part1 始まり
1994年 12月22日 pm 7:00 ローズライク・シティ
デイビッド・カーマインは苛立っていた。
何に、と訊かれても困る。
父親と殴り合いの喧嘩をしたことだろうか。
そのお蔭で家を追い出されて一週間、誰も探しに来る気配が無いことだろうか。
それともたった今、家を出るときにくすねた200ドルをポーカーでスッてしまったことだろうか。
デイビッドは溜め息をついた。
それに呼応するように、腹の虫が鳴る。
そう言えば、ここ丸二日間は何も口にしていない。
どこかで夕飯を得なくては。
この際、手段は選んでいられない。物乞いでも何でもして―――
そこまで考えると、デイビッドは急に、自分がひどく惨めに思えた。
まるで自分が、世界で最も不幸な人間のような気がした。
思わず、目に涙が溜まるのを感じる。
デイビッドは慌ててそれを拭うと、周囲を見回した。
15歳の少年にとって、誰かに泣き顔を見られるのは屈辱以外の何物でも無かった。
周囲ではクリスマスプレゼントの相談をする子連れの主婦達や、“休憩”のためにモーテルを探すカップル達、パーティー会場へ向かう若者達が、路地に降り積もる雪を掻き分けながら進んでいる。
恐らく、あの雑踏の中には、誰一人として自分のことを気に留める者は居ないだろう。
デイビッドは安堵と共に、身体の内側から湧き上がるような怒りを覚えた。
なぜ自分が、自分だけが、こんな目に合わなければならないのか。
少しぐらい、誰かにこの不幸を被せたとしても、罰は当たらないのではないだろうか。
そんな屈折した意識を胸に、デイビッドはゆっくりと歩き始めた。
人混みを避けながら、入り組んだ路地を抜けていく。
凍った地面に何度も躓きそうになりながらも、彼の足が止まることはなかった。
そんな時だった。
ふと、一軒の酒場が彼の目に留まった。
石段を上がった先にあるドアにはそれなりに値の張りそうな装飾が施されており、窓ガラスはきっちりと清掃されている。
屋根の上では、「Sweet Emotion」のネオンサインがピンク色の輝きを放っているが、恐らくこれが店名だろう。
小さな酒場だが、どうやらそれなりには繁盛しているらしく、全体的に小綺麗な印象を覚えた。
「この街の酒場は、金を貯め込んでいる。」
デイビッドは、父親が酒臭い息を吐きながらそう言っていたのを思い出した。
なんでも、禁酒法時代の名残らしい。
それが何を意味するのかは、彼にも理解できた。
どうせ、汚い手段で得た金だ。
汚い手で奪われようと、文句は言えないだろう。
デイビッドは初めて立ち止まると、ゆっくりと深呼吸した。
ともあれ、標的は決まった。
後は実行に移すだけだ。
デイビッドは胸の高鳴りを抑えながら店の扉に近づくと、懐の銃に手をかけ、もう片方の手でドアノブを掴んだ。
その時だった。
急に店の扉が開いたかと思うと、何か大きな塊が放り出された。
デイビッドが慌てて飛び退くと、“それ”は彼の鼻先を掠めてそのまま地面に激突し、周囲に積もっていた雪を舞い上げた。
「テメェ、金もねえのに飲みに来んなって何遍言わせんだ!」
凄まじい大声に振り返ると、店内から男が姿を現した。
年は30過ぎぐらいだろうか。
女でも滅多にしないほどの厚化粧をした、大男だった。
大男の視線の先には、先程の大きな塊が転がっている。
デイビッドはそこで初めて、それがボロボロのコートを着た男だと分かった。
大男は肩を怒らせながら歩み寄ると、それを掴み上げた。
「死んだフリしてんじゃねえ!」
あまりの大音量に、コートの男の目が見開かれた。
「止せ、ヴィンス。今のはホントに意識が飛んでた。」
コートの男はうずくまったまま、抗議する。
「知るか!」
ヴィンスと呼ばれた大男は拳を振りかぶり、彼を力一杯殴りつけた。
ゴン、という鈍い音とともに、コートの男が白目を剥く。
それを確認すると、大男は手を離し、再び店内へと戻っていった。
「次は出禁だからな!」
男はそう言い残すと、また大きな音を立てて店の扉を閉じた。
後にはただ、死んだように横たわるコートの男だけが残されていた。
その一部始終を見ていたデイビッドは、すっかり気を抜かれてしまっていた。
彼は銃から手を放すと、横たわったままの男に駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
男の体をゆすりながら、声をかける。
すると、男はゆっくりと目を開いた。
「…何だ、ガキか。」
それだけ言うと、男は再び目を閉じた。
「折角助けてやろうってのに!」
そう言いながら男の体を揺すると、男は気怠げに目を開いた。
「…日本のコミックならここでべっぴんな姉ちゃんが介抱してくれんだよ。帰れ。オスはお呼びじゃねえ。」
デイビッドは舌打ちすると、立ち上がった。
そもそも、なぜこんな男を助けようと思ったのだろう。
そう思いながら、デイビッドは歩き始める。
「…おい。」
その言葉に振り向くと、男が再び目を開いていた。
「気が変わった。俺をウチまで送ってくれ。」
デイビッドは溜め息をついた。
「何で俺がそんなこと…何か礼でもくれんのか?」
「そうだな…」
男は少し考えると、言った。
「飯ぐらいはくれてやる。」
「…は?今どき、誰がそんなもんに食いつくんだよ。」
デイビッドは自分の声が、少し震えているような気がした。
「(…落ち着け、デイヴ。)」
そう念じながら、状況を整理する。
自分が銃を出そうとしたとき、この男は店の中に居た。
ドアの向こう側に居た自分の行動が察知できる筈がない。
これは、単なる偶然の一致だ。
自分にそう言い聞かせながら、デイビッドは続けた。
「それに、アンタに俺の台所事情が分かるとは思えないね。」
「いいや、分かるよ。腹減ってんだろ?それに、金も無い。」
コートの男は穏やかな口調のまま、続けた。
「盗みを働こうってぐらいにはな。」
心臓を掴まれているような思いだった。
汗が頬を伝う。
デイビッドは再び、懐の銃に手を伸ばした。
「止めとけ。」
男は立ち上がり、コートに付いた雪を払うと、先程と全く変わらない調子で言った。
「別に、チクりゃしねえよ。」
「信用出来るって保証が無い。」
デイビッドは懐の銃に手をかけたまま、言った。
「ここに酒場の汚え札束をくすねた程度で咎めるヤツは居ねえよ。そんなもんは自己責任だ。」
男はそう言うと、初めてデイビッドの方を見た。
「…だが、俺に銃口を向けるなら、話は別だ。」
その男の眼を見た瞬間、デイビッドは初めて、蛇に睨まれた蛙の感覚を知った。
たとえ目の前の男が丸腰であったとしても、こちらには砂粒一つほどの勝ち目も無い。そう感じた。
デイビッドは黙ったまま、銃から手を放した。
「良い子だ。」
男はそれだけ言うと、こちらに背を向けて歩き出した。
普通なら、ここで逃げ出すのが正しい反応なのかもしれない。
だが、デイビッドは男の背中を追っていた。
恐怖はあった。
しかしそれと同時に、デイビッドはこれまでに無い高揚感を覚えていた。
なぜこの男を助けたかったのか、今なら分かる。
一手でも間違えば、命は無い―――
そんな、極限状態でしか感じることの出来ないスリル。
この感覚が、何よりの答えだった。
「アンタ、名前は?」
デイビッドは男に問いかけた。
男が立ち止まり、こちらを振り返る。
「ロザーナ・トンプソン。」
そう言って男はデイビッドの目を見ると、ニヤリと笑った。
お前も同類か、と問いかけるように。