22 夏雪
「私はね、簡単には素直になれないから。だから、夢の中くらいでは素直に言うよ」
そう言った千夏は、今よりも幼かった。
俺はといえば、千夏と向き合って花畑に居た。穏やかな風が髪をさらさらと揺らして、だけどこんな場所は見たことがなくて、これは夢なんだと自覚した。
「私はね、澪が好き。何よりも好き。本当なら、四六時中澪と居たい。仕事なんて、ほったらかして澪と居たい。それくらい、好き」
千夏は、夢の中だから、と語った。俺の相槌なんて聞いてないように滔々と語り続ける。その顔は、酷く穏やかで、春の日射しを浴びているようだった。
「澪のお人好しな所が好き。誰の話も真剣に聞いて、影響されやすい所が好き。ボーっとしているところが好き」
「でも、澪が私を恋愛感情で見てくれてないこと、そういう好きじゃないってこと、ずっと前から知ってた。だって、ずっと見ていたから」
「美咲が羨ましかった。毅にフラれても、前向きに捉えて恋に生きていられる美咲が、羨ましくて、恨めしかった」
「私は何したって澪に幼馴染としてしか見られない。なのに美咲は、それは変わろうとしないからだよ、って大人しい顔して言い切るの。美咲はその後こう言ったわ。私は毅くんと恋を成就させるために死ぬわ。それが、一番の最善策、って。びっくりした。毅くんのために死を選んだんだよ。それで、美咲は私も誘った。一緒に変わろう。それで、男を振り向かせてあげようって」
「不安だった。けど、その時の私にはそれが凄く魅力的だった。変わったら、澪も見てくれるかなって。その頃ね、私の両親は野心を出してアイシングを乗っ取ろうとしてた。だから、私も協力したの。美咲も頭が切れたから、助言してくれたわ。私がアイシングの跡継ぎになれば、きっと澪は私に目を向ける。ああ、凄い人なんだって見てくれる。盲目的だったのよね、私ってば」
「でも、美咲が死んで、あの二人が幸せになったのに私たちは幸せになれなかった。偽りの関係でお互いがんじがらめにして、予想は大きく外れた」
「どんなに頑張っても、澪は私を無機質な目で見るだけ。美咲と約束した変わるって、こんな事じゃなかった。後悔してた。澪に酷い事いっぱいした。アイシングの経営だって、元使用人風情がやりきれるわけなかった。跡継ぎの私だって右も左も分からなくて、けど澪にそれがばれたくなくて、隠してた。この期に及んで、アイシングを引っ張っていけば、澪は私を凄いって誉めそやして、見てくれると浮かれてた」
「結局剣崎グループ率いる毅の手助けなしではアイシングは経営できなくて。澪も思い通りにならなくて。むかついて、それで雪まで降って。澪の事、いっぱい傷つけた。私、何してんだろう」
千夏は風に吹かれながら涙を飛ばしていた。俺は黙って聞いて、彼女の様々な後悔に詰まった瞳を見つめ続けた。
独白は、そうして涙を降らしていく。しゃがみ込んで嗚咽を漏らす彼女は、酷く小さく見える。威張り散らして私こそ女王様と肩を張っていた身体は、立派な虚栄心の塊だった。
「ごめんね、澪。こんなはずじゃなかったのに。ごめんね、ごめんね。奈緒って人が現れた時、私、ちょっと安心したんだ。久々に澪が嬉しそうだったから。でも、それでも許せなくて。矛盾してるけど、私、自分の心すらマトモに扱えない不器用で。ごめんね。本当に、ごめんね」
千夏の傍によって、頭を撫でた。千夏はみるみるうちに小さくなって、やがて一つの雪玉に変わる。その雪玉は俺の掌に収まると、パッと飛び散った。
そこで、夢は覚めた。
千夏を覆う雪は、じわじわと熱を帯びていた。俺は白昼夢を見ていたんだな、とぼんやりしていたけど、その熱ですっかり頭をクリアにした。氷の中で千夏が目を開けて、俺を虚ろに見つめていた。
「なあ千夏。俺こそごめん。俺も、されるがままだったのがいけなかった。千夏の気持ちを汲み取らずに、流されるままに生きてきた。それがダメだって、分かってたのに」
千夏の冷たすぎる手を取る。さらさらと音を立てて雪が溶けていく。そこから全身に広がって、雪は待っていましたと言わんばかりに千夏から離れて行く。じわじわと、じわじわと。
「夢の中でだけなんてやめよう。俺たちは、素直に生きるんだ」
右手で千夏の手を取り、左手で頬を撫でる。温もりが、生きている証だった。
「俺が千夏の想いに応えられるかなんて分からない。けど、これまでが間違っているのは分かってる。だからさ。もう一度、やり直そう」
それが、真っ当な生き方だろ?
冗談めかして言うと、千夏はうっすらと口角をあげて、小さな声で言うのだ。
――ありがとう、と。
お決まりの公園に行くと、雪は殆ど溶けかけていた。俺の心が反映されていたというそれは、まさしく心を元に戻しつつあった俺に比例して終わりを迎えようとしている。
昨日の事が嘘のように思えたけれど、それでもわずかに残る雪が証明してくれる。そろそろ奈緒が現れるかな、とベンチに向かった頃、背中にべしゃっと冷たいものが当てられる。お馴染みのそれに俺は半ば呆れて、地面に残った僅かな雪をかき集めると、振り返りざまに投げた。
そこからしばらく、俺たちは雪合戦を楽しんだ。奈緒は軽やかなステップで雪玉を避けるけれど、俺の華麗な腕捌きに磨きがかかる頃には全身雪まみれという有り様だった。ちなみに俺は投げる技術はあれど、避けるほどの瞬発力がなく、早々に雪まみれになっていた。
やがて公園中のありとあらゆる雪をかき集めて、それでも燦々と輝く太陽に溶かされつつ雪合戦をしていたら、疲れ果ててしまい、俺たちはその場に座り込んでしまった。曇り空一つない空には、もう白いものが降ってくることはない。
「澪くんの心が変わって何より」
「ああ。そうだな」
「その後、どうなったの?聞かせて」
「……千夏とやり直すって仲直りしたよ。少しずつだけど、歩み寄れたらって思う」
「もう、あの人の思い通りにはならない?」
「もちろんだ。お互いがお互いを尊重して、生きていられたらって思う。アイシングも、俺が引き継ぐことになった。そのためには、大学にも行かなきゃな。いずれは俺が社長だ」
「そっか」
「いつか、傾いたアイシングを立て直して親が残した形見を守ってやるよ。それまで、東雲家に協力してもらうさ。毅と美咲にも手伝ってもらう。あいつらは、俺にとって必要不可欠な存在だから」
「良かった」
奈緒は適当に相槌を打つと立ち上がって俺に背を向けた。
「雪の味、今なら分かるかもよ」
「一緒に食べるか」
俺はそこらにあった雪を奈緒に投げつけて、二人同時に口にした。彼女はしゃくしゃくと音を立てて難しい顔をしている。俺はといえば、何度も食べている雪の味を始めて実感して感慨深かった。
「雪ってこんな味なのか」
「そうだよ。つまり」
「「不味い」」
二人同時に言い終わると、ケラケラと笑った。何だか可笑しかった。
ひとしきり笑い終えると、俺は真剣な顔をして奈緒を見つめ、ずっと欲しかった答えを聞くために問いかけた。
「奈緒。俺はお前が知りたい。何でもいいから、教えてくれ」
そう言うと、奈緒は少しだけ寂しそうに眉を寄せた。湿気を孕んだ風が彼女の髪を揺らした時、俺はもう、その先の答えが見えていた。
「澪くんは、私の事がまだ好き?」
「……好きだよ。得体が知れなくて、迷惑で、突飛な事しかしないけど。でも、笑顔が太陽みたいにきらきらしてて、いつも楽しそうで、破天荒で刺激を与えてくれるお前が、俺は好きだよ」
「そっか。何だか照れちゃう」
奈緒は本当に照れたのだろう。頬を両手で包むと、くるりと背中を向けた。俺はその時初めて、彼女の姿がやけにぼやけて見えた。どうして、と思う前に頬を伝うそれに気づいて、恥ずかしくなった。全く、奈緒が背中を向けてくれて助かる。俺は涙を拭って、奈緒の背中をしっかりと見つめた。だって、俺はきっとこの先の未来を知っているから。
「私も澪くんの事、好きだよ。面白いから。心変わりしたきみはもっと魅力的に見える。きっとこれからモテるね」
「ありがとう。でも、それは奈緒のおかげだ」
「それは何より。きみが変わってくれることを、私は願っていたからね」
そうして奈緒は、震えた声で言う。ちょっとだけ涙ぐんだようなその声に、俺の涙腺はとうとう崩壊して滝のように涙が溢れる。ああ、嫌だな。この先を、聞きたくないな。
「目を、閉じて。そうしたら、私の事を教えてあげるよ」
「……分かった」
止まらない涙を拭いながらそれでも俺は目を閉じた。奈緒が近づく気配を感じ取った俺は、身を強張らせた。やがて耳元で、彼女の声が響く。
「私はね、雪が好きだよ。ただ、それだけ」
咄嗟に目を開けた時には、もう奈緒は何処にも居なかった。
そうして俺は、悟った。きっと、奈緒とは二度と会えない。
夏雪はすっかり溶けて、俺の住む町は、元通りの顔を見せていた。




