2 約束
夏に雪が降るという、社会、もしくは世界的に大きな大ニュースをもたらした日に出会った女性は、奈緒と名乗った。よく口が回って、ついでに表情も身体もころころと動く。終始鉄仮面みたいな顔して佇む俺とは正反対の人間だった。
君に会いに来たと言われた俺は、こいつの頭はやはりどこかぶっ飛んでいるのだなと思って、深く追求せずにうんうん頷いて流しておいた。おかげでその後彼女が話していたことはほとんど覚えておらず、名前しか記憶に残らなかった。家に帰ったら、今日はどんなことを要求されるのかなんて考えていたら、やっぱり奈緒という女性どころではなくて、まあ仕方のないことだろう。
だからその後、どうやって彼女と別れたのかも記憶が曖昧だ。
ただ一つ覚えていることと言えば、雪がついに止んでしまって、彼女が寂しそうな顔をしてその場を離れた事だ。俺もその時は酷く残念な気持ちになったから覚えているのかもしれない。
だから、その日はちょっとした異常気象に合わせて、変な女がやって来たという、まあ俺にとってはそれくらいの出来事だった。だからまさか、またあの女に会うとは全く、これっぽっちも思っていなかった。
奈緒に再び出会ったのは、次の日の朝だった。
朝から昨日の雪の事で持ちきりな家の中、俺はただひたすら、ぼんやりと突っ立って、“お仕事”をこなしていた。外を見れば、昨日あれだけ降った雪は、この気温に負けずに溶けることなく街を覆いつくしていた。
不思議なものね。でも、とっても綺麗だわ、と俺の隣で不自然に笑うアイツの顔だけが、酷くぼんやりとしていて、そんな中、俺はそうだな、なんて作り物の笑顔で答えて、お仕事をこなす。
こんな生活をいつまで続けるのか。そう聞かれたら、俺は死ぬまでじゃないかな、なんて曖昧な答えしかできない。だって、隣でテーブルに並んだトーストとスクランブルエッグを美味しそうに頬張る彼女は、確かに俺の雇い主で、俺の主人で、彼女なのだ。そのどうしようもない、紛れもない事実から逃げられない。俺はきっと、この先もずっとこの女の傀儡として生きていくしかないのだろう。
「澪、美味しい?」
「……ああ。もちろん」
「なら良かった。ふふ、私も少しだけ手伝ったのよ」
「そうか。だから、こんなにも美味しいんだな」
実際手伝ったなんて、嘘に決まっている。せいぜい皿を並べる程度だろう。それでも俺の隣でにこやかに笑いかけるこの女には、労いやお褒めの言葉なんてものを並べておかなければ、後で何をされるか分からない。
本当はこのしみったれた朝食も味なんて一切しないのに。
俺は無感動に、それでも仕草や顔の表情は作って、人間らしく見えるように動かして食べ続ける。腹は満たされる。だけど、心は満たされない。
なるほど、昨日奈緒というやつが言っていた通りだ。心が空っぽなら、味なんて分かるはずもない。味覚が戻ったら、夏に降る雪は美味しいんだろうか。外を出たら試せるのに、それでも分からないのは、少しだけ残念だった。
「それじゃあお仕事、行ってくるわね」
「行ってらっしゃい。千夏」
東雲千夏。それが俺の雇い主で、偽りの恋人の名前だ。彼女は俺にとって、ある意味で必要不可欠だ。俺の人生を語ろうとしたら彼女の存在は欠かせないし、彼女にとっても、俺の存在は欠かせないだろう。
だけど、それが吉と出るか否かは、過去の自分には想像も出来なかっただろうな。
肩まで伸ばしてくるくると巻いたチョコレート色の髪に、整った顔立ち。化粧のノリはすこぶるよくて、唇にはピンクのグロスがてかてかと輝いている。遠目から見ても、美人だと見間違えてしまう彼女は、容姿だけで言ったら自慢の彼女になってしまうだろう。
でも、中身は外見に伴わない。むしろ、俺には性格に釣り合って、外見が醜悪にさえ見えてくる。化粧はけばけばしいし、くるくる巻いた髪は鬱陶しいし、厚い唇はたらこにしか見えない。あれで味がついているのなら、食べた方がマシかもしれない。
千夏は俺を縛り付けて、仕事中以外は必ず傍にいることを命ずる。それが俺の仕事であり、また、断れない案件だった。
俺が自由になれる時間は、彼女の仕事中だけ。それ以外は、ずっとそばに居続けなければいけない。
だから、この豪奢な玄関から職場に向かっていった千夏が次に自由時間を得るのは、昼の一時から。つまり、俺のお仕事は一時から。それまでは、自由時間だ。
玄関でドアを閉めて、いつもの如く、ため息をついて一度中に戻る。
そして、体裁を気にして身だしなみを自室の全身鏡で整えると、昨日と変わらない服装で廊下に出た。
「澪様、お出かけですか」
「ああ」
「くれぐれも、一時までには」
「知ってる。戻ってこればいいんだろ。逃げるわけないよ、何度も同じこと言わないでくれ」
「……失礼いたしました。いってらっしゃいませ」
すごすごと後ろに下がり、俺を玄関へと見送る執事は、皺だらけの顔を寄せて、それでも仕事に徹した。この男も、俺と一緒なのだ。
結局、あの女と、それを育てた両親に縛られて生きていく、退屈な人生を送るくだらない人間。
「澪様、雪が降っておりますゆえ、足元にはお気をつけて」
「……また降ってるのか」
「はい。……この異常気象、なにか嫌な予感がします」
俺はちら、と玄関口を見て、ひらひらと執事に手を振る。ここには窓がないから、確かめるなら外に出なければならない。そうか、また雪が降っているのか。
俺は少しだけ、昂り始めた感情を抑えて外に出た。
玄関を閉めて、さて、今日は何処へ行こうと思いを馳せる。外に出れば、本当に雪が降っていて、やはり道端の隅々には雪の山も見えた。
そうだ、折角雪が降っているのだから、ちょっとは違うところへ行ってもいいかもしれない。ああ、相変わらず蒸し暑くて嫌になるな。
そんなことを考えながら、玄関口から遠すぎる門をくぐり、ようやく“外”に出ると、ひょっこり、誰かが陰から現れた。
「や、おはよう」
「…………お前、何してんだ」
家の前で待ち伏せしていたのか、顔を覗かせて、後ろで手を組んで、いかにも待ってましたという風体をした彼女は、満面の笑みを浮かべていた。
相変わらず眩しい太ももが、俺の目にはきつい。
「ふふ、君の事だから私の事は忘れてしまっていそうだったけれど、そうでもなかった?」
「忘れるか。お前みたいな不躾な女」
「なら良かった。私もちゃんと覚えているよ。明石澪くん」
「当たり前だろ、ここまでつけてきて俺のこと忘れたなんて言われたら、病院をお勧めするよ、奈緒」
そうやって名前を呼んでやったら、奈緒はわーお、なんて大袈裟な声をあげた。何だ、意外か。
「名前まで覚えてくれているなんてお姉さん感激。昨日ほとんど話を流されてたような気がしてたのに」
「気づいてたのか」
「もちろん。私、これでもよく見てる方なの」
「……ま、そうだろうな」
こんなたいした魅力もないような俺を、面白いと言って着いてくるくらいなのだ。それだけよく観察しているのだろう。
そこで俺はハッとなって、背後を振り返る。荘厳な門の奥に輝く屋敷、そして終始何者かの侵入を許さないようにつけられた監視カメラ。きっとこれくらいなら大丈夫だと思うけれど、このままぼうっとここで話し続ければ、いずれ千夏にばれてしまうかもしれない。
俺はいかにも今ここで、通行人に挨拶されて立ち話をしましたよとでも言うように装って、素知らぬ顔でゆったりと屋敷から離れる。もちろん、奈緒も俺に自然とついてくるわけだけど、そこはさすが観察だけはよくする女だ。何かを察したらしい彼女は、一礼して自然な動作で俺と距離を取りつつ、その場を離れる。
やがて数メートル歩き、ようやく屋敷の姿も小さく見え始めた頃、奈緒が俺の隣に並んでふうん、と意味ありげに言葉を漏らした。
「見られたくないの?」
「……誰にだって、そんな時はあるだろ」
「君は常に誰かに見られたくないようだけど」
「そんなつもりはない。俺は、特定多数の人物に、俺の自由時間を縛られたくないだけだ」
「ふうん」
奈緒は頷くと、そのまま俺の手を昨日のように引っ張って、強引に連れ出す。やっぱり彼女の手は何処までも冷たくて、また雪で遊んだのか、と呆れざるをえない。
「何だよ」
「ふふふ。なんだっていいよ。私と遊んで」
「なんで。そうする意味はない」
「何事も意味なんて、あとからついてくるものだよ」
奈緒は俺の腕を引っ張ったまま、走り出す。待て待て待て、俺に無駄な体力を使わせるな。走らなくたっていいだろ。
そんな視線を無言で、尚且つ執念深く送ると、奈緒はあらら、とわざとらしく俺の顔を見て立ち止まる。繋いだ手は離さない。おい、離せ。どれだけ雪で遊んだんだ、夏だっていうのに冷たすぎるだろう。
そう言いたいのに、何も言えなかった。
覗き込まれた彼女の瞳が、月のように輝いていて、それがどうにも、見惚れてしまったのだ。もちろんそんな事、実際に言葉にするのは気恥ずかしくて、何も言ってやらない。
結局俺は、無言で奈緒から視線を逸らして、繋いだ手の冷たさに身を任せるだけだった。
ミンミン、ミンミン。
蝉だけが、俺たちの間にある僅かな空気に、面白みを与えてくれていた。
「何だんまり決め込んでるの?遊んでくれないの?」
「ガキか」
「遊びは大事だよ。いつまでも子供の心を忘れないのは、生きていくうえでとても重要な事だけど。違う?」
問われた俺は、口をつぐむ。へらへらとしているくせに、この女、深い事を言う。思い当たることがあった俺は、そのままそうだな、と不機嫌に相槌を打って、奈緒に連行された。
道端に広がる白銀の地面に、ザクザクと足跡をつける。それすら楽しそうな奈緒は、田舎と言われても差支えのないくらいの木々から飛び立つ蝉に手を振っていた。変な女。ただただ、それだけが俺の頭の中でぐるぐるとしていた。
そうして、何処へ行くのかと思いきや、昨日俺たちが出会った公園に辿り着いたとき、少しだけため息をついた。まさか本当に遊ぶ気満々だったとは。子供の場所だぞここは。もちろん、昨日一人で過ごしたくてやってきた俺は人のことを言えないけれど。
「こんなところじゃなくたって、他にも遊べる場所はあるだろう。アンタ、何処でも楽しめそうだけど」
「そりゃ私は何処へ行ったって楽しいことを見つけられるよ。でも、今は君と居るんだから気を遣うのは当然じゃない?」
「気を遣うなんてこと、出来たのか」
「失礼な。私だってそれくらい出来るよ」
「じゃあもう一つ気を遣って俺を解放してくれないかな。一人で居たいんだ」
「それは無理」
即答かよ。
俺は呆れてベンチに腰を下ろす。奈緒は少しだけ不満げに頬を膨らませて、ぽす、と雪玉を投げてきた。ここで返したら無駄な体力を使ってしまうし、俺はされるがまま、暑い日差しの中、定期的に訪れる清涼剤を受け入れることにした。さっき走って疲れたんだ。放っておいてくれ。むしろ、俺がこの場を離れればいい話か。一人で、また千夏の束縛がやってくるまで淡々と外で過ごす日常に戻ってもいい。
だけど、こいつは何処までも俺についてきそうだし、なぜかここから一人で離れるのは違う気がした。どうしてなのか、俺には全く分からない。自分の事なのに。自分の事は、自分が一番分からない。最近は、そんな考えばかりが頭を過る。いつか自分の事を完全に理解できる日が来るとしたら、それこそが死ぬ時なのではとすら考える。
「もう、何で構ってくれないの」
「ならどうして俺を連れてきた。他にもっと面白い人間ならいくらでもいるだろ」
「まさか。私が見てきた中で、君が一番面白そうだったよ、澪くん」
「じゃあお前の目が狂っているんだ」
こんなにも、ただひたすらにぼうっとしている男を面白いなんて言うやつはお前だけだよ。俺はきらきら光る太ももを見ながら思う。こいつは日焼けとか気にしないんだろうか。夏休み明け、真っ黒になって元気に登校してくるような学生と同じだろうか。
「他の人達なんて、面白くないよ。夏に雪が降っただけで、大騒ぎして、この公園を出たところではみんなこの現象に押し寄せてテレビだなんだって。うるさいなあ」
噴水広場の事を言っているのだろう。確かに、さっき通りかかった時、県外から多くの記者やカメラマンがこぞって集まり、その中心に市長やらお偉いさんがコメントしていたのを思い出す。朝からご苦労な事だ。しかし、お偉いさんが出たって、自然現象に何も変わりはない。
「俺だって大騒ぎしてるよ」
「全然見えないけど」
「心は感動したさ。空っぽの心に感動をもたらしたこの雪には感謝だな」
「もしかして空っぽって言ったの、気にしてる?」
「さあな。でも、食べたくなるくらいにはこの雪には注目してるよ」
「でもその雪の味なんて、分からないでしょう。じゃあ、空っぽの心はそんなに反応してない。君は今まで見てきた人間の中で、一番面白い」
どうしてそういう結果になるのか全く理解が出来ない。加えて俺の味覚があまりにも反応しないのを抜きにしたって、雪には味があるのだろうか。全く想像がつかない。奈緒と話していると、だんだんと頭が混乱してくる。それくらい、電波的な発言が多い、気がする。
果たして、俺にこの雪の味が分かる日は来るんだろうか。
「君はさ、人生に絶望しきって、だけど死ねないっていう人間味溢れる人だよ。それで、生存本能で雪を手に取った。夏に雪が降っているというのに、たいした驚きもせずにぼんやりとしながらこの公園で雪と共に居た。とっても、良いと思う」
「なるほど分からん。アンタの感性は分からん」
「いいよ、それでも。君にもいつか分かる日が来る。その時まで、私が傍にいる」
思わず奈緒の顔を凝視した。ふざけた話ばかりの中で、突然の約束事。俺の傍に、居る?
昨日今日出会ったばかりの男になんてことを言っているんだ。そうは思うものの、どうしてか否定できない。こいつなら。奈緒なら、俺の傍に居続ける気がする。とても困るけれど、何かと理由をつけて、俺の目の前でころころと無邪気に笑っていそうだ。
俺はフッと笑って、そうか、なんて返してしまう。可笑しなことに、迷惑だとは思わなかった。困るには困るけど、千夏といるよりも楽しそうだ。
いつか、俺の事を面白いといった奈緒の気持ちが分かるのなら。死なずに自分の事が一つでも分かるのなら。それはそれでいいかもしれない。
「期待してるよ」
「ふふん、すぐに分からせてやるんだから。君の心を、満たしてやる」
「一体どうしてそんな話になるんだ?」
「さあ?」
会話も上手い事繋がっていなくて、自由で、ハチャメチャで、俺を振り回しすぎる奈緒は、だけど、それでもなんだか、一緒に居てやってもいいかなと思える人だった。
人が嫌いで、関わりたくなくて、一人になりたくて。いっそ死んでしまえたら楽なのに。そんなことを常に考えて街を徘徊して、お仕事をこなしている俺が、嫌とは思わない人間。それがとても新鮮で。
だからだろうか。
仕事があるからと奈緒と別れた後、その日は珍しく、千夏と再会しても、上手い事彼氏面出来た。今までで一番いい出来だったかもしれない。
そうして俺と奈緒の夏雪の日々が始まったのだ。