20 昔々
少し、昔の話をしよう。
俺が千夏の人形となり果てて、毅と美咲がバカップルになって、アイシングの社長が変わったばかりの話だ。
その頃の俺はといえば、絶望に絶望を重ねて、真っ暗闇の中をひたすらに走り続けていた。心は崩壊寸前で毎日が鬱々としていた。
どうして俺がこんなことに。両親も死んで、遺された会社は悪魔によって乗っ取られた。俺は悪魔の人形で、自由が利かない。
こんな事なら、死んでしまった方がマシだ。
千夏のものとなり果てた当時の俺は、今以上に散々だった。恋人という役を与えられ、どうすればいいのか分からず、結局千夏に虐げられる毎日。彼女の思い通りにいかない俺は、罰として食事抜きだったり、風呂に入れなかったり、それこそ一日部屋から出してもらえず、監禁をされたことだってあった。日に日に弱っていく俺は、心も身体もボロボロにしわがれて、何も出来なくなっていった。千夏の考えが分からない。俺はどうしていいか分からない。俺はいつだって考えることを放棄して、分からないと嘆き続けてやまなかった。
そうして囚われた俺が、心を壊し始めた時だった。
俺は、ついに死ぬ決意をした。
もうこれ以上は無理だった。死ねば千夏から逃げられる。何もかもを捨てて、俺は来世デビューが出来る。なあ、これ以外の選択肢に何があるっていうんだ?
それは、冬真っ盛りの頃だった。
俺は千夏の隣にダミーの毛布をぐるぐると縛って置いて、彼女がすやすやと夢心地の中、こっそり屋敷を飛び出した。真冬の深夜っていうのは何もしていなくたって寒さが襲い掛かり、俺は凍えそうな中で必死に走った。死にたい。もう、こんな生活は嫌だ。
死ぬ方法なんて一切考えずにただそれだけを頭に巡らせていた。屋敷で死ぬのは嫌だった。千夏に死んでもなお、呪われそうだったから。
だから、俺は近くを走り回って、安らかに眠れる場所を探した。コートすらも着ることなく飛び出した俺の身体は走っているのに一向に温まらなかった。手がかじかんで耳も痛い。気づけば雪が降りだしていて、俺の体温は奪われる。
「はあッ……はあッ……」
息を切らしてあてもなく走り続けた俺は、どうやって死のう、という考えをようやく巡らせた。首吊り、飛び降り、薬、窒息、火。いくつもの方法が駆け巡っては消えていく。出来る事なら、楽に死にたい。もうこれ以上、苦しいのはごめんだった。
誰かの言いなりになって、行動を制限されて、機嫌を伺って、生活の全てを人に握られて。俺の心すら、奴の言いなりになる。これを苦しいと言わずしてなんと言うんだ。
走りながら思考を巡らせていると、唐突に足をもつれさせて派手に転んだ。大きな雪の結晶がすぐに俺の背中に積もり、俺は身動きが取れなくなる。そういえばもう、四日も何も食べていなかったのを思い出した。水だけで人は一週間生きられるというけれど、それで心は死なないんだろうか。身体が生きていたって、中身が死んでは意味もない。体力の限界が近づいていることが分かった時、脳裏に一つの言葉が浮かんだ。
「そうだ。……凍死があるじゃないか」
こんな雪の中で、薄着で寝てしまえば、明日の朝にはきっともうこの世界と別れを告げているだろう。その時の俺には、これが一番楽な死に方だと思えた。寒いのを堪えれば、簡単にこの世とオサラバ出来る。
うつ伏せになって地面一体化を図った俺は、動こうにも動けず、そうして凍死を実行することになった。このまま眠ってしまえばもう終わりなのだ。面倒なしがらみを全て捨てて天に昇れる。
そうしてどれくらいの時間が過ぎただろう。身体はこれでもかというほどに冷え込んで、感覚がなくなっていって、思考回路もまともに働かなくなった。
おかげで俺は、目の前に立つ少女の姿に気付けなかった。
何か音がするな、と思ったものの、目も、口も、顔も動かない。だからきっと、それは何でもない事なんだと無視を決め込んだ。意識を手放すのに必死だった。
でも、意識はそこで唐突にはっきりしたものに切り替わる。
バシャッ。
そんな音がおぼろげながらに聞こえた時、俺の背中には温かいものが広がっていた。一体何がかけられたのか。それを理解するには、俺の頭はその時一切回っていなかった。音からして水だろうか。でも、背中は濡れていない。ただただ、じんわりと温かいものが俺の背中から全身に駆け巡って侵食していくだけだ。となると、この音の正体は何だろう。
そうか。
俺はもしかしたら、死んだのかもしれない。
この音は俺がこの世と別れる合図で、やけに温かいのは天国に昇れたから。
そんな非現実的な事を考えていたら、頭上で声がした。
「起きてよ。なんで死のうとしてるの?」
咄嗟に頭を上げたら、視界がぼやけて焦点が上手くあわない。けれど、目の前に少女らしき人がしゃがんで俺の顔を覗いているのは分かった。その時、俺はどうして視界がぼやけているのか、声が出ないのか、身体が温かいのか、全ての疑問が秒速で駆け巡って、やがて消えた。
俺は、朦朧とした思考回路を放棄して目の前の少女を見つめ続けた。俺と同い年くらいの背格好だった。それ以外の視覚情報は、フィルターがかかっていて分からない。
「こんなところで倒れて、死なれたらちょっと迷惑だなあ。ねえ、君ってばどうしてこんなところで倒れてるの」
唯一まともに働いてくれた耳は、少女の呆れ混じりの声を余すところなく拾ってくれた。それでも、俺はどうしてか喉がかさついて一切の音を発することが出来ず、口をパクパクと動かす。挙句の果てには目の前をひたすら見つめ続けるだけだった。何も考えられない俺は、少女の独りよがりな言葉を聞くだけしか出来なかった。
「ふうん。君ってなかなか変わった環境で生活してるんだね。周りは刺激的な人が多くて大変そう。……まあ、これなら嫌気が差しちゃうの、分かるかも。でも、君って流されるままにしてきたでしょ?少しでも変わろうとした?君が、君自身が。その苦しみから逃れるための変化をもたらすって知ってるの?」
何を言っているのか、どうしてそんなことを言っているのか。はてさて、俺には疑問ばかりが浮かんだけれど、その時、少女がどうして俺の事を知っているかのように話しているのかということは頭に回らなかった。正直、俺はその時、一人で何ベラベラ喋ってんだ、綺麗ごとで出来もしない事ばかり並べやがって、なんて事しか考えなかった。偉そうな口叩きやがって。本当は、そう言ってやりたかった。
「今も色々考えてるでしょ。頭がいいだけに余計変な事考えるんだね。でも、そうやってうじうじ考えて解決策を考えないところ、だっさい」
君にここで死なれたら困るんだよね。私の愛する町でこんな無様な死に方されたら、許せないかも。ねえねえ、聞いてる?ちゃんと聞いてるなら、今立ち向かうべき問題に頭を働かせてよ。生きてよ。
独りよがりで自己中で、あまりにも身勝手な事を言う彼女は、俺の口へ無理やり何かを詰め込んだ。それは軽い音を立てて俺の喉へ通り、やがて胃の腑に落ちる。それが一体、何だったか分からない。けれど、その何かを口にした途端、身体の全身が酷く熱くなって、真冬の雪の中だというのに真夏の蒸し暑さを全身で浴びているかのような感覚に錯覚した。みるみるうちに失っていた体力が戻っていく感覚に苛まれた。俺は死のうとしていたのに、死ねなかった。得体のしれない少女に、得体のしれない方法で救われた。ただ、それだけだというのに。
俺は、どうしてか、死ぬのを諦めた。
鈴のように可愛くくすくすと笑う目の前の少女は、俺を救ったんだろう。そうして、俺に死ぬことをやめさせて、現実と折り合いをつけて、生きさせようとしたんだろう。雪の降る中、少女は可笑しそうに口元を歪ませていた。相変わらず視界はぼやけていて明瞭な顔立ちは分からなかった。けれど、俺にはそれが、天使の顔にも、悪魔の顔にも見えた。雪の中で小刻みに揺れる身体は何処か幻想的で、俺の脳に妙な感覚をもたらす。
「いいね。生きて。気に入った人が死ぬなんて、誰だって嫌でしょ。君の生き方に興味がある。だから」
――ちょっとは考えて、前を向いたら?
少女はそんな無茶苦茶な事を言い捨てると、俺の前から立ち去った。
その後、俺は何も食べていなかった状態が続いたというのに、空腹感は一切なく、元気が有り余るような身体になっていた。
そうして、死ぬの、面倒だな。もう少し、頑張るか。なんて適当な事を考えて地獄の元へと帰った。
その不思議な体験は、あまりにも脈絡がない上に可笑しな部分が多すぎるゆえに、俺の心の内で小さな思い出となって存在をはためかせた。
結局、いつしかそのことは忘れてまた絶望と死にたがりの心を抱え込んで、面倒な無気力人間になり果ててしまうわけだけど。
それでも、命を救われたのは、確かだった。
「せっかく私が助けてあげたっていうのに、君ってばまた死のうなんて考えて、変に転落してしまうから」
深い暗闇の中で彼女は呆れたように肩をすくめた。なるほど、あの時の少女は奈緒だった。それならそうと早く言ってくれればいいのに。
「ごめん。それと、あの時助けてくれてありがとう」
「お礼なんていいよ。でも、私が助けたって君は変わらない生活を歩んでいた。ねえ、私の行動は間違っていたんだね」
俺を助けるべきではなかった。暗に彼女はそんなことを言いたいのだろう。ぐうの音もでない。自暴自棄になって心をなくしてしまって、無色透明の人間になり果てた俺を恩人が見たら、そう思うのも仕方ない。申し訳なさで胸が締め付けられた。
でも。
「間違っていない。俺は、奈緒に助けられて、また奈緒に出会って、変われた。間違ってないって思わせてやるよ」
言い切ると、奈緒は俺に近づいた。あと僅か数ミリで鼻がくっつくという距離まで近づき、俺の眼を覗き込んだ。奈緒の澄んだ瞳孔を見つめていると、吸い込まれそうだった。
真実を見つけ出すために観察をしているようだった。俺は絶対に変わった。これからも変わる。駆け落ちはフラれたし毅に申し訳ないけど、でも、この町から出られないってだけだ。だったら、町から出ずに変わればいい。奈緒を、落とせばいい。
眉間に力を込めて見つめ返すと、やがて奈緒は吹きだして笑い声を漏らす。
「いいね。じゃあやってみて」
顔を離した奈緒はステップを踏むように軽やかに歩き出すと、そのまま。
町の境目である電柱の先をいともたやすく抜けた。
「……え?」
奈緒はくるりと身体を正面に向けると、雪の降っていない隣町で暑そうに手で顔を仰ぐ。そして、にんまりと口元を歪ませた。
「出れないんじゃ、なかったのか……?」
「もちろん、出れないよ。でも、私は別」
だって、私は……、と彼女はごにょごにょ呟くと、俺に手招きをする。誘われるがままに俺は電柱を超えようとするけど、やっぱり見えない壁が邪魔をしてすり抜けられない。俺は奈緒の掌に自らの右手を重ね合わせる。そこにあるはずの体温は、感じられなかった。無機質な冷たい何かが俺の手を冷やしていく。
「変わったっていう証拠、見せて。そうしたら、私は君に応えてあげる。君の空っぽの心が、本当に満たされているのなら、この壁は超えられるよ」
「なあ、意味が分からないよ。この壁、何だっていうんだ?どうして奈緒は越えられるんだ?俺は、どうすればいいんだ?」
「君は何も変わっていない。上辺だけを変わろうとしているだけ。だって、君は相変わらず他人に流されるままじゃない。私はそんな君を、面白いと思うけれど、嫌いだとも思う」
「何言ってるんだよ。どうして変な事ばっかり言うんだ。なあ、奈緒。奈緒」
俺はついに奈緒の底から溢れる、恐怖に侵食されかけていた。出会ってから今まで、俺の事を何もかも知っていて、人のことを玩具のように見て、楽しければいいという考えに振り回されて。つまるところ、人間味が感じられない。人間じゃない、もっと別の何かに思えて仕方ない。そんな恐怖に、身体の全身が包まれていく。目の前で微笑む好意を寄せた女性は、だけど、何かが違う。
「お前、一体何者なんだ……」
俺は見えない壁にずるずると頭をこすりつけて、やがて崩れ落ちた。這い寄る恐れ。人は得体のしれないものに特に恐怖を抱くという。だから幽霊や宇宙人にそういった感情を抱きやすい。まさしく、今の俺はそれだった。
「この雪はね、君の風景だよ。この町はね、君の心だよ」
「……俺の、心?」
「そう。澪くん。貴方は、私よりももっと構うべき存在と、問題がいくつもあるの。君の後悔は、何年も前からずっと降り積もって、あら不思議、夏に雪が降っちゃった。分かる?」
「分かるかよ」
「はは、そっか。でも、いいよ。いずれ分かる。ねえ、とどのつまり、こういう事なんだ」
奈緒は俺に背中を向けると、雪の降らない町を見据えて高々に言い放った。まるでそこは舞台とでも言うように、堂々と。
「君は私との恋を叶えるにしろ、この町を出るにしろ、夏雪を止めなきゃいけない。だって、夏雪は君なんだから」
私の正体なんて、それからでも問題ないでしょ?
そう言った彼女は、ふわりと暗闇の中へ消えていった。
俺はしばらく、その場から動くことが出来なかった。




