21 帰宅
俺の後悔は、果たしていつからだろうか。美咲が死んだ時。千夏の家族に会社を乗っ取られた時。毅に助けを求められなかった時。何もかもを諦めた時。
そのどれも、違う気がした。
俺は、きっと、俺自身の行動に後悔している。
確かに俺は奈緒の言う通り、流されるままだった。苦しい苦しいと嘆くだけで、抵抗もしなければ立ち向かう事もしなかった。
毅はスペクトロフィリアという精神疾患を患いながらも幸せになるべく、恋に生きた。
美咲はそんな毅を振り向かせるために、そして自らの幸せを掴むために死を選んだ。
千夏は俺に振り向いてほしいがために、俺に恋人として強要した。
皆が皆、狂っている。だけど、やりたいようにやってきた。自分の欲望のまま、幸せになるために手段を選ばなかった。流されるままに何もしなかったのは、俺だけだ。
俺の幸せは何だ。俺は何がしたい。俺は、どうしたらいい。
奈緒と付き合いたい。それもある。目下、それが一番のやりたいことだ。
でも、そうじゃない。
俺は今までの自分を顧みて、自身の行動に苛立ちを覚えた。
俺は、誇りあるアイシングの跡継ぎ息子だった。優しく厳しい両親が好きだった。たとえ打算で動いていたとはいえ、千夏が大切だった。
なのに、どうして俺はあの時、怒りを覚えなかったんだ。
どうして俺は。
千夏に跡継ぎを譲ったんだ。
東雲家にされるがまま終わってたまるか。
千夏とこのまま不完全燃焼な関係のままで居られるか。
俺の人生は、半分以上が彼女で出来ていると言っても過言ではない。
俺のやりたいことは決まった。
俺は、千夏と元の関係に戻りたい。そして、再びアイシングの経営に携わりたい。あわよくば。
東雲家と協力して、俺の大切な家族の忘れ形見を守りたい。
この夏雪現象が俺の心だとして、そんなことが簡単に信じられるわけがない。だけど、不思議な事に奈緒の言うことはやけに納得させられた。信じらないことが続いたかもしれない。
俺はあの後、置き去りにされたまま、降り続く雪景色を見つめて考えを巡らせていた。
そうして、こう決意する。
千夏の元へ、帰ろう、と。
朝方、眩しい光が僅かに差し込むばかりのまだまだ涼しい中で、久しぶりに屋敷に向かった。東雲家が采配するその屋敷は、しかし足を踏み入れた途端、俺は前に進むことなんて出来なかった。
一面雪景色。それだけだったら、どんなに良かっただろう。
だけど、現実はもっと厳しい。
この屋敷の敷地だけが、俺の身長はあろうかと思えるほどの雪がうずたかく積まれ、雪崩に遭ったのではないかと思えるほどだった。
屋根に並ぶのはいくつものつらら、いつも千夏を送迎しているはずのリムジンはどこかに消え失せていた。いや、いつも駐車している所にも雪が積もっているから、きっとあそこにあるんだろう。ただ、雪が多すぎる。
それは、言ってしまえば雪の壁だった。
一歩踏み入れた途端にがらりと変わる雪景色。非現実的で、雪国だってこんな光景、滅多にお目にかかれない。なんたって、これはあまりにも作為的で自然現象に思えないからだ。
「千夏は、釘原は、他のみんなは……」
そうだ、こんな雪の壁に阻まれて中の屋敷が無事なわけない。俺は急いで雪を崩して前に進んでいく。幸い雪は俺が触れるといともたやすく崩れてくれた。だけど、後ろで猛烈な吹雪の音が聞こえてまた雪の壁が出来上がるのを見たら、さすがに開いた口がふさがらなかった。一体、これはどういうことだ。
そうして俺は何だかんだと雪を避けながらようやく玄関に辿り着いた。急いで鍵を回して中に飛び込む。むわっとした夏独特の蒸し暑さが全身を出迎えると、そこにも、異常な光景は広がっていた。
「なんだ、これ……」
あらゆるところが凍っていた。靴箱、花瓶、ドア、絨毯、電話、エトセトラ。それは、テレビや漫画で見る凍った世界なんかではなくて。あくまでも、雪が侵した氷の世界だった。凍ったものたちの表面には雪の粒がびっしりと浮き上がっているのに、はた目から見ても凍っていることが分かった。初めて見る不思議な現象に、俺はその場にしばらく立ち尽くしてしまった。
だが、いつまでもそうはしていられない。俺は急いで中に誰かいないか、探すことにした。通常ならこの屋敷はいつも人が居る。使用人の数は一五人、それに加えて千夏と俺、釘原が住んでいる。他の人たちを探さなくては。
玄関から飛び出して廊下を見渡す。凍った絨毯の上を歩くのはかなり気を遣ったけれど、不思議と俺が歩く道は溶けていき、足跡が出来る。
急いであらゆるドアを開け、部屋の中へ突撃するものの、使用人の姿は見当たらない。俺の部屋にも、使用人の寝泊りする部屋にも、何処にもいない。千夏の部屋を探したけど、そこにも誰も居なかった。
やがて一階を探し終えた俺は、二階にあがる。二階には書斎と物置、客室、両親の部屋だった空き部屋がある。まず手前にある書斎に入り、部屋中を見渡す。しかしそこにも誰も居ない。書斎の中で本は寂しそうにひしめきあって、つやつやと主張するように凍っていた。俺が触れると雪はさらさらと溶けて、本が顔を覗かせる。この書斎は本が大好きな両親の残した唯一の部屋だ。こんな状態のままでは納得がいかない。
けれど、まずは人命救助が優先だと思い直した俺は、書斎を飛び出した。その時俺は、なんとなくこの現状がどうにか出来るのではないかとどこかで予感していたのだ。
そして、それは見事に当たる。
「釘原!」
客室に入ると、一二畳ほどの広い部屋の中で釘原を筆頭に使用人が倒れていた。もちろん、雪に埋もれて身体を凍らせている。意識があるのかないのか全く見当もつかなくて、俺は一番手前で倒れていた釘原に駆け寄ると、身体をゆすった。釘原を覆った雪は俺が触れると、例にもれずみるみるうちに溶けていく。俺はそのままゆすって声をかけ続けた。
「……みお、様……?」
「釘原!無事だったか!良かった……」
「私はなぜこんな所で……?」
そう言って上半身を起こした釘原は、辺りを見渡して目を見開いた。そして、声を漏らした。俺が事情を求めると、彼は沈鬱な表情を浮かべて首を振った。事態は相当深刻らしい。
「それよりも、他の使用人が心配です。皆さん凍ったままでは命に関わるでしょう」
「あ、ああ。今すぐ助けなきゃな。でも、釘原は平気なのか?」
「ええ、不思議と。目を覚ました頃には寒さがたたっていましたが、何処にも悪い所は……」
釘原も自分で納得がいっていないのか、首を傾げて掌を見つめていた。俺はホッとすると、他の使用人に駆け寄って声が聞こえるかどうか、とにかく呼びかけた。
釘原も同様に何人かの使用人の介抱に回ったけれど、雪は一向に解けない。俺が埒もあかなくなって、身体を揺さぶり、そういえば救急車を呼ばなければと電話を釘原に任せた時だった。
俺が触れた使用人の雪が、さらさらと流れ落ちて凍っている部分が溶け始めたのだ。それに加えて雪は自然の摂理とでも言うように上空に昇っていき、部屋の中で弾けて消えた。その一連の光景を、俺どころか釘原も信じられないとでもいうように見つめていて、彼は片手に持った携帯電話を取り落とした。救急車を呼ぶよりも、俺が触った方が使用人を助けられるかもしれない。そんな考えが二人の頭に過った。
俺がたどった道も、本も、それどころか釘原達さえも。俺が触れた場所はどうしてか雪が解けてくれる。何だか特別な力を手に入れたようで、嬉しい反面、気味が悪かった。
「澪様、いつの間にそんなお力を……?」
「いや、分からない。俺もびっくりしてるんだ」
そう言いながらも使用人全員の雪を溶かすと、彼ら彼女らは案外なんともなかったように、釘原と同じくけろりとして起き上がった。誰もが訳も分からないと言った様子で辺りを見渡している。
「なあ、何があったんだ」
「突然猛吹雪が屋敷と家の中に飛び込んできて」
「避難したんです」
「この雪、何だったのかしら」
「気づいたら雪が襲ってきて」
「そしたら、そしたら……」
使用人が口々に言うものだから俺は聞き取ることが出来なくて、ちょっと待ってくれ、なんて大きな声を出して止めた。こんな時、聖徳太子はどうしていつくもの声を聞き取ることが出来たのか、本当に不思議に思う。相当頭がいいのか、それとも勘が優れているのか。
結局、事の次第を教えてくれたのは、使用人のリーダーである釘原だった。彼は冷静沈着に、だけど、時折怯えながら語ってくれた。
その内容は、こんなものだ。
昨日の夜八時頃、突然屋敷の敷地に猛吹雪が発生した。その猛吹雪はどうしてか、屋敷だけを狙っていて、瞬く間に辺り一面を雪の鉄壁にしたという。これではいけないと使用人たちが外に出て雪を崩そうとしたが、むしろそれがたたり、吹雪は屋敷の中に侵入したという。一瞬のうちにあらゆるものを凍らせていくそれに、常日頃見ている雪とは違うことを悟った使用人一同は慌てて二階に逃げ込んだ。猛吹雪であれど、二階にまで降ってくると言う事はないと予想したのだ。
しかし、その予想は虚しく外れた。
吹雪は一階を制圧すると、やがて二階に上がって来て、同じく目につくものをすべて襲った。
「あれは……ただの雪には思えませんでした。意思を持った怪物とでもいうのでしょうか。そんなものに見えて」
結局客室で全員が不安に怯えながら籠城を試みたものの、雪は風の勢いに任せてその扉をいともたやすくこじ開け、やがて当たり前のように彼ら彼女らを襲った。
「電気が落ちて、エアコンも切れた時、もうだめだなって思ったんです。どうして雪がこんなことをするのか、全く想像もつきませんでした。その後雪がこの部屋で襲い掛かって来て、もう寒くて寒くて、このまま死んでしまうのかと思うと涙まで出てきました。でも、その涙さえすぐに凍ってしまったんですよ?私、お給料がいいからここに勤め始めましたけど、こんな事が起こるのなら他の職場にすればよかった」
新人の使用人は怒りのままにそう語り、失言に気付いて口をつぐんだ。俺は言われて当然のことだから、と苦笑いして安心させる。誰だってこんな突飛な体験をしてしまえば、そう思っても仕方ない。
それから俺が来る時間まで、皆は倒れて雪の塊と化していた。それでも何とか生きていてくれた。俺はみんながぴんぴんしているのにホッとすると、近くにあった花瓶に触れる。中で寂しそうに眠っているひまわりも、花瓶も、当たり前のように雪解けを見せて、見事生還した。自分の掌を見つめた俺は、奈緒の言葉を思い出す。
――この雪はね、君の風景だよ。この町はね、君の心だよ。
隣で脱力した使用人の床を見る。勿論凍っていた。だけど、俺が触れる。すると見事に雪が消えていく。それを見ていた使用人もぎょっとして俺の顔を凝視した。どうして、と言わんばかりだ。そんなの、俺だって知りたい。けど、ヒントは既に奈緒からもらっていた。
この雪は、俺の心だ。
信じられない事だけど、もしそれが本当だとしたら、この雪に影響を与えられることにもなんとなく説明がつく。理論的ではなくて、感情的な直観だけど、これは俺がどうにか出来るものだと悟った。
「なあ、千夏は何処だ?」
そう問うと、使用人たちは各々顔を見合わせて微妙な顔をした。誰も居場所を知らないらしい。釘原さえも難しい顔をして肩をすくめるものだから、いよいよ不安になった。千夏は一体どこへ。
そう思っていると、若い女の子がおずおずと手を挙げて酷く言いにくそうに前に出た。
「あの、私知ってます……」
「本当か!何処だ」
「それが。その、昨日夜に帰宅するなり気分が悪いから、とベランダで気分転換をしていらして……。私はその、付き添いとしてこの部屋に居たんですけど」
「な、に」
この客室には広いベランダがついている。そこからはこの町を見渡すことが出来て、夜なんかは町の明かりがきらきらとして綺麗、だなんて言っていたのは千夏だ。彼女は落ち込むたびにこのベランダで夜空を見上げていた。俺も隣に居た。
「千夏様は、もしかしたら……もう」
俺は若い使用人の言葉の先を手で遮った。それ以上の言葉は聞きたくなかった。猛吹雪が降ったという中で外に出ていたのなら無事でいる事が保証できない。けれどこの雪が俺の心なら、何とかなる。即座にベランダに出た俺は、使用人が見守る中、奥の方で横たわる大きな塊を発見した。
「千夏?」
呼びかけたって何の答えもない。あれだけ酷いことをされたというのに、俺は千夏が倒れているのを見たら、なんだか無性に背中が震えた。外では変わらず雪が降っていたけれど、ベランダから見た景色はいつもと違う。使用人たちの言うように、屋敷だけが集中的に雪の攻撃を受けているように見える。
千夏は中で凍っていた使用人たちとは比べ物にならないくらい、それはもう見事な氷漬けになっていた。死んでもなお、遺体を凍らせて保存させる人が中には居るという。もしかして、それはこんなものなのだろうか。俺は軽率に千夏に触れようとして、だけど思いとどまった。
情けないことに、その時の俺は、一瞬だけあくどいことを考えてしまった。
このまま千夏を放っておけば、俺は解放されるのではないか。使用人たちにはもうダメだったと言って、病院に運ばせて、どうにもならない氷の塊に無理だと判断させたら、俺は自由で、それこそアイシングの跡継ぎという立場は簡単に返って来るのではないか。だって、俺はそうしてしまいたいくらいに酷いことをされ続けていた。どうして今更彼女の危機に慌てなくてはいけない。むしろ好機ではないのか。
そんな思考が、俺の全身を蝕む。
そうだ、そうしろ。
彼女が生きていたら、また以前の俺に戻るだけじゃないか。
俺はそれでいいのか?
俺は、千夏が必要なのか?
悪魔の俺は囁き続ける。
しゃがんで、千夏の顔をまじまじと見て、そこそこ可愛くて憎らしいその造形に、恨みをぶつけたくなった。
そんな時だった。
頭上からミシミシと音を立てて何かが落ちてこようとする。咄嗟に顔をあげたら、屋根の上から雪崩を起こしかけていた。ついでに言えば、そこでぶらぶらと漂っているつららが今にも落ちようと準備をしていた。
やがてその瞬間はすぐに訪れる。
雪が俺と千夏に遅いかかかるのと、俺が千夏を抱きかかえてうずくまったのは同時だった。軽いはずの雪も、集まれば相応の重さになる。次々とのしかかる重りと、突き刺さるつららの数々に背中を傷つけられる。
それでも、俺は身体をどかそうとは思わなかった。
やがて雪の攻めが終わると、恐る恐る顔をあげる。痛む背中をさすりながら辺りを見回すと、そこに広がっているはずの雪の残骸は何処にもない。やはり、俺が触れると溶けるのだ。
「……千夏?」
だが、その考えが正しければ俺が守り切った千夏はもう解けていてしかるべきだ。なのに、千夏は一向に凍ったままで、雪に守られていた。
「千夏……千夏!」
起きろ、起きろ、と揺さぶったけれど、雪は解けない。まさか、まさか。俺は手すりについた雪に触れて、それが消えていくのを見ると血の気が引いた。千夏だけが、救えないだって?
俺があんなことを考えてしまったからいけないのか。千夏が居なければ、俺は自由になれると、そんな身勝手な事を考えたから。
「起きろよ、千夏。なあ、俺の事好きなんだろ……。だったら、起きなきゃ。俺と話し合おう。なあ、起きろ。俺は、またお前とやり直したいよ。……千夏?」
唇を噛み締めて、つるつるとした表面をなぞると、雪がじわじわと顔を覗かせて、俺をあざ笑う。俺はどうすればいいんだ。これ以上、どうすればいいんだ。身勝手な考えに左右されて、千夏と向き合うって決めたことを忘れてしまっていた。それがいけないのか?なあ、教えてくれよ。千夏。
それは、無意識だった。
いつの間にか、千夏に降り積もった雪を俺は食べていた。味もしない、しゃりしゃりとした食感が俺を満たす。どうしてか、その雪はネバネバとしていて、まるで千夏のようだ。それでも雪を食べる。舌に絡みついた雪を、無理やり胃の中に収める。
そうして。
俺は、千夏の夢を見た。




