3 恋人
千夏との関係を問われたら、俺はどう答えるべきか迷ってしまう。もちろん、外面だけを見るのなら恋人なのだろう。世間から見たら、きっとそれ以外の言葉は出てこない。
しかし、俺は恋人だなんて思っていない。俺はあいつが大嫌いだし、あいつも俺の事をどう思っているかなんて謎だ。
雇い主と下僕、なんて言葉の方がぴったり当てはまるくらい、俺には待遇がいいようで悪い。この環境下で、俺はよくやっている方だ。自分で褒めてしまうのは、しょうがないことなのだろう。
千夏の仕事と言えば、父親が地元スーパーの社長で、その娘である彼女はチェッカーの重役として働いている。接客業だから休みは不定期、だけど休憩時間は必ず十三時からという、社長令嬢の特権を使って俺に時間を割く。そんなに俺に執着してどうするんだと思うけど、女には女のこだわりがあるのだろう。職場では彼氏にぞっこんな美人のお姉さんで通っているらしい。気色悪い。
「澪、今日は何をする?」
「千夏の好きな事でいいよ。こないだ買った本、読んでないだろ。それは?」
「ふふ、澪と一緒に読書。いいわね。そうしましょう。澪は私をよく見てくれているのね」
当たり前だろう、それが仕事なのだから。いや、仕事という理由にしているけれど、実際に俺が千夏の事で一つでも興味のないそぶりをすれば、何がやってくるか。想像すると、男の俺でもゾッとする。これだから女は嫌いなんだ。そもそも、人間というもの自体ダメだけど。
俺は酷く自然に、それこそ恋人ならこうするだろうと予想して千夏の頭をそっと撫でる。さらさらの髪すら不愉快にさせる、この手触り。
やがて訪れる、俺のお仕事の時間。千夏の恋人として、ひたすらに我慢を強いられる時間だ。
ソファーに座って、身体を全身で預けて、本を夢中で読む千夏の隣で寄り添う俺は、本当によくできた恋人のふりをしているはずだ。
執事達も微笑ましそうに笑って紅茶を用意する。こいつらはいい。俺よりも数段楽な仕事だろう。ただ、黙々と主にもてなし、気遣っていればいいのだから。
しかし俺とは違うこいつらを、羨ましいとは思えど、なりたいとは思わない。マシな分、精神的な疲労は俺なんかよりずっと軽いはずだけど、だからと言って立場を変われなんてこれっぽっちも感じない。お前たちはそこで呑気に見ていればいいさ。
隣でゆったりとソファーに腰かけ、一定のペースで紙をめくる彼女は、集中しているのか、差し出された紅茶には目もくれない。執事達は紅茶を出すなり部屋から出て行き、この部屋を二人きりの牢屋にさせた。いや、牢屋なんて思っているのは俺だけか。隣のこいつは、そんな事すら思っていないのだろう。
レース柄で淵が彩られた可愛らしいカップは、つがいのように仲良く並んでいる。しかし、やがて湯気が見えなくなり、この二つの仲も、俺たちのように冷めてしまったのだと可笑しなことを考える。女はミルクティー、男はレモンティー。ミルクティーに無理やりレモンを入れられた、哀れな男。
「……ふふ」
やがて静かな空間に、彼女の笑い声が漏れた。俺は目の前に差し出されたレモンティーから目を離し、千夏にどうした?と視線で問いかける。
すると、千夏はさも可笑しそうに言う。
「あのね。もし、もしよ?私と一緒に居られる時間が限られているとしたら、澪はどうする?」
千夏は楽しげに質問すると、本に栞を挟んで、テーブルに置いた。
俺はさも当然のように、口を開いて滑らかな嘘を告げる。ああ、嘘つきは泥棒の始まり。そうだとしたら、俺はとっくに泥棒で、今頃刑務所の中だ。現実も、刑務所のようなものだけど。
「澪と出来る限り一緒に居るよ。じゃないと、俺はどうにかなってしまいそうだ」
「まあ嬉しい。私も一緒よ。ずっと、ずっと。永遠に。ああ、限られた時間だったわね。でも、そんなのどうでもいいの、澪と一緒に居られれば」
自然と絡み合う腕。本の内容がそんなものだったのか、と俺はブックカバーがかけられた本に視線を送り、そして、二人で示し合わせたかのように窓の外を見る。
「……可笑しな雪。こんなに暑いのに、私たちに感動を与えようと必死に流れ行くわ」
部屋の中でガンガンに効いた冷房を全身で味わいながら、千夏はそれでも窓の外をうっとりと眺めた。照り付ける太陽にキラキラと輝く白の贈り物は、彼女の心を満たして止まないらしい。
「そうだな。夏に雪が降るなんてのも、なかなか乙じゃないか」
「ホワイトサマー。安直だけど、とってもいい響き」
絡ませた腕が、さらに密着して、今度は肩に頭を乗せてくる。そうすると、俺はどこぞの野生動物かのように、習性として、髪を一房取って、キスをする。ただただ、無感動に。偽りの笑みと、行動で、この女王サマのご機嫌取り。今日も順調なようで何より。うんうん。
しかし、現実ってのは時として予想外の事が起こり得るものだ。乗るはずだった電車が、人身事故で遅れを生じてしまうような、そんな頻度で。
「ねえ、ちょっと違うんじゃない?」
俺はその、どす黒くて地を這いまわるかのような、とても女とは思えない声を聞いた瞬間、冷や汗をかいた。冷房が効いているはずなのに、俺が着ているのは長袖なのに。外の景色に合わせたかのように、俺の身体は急激に寒気を覚えて、血の気が引く。恐る恐る、口づけたばかりの髪を離し、女王サマの顔を伺う。彼女は、笑っていた。
「私が今、してほしかったこと、分からないの?髪にキスなんて、そんなことをしてほしかったわけじゃないの、何で分からないの?」
笑顔のまま、スッと細められたその顔に、俺は顔を引きつらせる。俺の知る限り、ここまで底冷えのする笑みを浮かべる人間は、この世を探してもこの女だけだろう。
――また、やらかした。
俺はこれから起こることに、何があろうと冷静で居られるよう、覚悟を決めた。俺は仕事でミスをした。この女の、ご機嫌を損ねた。
「ごめん。千夏の気持ちを汲んでやれなくて、本当にごめん」
「ねえ、そんなこと、本当は思っていないよね?ただ適当に、そんな言葉を並べているわよね?」
「そんなことは」
「黙れッッッッ!」
突然の金切り声に俺は背筋を震わせ、思わず千夏から視線を背けた。情けないことに、俺はこいつの怒る顔を見るだけで、恐怖が波のように訪れて、心を弱くする。冷静で居ようと思っても、居られない。俺は、どうしようもなく、この女に心を支配されている。
「私、ホワイトサマーって言ったよね?これ、どういう意味か分かる?」
「夏の、雪」
「そう、そうなの。初めて経験する、素敵な現象。この雪が降り始めてから、初めてのお休み、恋人と過ごす、のんびりとした時間。もちろん、私は貴方が髪に口づけをするの、とても好きよ。でもね」
千夏はソファーに座ったまま、俺を突き飛ばし、桜色のカーペットへと落とした。恐怖でされるがままの俺は、横で様子を見ていた机に背中を強打して、痛みに顔を歪めた。寄り添いあったカップは、俺たちと同じくぶつかり合って、喧嘩をしていた。
「ここでするのは、口にキス、でしょう?」
千夏は立ち上がり、狂気じみた目で俺を見下ろす。人差し指で、魔女のような唇をすっと拭い、俺に蹴りを入れた。躊躇うことを知らないその暴力は、俺に痛みを与え、思わず声が漏れた。
目の前でその様子を楽しそうに、だけど不満そうに見つめる女王。俺は、いつまでこうして言いなりにならなければいけないのだろう。
「夏に雪が降る、素敵なシチュエーション。そこで、私がしてほしかったのは?」
「口に、キス、です」
「そう。分かっているなら、どうして、やってくれなかったの?」
分かるはずがない。理不尽で、自己中で、体裁ばかりを気にするお前の気持ちなんか、分かるわけないだろ。それでも、何とかこいつならこうしてほしいだろうなという、ない頭を必死に巡らせた俺を褒めてほしい所だ。もちろん、そんなことを言える勇気はなくて、だからこそ、俺は黙ったまま。
つまるところ、東雲千夏は俺を愛していない。俺が死んだところで、体裁を整える便利な男が消えてしまった。はあ、残念。その程度で済むくらいの、軽い女だ。
千夏が欲しいのは、自分の思い通りになる人形の彼氏で、そして、弱みと命を握られているといっても過言ではない俺が、その役に抜擢されたという話なのだ。どうしてそこまで体裁を気にするのか、どうしてそこまでして彼氏が欲しいのか、どうして理不尽な事しか言わないのか。そんなこと、もはや考えるのすら億劫になって来た。
俺の仕事は、ただただ、千夏の満足する彼氏を演じること。そうすれば、生かされて、意味のない人生を送ることが出来る。
そして、仕事でミスをすると、上司からパワハラと言われても差支えのないほどの仕打ちを受けるのだ。むしろ、今日は軽い方と言ってもいい。突き飛ばされて蹴られる程度なら。
だけど、そんな俺の考えは間違っていた。
気がついたら、バシャッと派手な音がして、俺の頭が濡れた。自分に起こった状況が、いまいち理解できなくて、俯き加減だった顔を、再び上げた。
途端に臭う、冷めきった甘ったるい香り。レモンとミルクの混じり合った香り。
「感謝してよね。アンタのその腐りきった考え、これで浄化してやったんだから」
千夏が二つのカップを手に、そんなことを言うまでは、理解できなかった。頭からぽたぽたと垂れた、べたべたするこれはミルクティーとレモンティー。冷めきった俺たちの化身。そこでようやく、俺は二つの飲み物をかけられたのだと理解した。
俺はどうしていいか分からず、茫然とする。数秒経った後、カップを投げられるよりはマシだという、ポジティブなのかネガティブなのかよく分からない励まし方をした。だって、そうでもしなければ空っぽのはずの心が、爆発しそうだった。
「浄化してやったんだから、これからすること、分かるわよね?」
「はい。勿論です」
濡れたままの両手を地面に突き、頭を深々と下げる。これ以上ないくらいに、背中を丸めて土下座をした。
「本当に、申し訳ございませんでした」
これをしないと、千夏は満足しない。俺のミスを許さず、いつまでも俺に危害を与え続けるだろう。だけど、土下座をしたならば。
「まあ、顔をあげて。彼氏に土下座なんて、ふふ、嫌だわ」
千夏は、たちまち機嫌を取り戻す。これで、丸く収まるのだ。プライドも何もないが、それでもこれで俺の安寧が訪れるというのなら、やるしかない。
やがて千夏は、濡れたままの俺を抱きしめて背中をさする。その手つきが気持ち悪くて、振り払いたくなったけれど、それをすれば今度こそ許されないだろう。土下座をした瞬間、女王と下僕から、恋人に戻ったのだ。労働者は、真剣に仕事をしなきゃいけないだろう?
「私、貴方の事を愛しすぎてたまに暴走してしまうの。でも、悪く思わないで。貴方を愛するが故なんだから」
うすら寒い言葉を並べた彼女は、嬉しそうに俺に頬ずりをしてきた。それに合わせて、俺も千夏の背中をあやすようにトン、トンと一定のリズムで優しく叩いた。
ふと窓の外を見ると、やはり雪は未だに降っていた。俺はどうしようもなく、奈緒の顔を思い浮かべてしまった。どうしてここで、あの女の顔が浮かんだのか。全く見当もつかなくて、だけど特に気にすることでもない。
やがて雪が止むまで、俺たちはずっとそうしていた。