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8 変化

 それからというものの、千夏の機嫌はすこぶる悪かった。俺の仕事は彼氏面をして優雅に過ごすことではなくて、専ら彼女の様子を伺い、その度に震えあがる子羊に徹することに変わってしまった。仕事もままならず、千夏の機嫌は一向に治らず。いい加減滅茶苦茶になった家を執事達が見かねて片付け始めても、千夏は遠慮なくそこらにある天使の置物だったり、カップだったり、自分のお気に入りを次々と投げつけていたちごっこを繰り返していた。このままではこの大きすぎる屋敷も千夏という小さな野獣に壊される。誰もがそう思い始めた頃、ついに助っ人がやって来た。

 千夏が仕事に行っていれば、いつもは外に出る俺だけど、さすがにこの家の状況で外に出てしまって千夏の機嫌を損ねるとまずい、と思って家に閉じこもっていた時の事だ。丁度、あの千夏が激高した日から三日も経った頃だろうか。

 そろそろ千夏が昼休憩のためにやって来るから、さてどうやって話しかけようと俺の頭が悶々とし始めた十三時前、珍しくリビングへと来客があった。ソファで頭を抱えていた俺は、ふと顔を上げて誰が来たか確認すると、そこには幼馴染の顔。

 刈りあげた黒髪に太い眉、黒の半袖Tシャツにジーパンというラフな格好をしているものの、腕から覗く筋肉質な身体。なかなかの美丈夫であるこの男は、剣崎毅。俺の幼馴染であり、千夏と共通の知人でもある。唯一、俺と付き合いがある友人と言ってもいいかもしれない。

「よう、澪。元気か」

「……久しぶりだな。俺は……見ての通りだ」

「だろうな。久々に顔を出したらこれだ。千夏の方も接客業だというのに今は眉間にしわが寄ってて近寄りがたい雰囲気だ。また何をやったんだ?」

「いや。何をやったというか」

「何だ。歯切れが悪いな。折角話を聞きにきてやったのに。それで茶化しに来たのに」

「むしろ迷惑だ。帰れ」

 俺は吐き捨てると、それでも向かいのソファに座るように勧め、毅はドカッと腰を下ろした。地面が揺れた気がするほどの勢いに、貧弱な俺は少しだけ身体を揺らした。

「ほら、お前も座れよ。ああ、うん。いいからいいから。それでな、俺は珍しく、澪を気にかけてここまで来た」

「ああ、凄く珍しい。どうしたんだ」

「そりゃいつも以上に、千夏の機嫌が悪いからに決まっているだろ。なあ?」

 毅は隣を見て同意を求める。そんな時、執事がティーカップを手にリビングにやって来た。ローテーブルにカップを三つ並べた執事は、毅に向き直って、一礼。

「お久しゅうございます、毅様。お仕事の方は、順調でございますか」

「まあまあってところかな。釘原さんも元気そうで何よりだ。元気ないのは澪だけか。千夏も怒る元気だけはあるみたいだし」

「はは、左様ですな」

「しかしこりゃまた酷い破壊衝動を出したもんだ。滅茶苦茶じゃないか」

 毅は愉快そうに唇をニイッと歪めると、カップの中身を豪快にごくごくと喉を鳴らして飲み干し、部屋を見回す。額が傾いた絵画に、ドミノ倒しに倒れた観葉植物たち。ひびの入った窓ガラスからは、絵の具がべったりとぶちまけられている。これでもマシな方だ。千夏の部屋なんて足を踏み入れようものなら怪我を負うくらいになってしまっている。執事達が綺麗にしても千夏の怒りはむしろ跳ね上がり、無駄に終わるのでしばらくはこのままで過ごすことになってしまった。それだけ、この家の中でアイツの存在は絶対だから。

「また、綺麗に直すだけですから。……それでは、失礼いたします」

 執事はそう言うと、また深く一礼して去っていく。毅は肩をすくめて、もう一つのカップを空中に差し出す。そして、数秒するとそれをテーブルに置いた。俺はそれで、と話を切り出した。

「千夏は……どうだ」

「ありゃしばらく機嫌は直らん。久々の休みだし、たまにはと思ってさっきあいつの店に買い物に行ったんだ。そしたら般若も怯えて逃げ出すような顔をしててな。思わずあいつのレジを回れ右して他のレジに行ってしまった。お前なにしたんだ。なあ美咲。さすがの俺でも今のあいつに近づくのはごめん被りたい」

「そうか。ここでも同じようなものだ。別に、何かをしたわけではないけど、ちょっと」

 俺は一拍置いて、ティーカップを手に取った。言わずもがなレモンティーが俺のためだけに注がれている。喉が潤うのを確認して、少し長くなりそうだと前置きした。

「無気力になったお前が、長い話、ね。こりゃ外で雪が降っても可笑しくない。言ってみろ」

 毅は身を乗り出して話を聞く気満々だ。野次馬の心が騒ぎ立つ傍らで、左手を宙に差し出しているのは変わらない。見ようによっては何かを撫でている。俺は嘆息して、この二週間で起きた事をかいつまんで話した。

 奈緒との出会い、やけに近づいてくること、無理やり遊びに付き合わされたこと。何故か奈緒と一緒に居ても苦しくないこと。雪合戦したこと。楽しかったこと。そして、三日前、千夏の前で話しかけられ、それで彼女を怒らせたこと。

 そして、勢いのまま奈緒にキスをしてしまったこと。手を振り払われて、少しだけもやもやしたこと。

 なるほど誰かに話をするというのは、解決もしていないのに心が軽くなるのは本当らしい。無駄な体力を使うのを嫌う俺でも、毅に話をしたら少しだけ落ち着いてきた。これから千夏が帰ってくるというのに、肩の力が抜けた。やはり、俺たちの状況を理解している人間が居るというのは、だいぶ違う。

「それで千夏の機嫌が悪いのか。そりゃそうだろうな」

「そんなものなのか。俺には、まだ理解出来ていない」

「その奈緒ちゃん曰く、恋人のプロが分からないでどうする。お前、恋人が同性と知り合って親しげならともかく、異性だったら誰だってもやっとするもんだ。千夏は自分の感情に珍しく素直になって爆発させただけだろ。恋人がいる身からしたら、それはご法度ってやつだ。俺も美咲にそんなことされたらかなわないし、美咲だってそうだろう。まあ、千夏はちっとばかし爆発させすぎだけど」

「……でも、俺たちは演技で恋人のふりをしてるんだぞ?」

 そう言った瞬間、毅は俺から顔を背けて、焦点がどこに向いているのか分からないまま、ため息をついた。その顔は、これだけぺらぺらと喋る毅にしては珍しく、悲哀を帯びていた。なんだ。どういうことだ。

「お前は、いつからこんな人間になったんだろうな」

 俺が黙ってレモンティーを飲み干すと、ようやく正面を向いた毅はそんなことを漏らす。俺は黙ってその言葉を聞き流すことにした。毅は俺に会うたびに、こんなことを言う。感情を忘れた人間。いつの間にか、色を失ってしまったと毅は表現する。俺もそう思う。いつからと言われれば、あの時からに決まっている。毅だって一般人から見たら斜め上を見すぎて空を向いている人間の癖に、それでも俺は変わっていると言う。お互い様だ。ほら、今だって空中を撫でている。俺には分からないのに。

「でも、お前ちょっと変わったかもな」

「……そうか?」

「ああ。前はどんな事があっても自分から話さず、俺から質問をされない限り答えなかった。その奈緒ちゃんって子のおかげか?その子の話している時のお前は、楽しそうだったぞ」

「まさか。俺はこれだけ迷惑を被っているというのに?」

「とか言いつつ、お前の口元は上がっている。なあ、本当に気付かないのか?」

「何に」

 梅干を食べたかのように口をぎゅっと結んだ毅は、首を振った。呆れられたのだろうか。でも、本当によく分からない。毅は何を言っているんだ?

「どうして奈緒ちゃんって子にキスしたのか、分からないって言ったよな」

「あ、ああ。その後、手も掴んだのにな。振り払われたし、何でだ?」

 斜め上を行き過ぎているとはいえ、毅は俺より人生経験が豊富で、つまり答えを知っているかもしれない。俺は期待して彼の言葉を待っていると、リビングの扉が豪快な音を立てて空いた。無意識に肩をすくめて俺は縮こまり、こっそり壁に掛けられた時計を見る。十三時十五分。千夏の休憩時間だ。

 白のワイシャツに黒のパンツを履いた仕事着の千夏は俺をちらりとも見ずに毅だけを見つめて、あら、といつもより低い声で呟く。

「毅くん、久しぶりね。いらっしゃい」

「ああ、邪魔してるぜ」

「美咲はどう?元気?」

「ああ、もちろん。この通りだ。……千夏、たまにはゆっくり話でもしないか。美咲も話したがっている」

「……そうね。そこのゴミが居ないところでお話ししましょう」

 千夏はそれだけ言うと、リビングをさっさと出て行ってしまった。自室に向かったのだろう。毅も苦笑して、立ち上がり、千夏について行こうとした。だけど、リビングの扉に手をかけて一度立ち止まると、なあ、としみじみとした声で呼びかける。どうしたんだ。このままいかないと、千夏の機嫌を更に損ねるぞ。たとえ、幼馴染で親しい間柄であってもだ。

「なに」

「俺はさ、千夏の事もお前の事も昔から知っているし、どっちも好きだ。たとえ、お前たちが昔と大きく変わっても、俺はお前たちを大事な友達として付き合ってる。だから、どっちにも幸せになってほしい」

「……ありがとう。でも、俺はもう」

「分かってる。もう、お前には幸せって難しい言葉かもしれないな。けど、話聞いてたらちょっとだけ希望が見えてさ」

「希望?」

「ああ。でも、俺があんまり動くと、大事な千夏を傷つけかねない。それは美咲も哀しむし。でも、お前に昔みたいに、戻ってほしいとも思う」

「煮え切らないな。はっきりしてくれ」

「ああ。そうだな、はっきり言っておこう。助言だ、心して受け取れよ。お前がその子にキスした理由、ちょっと考えろ。それはな、お前がその子を好きだからだよ。勿論恋愛の意味でな」

「……なんだって?」

「じゃあな。千夏と話して、機嫌を少しでも直してくるさ。早く行かないと鬼になっちまう」

 毅はそう言うと、ついにリビングから出て行ってしまった。俺は茫然としたまま、毅の言葉を頭の中で巡らす。ぐるぐる、ぐるぐると。頭の中が洗濯機にでもなったようだ。好き。って、なんだっけ。恋って。俺と千夏のような、偽りのものではない、好き。難しい言葉だった。奈緒、俺ってどうしてこんなに分からないことだらけなんだろうな。昔はもっと、いろんなことに明晰な頭脳を働かせて新しいことを閃いていたのに。今じゃ友人の言葉一つも理解できないポンコツに成り下がってしまった。


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