付けはされていません。それはつまり犬と人のどちらが上かが曖昧だということです。散歩の主導権を人間側が持つことで、わかりやすい形でこちらが頭だということを刷り込ませる。これはその第一歩です。一歩も踏み出してはいませんけどね」

 なるほど確かにこうして話をしている間にもしきりに動き回っていたリングレットがいくらかは大人しくなっている気もする。

「それでこれから先は?ただじっと立っているわけじゃないんだろ?」

「もちろんです。もう少し犬達の興奮が治まってから歩き始めましょう。道が道だと認識しやすい場所がいいですから、建物裏の芝生よりは研究棟の立ち並ぶ路地がいいでしょう」

 もちろんそう言うからには理由があるのだろう。促すまでもなく巽は続ける。

「人間側が道を選択していることを犬に認識させるためです。分岐点では犬に道を選ばせて、あえてその逆へ進むというのも効果的──とのことです」

 付け焼刃の知識だからか、最後は伝文体になっていたが、それでも説明の内容は納得がいった。巽の記憶力は確かなものだし、参考とした書物が日本語のものだからといって読み間違えるはずもないことは十分に知っている。付け焼刃でもよく切れるのが巽の巽たる所以だ。しかし巽の言うことがそのまま訓練の皮切りとして必要なことだとすると、これからの行動には一つ難点がある。

「僕と巽は一緒に行動するわけにはいかないな」

「櫂季も気づきましたか」

 群れの中で上下関係を構築し、その上位者に従う──ということは裏を返せば上下が明白な状態でなければならないということだ。群れの中での最上位者、巽の言うところの頭に最も忠実であるなら、僕はリングレットの頭になる必要があるし、巽はムドリェーツの頭になる必要がある。しかし僕と巽が共に訓練をしていれば犬達は僕と巽を含めた群れとして認識する可能性がある。そうなると群れの最上位者は僕か巽のどちらかしかなれない。

 つまり、僕とリングレット、巽とムドリェーツはそれぞれ別個の群れとして行動しなければならない。

 いや、よしんば指揮系統は自分より上位の者に従うので支障はないとしても、僕たち二人と二頭が群れとして構築されると、それ以上に看過できない状況が生まれてしまう。

 犬が本能的に群れの中で上下関係を明白にするということは、リングレットとムドリェーツにも上下関係が生まれるということだ。この先どういった研究の対象になるかは未だに不明だけれど、仮にこの二頭の競い合いとなった場合、上下関係が生まれているのはどう考えてもよくないだろう。

万が一リングレットがムドリェーツの下位──実質的には最底辺──に置かれた場合、競うことなく僕の担当する犬は巽の担当する犬に負けるということになりかねない。それは流石に容認できない。仮に逆、リングレットがムドリェーツの上位に立つことになったとしても、その結果として僕が巽に競うまでもなく勝利したとしても、僕はそれを喜べない。

 そういうことか。

「そうです。ここからは別行動です」

 巽の言葉に僕は肯く。

 昨日この場で言った、見返すぞという言葉。

 あるいは、それを実現することのみを考えるのであれば、僕と巽は同じ群れとして行動することが得策かもしれない。共に行動して共通する訓練メニューをこなし、自分の担当する犬だけでなく相手の犬にも気を配る。一人では捕らえきれない改善点や不具合を見つけるにはそれが効果的だろう。

 しかしそれが僕達の振る舞いとして相応しいかと言われれば、肯定はできない。

 他の研究員を見返したい気持ちは少しも萎えちゃいないけれど、それ以上に僕らは互いに勝ちたいのだ。僕にとって一番の相手は巽で、巽にとってもそれは同じだ。

 ゆえに、僕たちは一つの群れとして行動することはできない。

「とは言っても、巽のお爺さんの知恵はお借りしたいところだし、一日の成果を報告し合うくらいは必要かな」

「そうですね。まずはそれで進めてみましょう」

「それじゃ、散歩を始めるわけだけれど、巽はどっちへ進む?」

 飼育小屋のある研究棟は正面出口から左右に道が伸びている。どちらを進んでも研究棟の立ち並ぶ路地には進むことはできる。

「そうですね。櫂季は右ですから、私は左に進みます」

「何で僕が右なんだ?」

 真意がわからず問う僕に、巽は笑いながら言った。

「既にリングレットが先行してますから」

「・・・・・・・・・え?」

 そういえばさっきからまったく散歩紐が引っ張られていない。ずいぶんと大人しくなったと思っていたが、そうではなく──、

「鬼ごっこ、がんばってください」

 散歩紐の先には首輪だけが残っていた。当のリングレットはというと、右側の道を僕から遠ざかるように駆けている。五十メートル程遠くを。

首輪をゆるくしすぎた。すっぽ抜けることはなさそうだと思っていたのに。犬の頭って案外小さいんだと気づかされた。

曲がり角の手前でリングレットは振り向き、僕を小ばかにするように舌を出して止まった。

苦しくないように大きめにしたのに、気遣いを仇で返された気分だ。

「かくれんぼにならないように気をつけて」

「待てこらぁ!」

 巽が半笑いで言ったその声に返事もせず、僕は全力で駆け出した。僕が走り出したのとほぼ同時にリングレットもまた走り出す。

 順位付け?なんだそりゃ。

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