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19 透明

 奈緒は町の中をひたすら歩いて行った。おしゃべりな彼女は、どうしてか一言も口を開かなかった。高く結い上げた髪がゆらゆらと揺れていて、なるほどこれでポニーテイルと言われているわけだ、馬のしっぽによく似ている、なんてことを考えながらついて行った。

 夜の雪というのはとにかく幻想的で、クリスマスに雪が降れば喜ばれる理由も頷けた。暗闇を照らす白の贈り物は、確かに人の心に積もるのだ。たとえ、それが蒸し暑い夏だとしても。

 蛾によって光を遮られつつある誘蛾灯、ぽつんとそびえたつコンビニ、かつて俺たちが通った高校、色の禿げかけたポスト。その何もかもが、俺の過去を彷彿とさせる。不意に千夏と美咲の笑顔が過って、俺は首を振った。目の前を歩くのは奈緒だというのに、俺は未だに過去に囚われ続けている。この町を出れば、そんなこともなくなるのだろうか。

「着いたよ」

 そうしてしばらく、無言で歩き続けた後に奈緒は立ち止まった。あれから三十分近くは経っているはずだ。俺は奈緒が立ち止まった周囲を見渡す。そこは、何の変哲もない、町中だった。

「ここ?」

「そう」

「ここが、何だっていうんだ?」

 周囲にそびえる住宅街と、二車線の道路。道路の幅は狭く、信号が青く光っていた。奈緒は道路を背に、住宅街に点々と経つ電柱に指さした。

「ここは町の境目。この電柱の先を行くと、隣町なの」

「ああ、そうだな。よくここから抜けて遊びに行ったもんだよ」

 俺は電柱に近づいて手をつく。ざらりとした感触に皮膚が痛い、と叫んでいた。

「この電柱、超えてみてよ」

「あ?……ああ」

 俺は言われるがまま電柱を通り過ぎた。否、通り過ぎようとした。

 けれど、それは未遂で終わった。

「……?」

 俺はその時ほど間抜け面をさらしたことはなかっただろう。なんたって、電柱の先には隣町が広がっているはずなのに、俺は一向にそちらへ足を踏み入れることが出来ない。何かに邪魔されて身体全体が動かない。まるで、見えない壁が俺を阻んでいるようだった。

「どう?行けないでしょ」

「何だよこれ……。なんで、ここから出れない?」

「この町だから。……見て、向こうの景色を。空から、何か降ってる?」

 奈緒の言葉に、俺は電柱の先を見る。そして、俺は気づく。この暑さの中で異常気象の雪が降っているというのに、電柱の先には何も降っていない。それどころか、地面に雪の絨毯は存在しなかった。

 勢いよく体当たりをしてみるけれど、痛みが広がるだけで前に進めない。

「どういうことだよ……。この町から出れないってことなのか?」

 意味が分からなかった。俺は、そのうちずるずると膝をついて、見えない壁に拳をぶつけた。何も、出来なかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、目の前の事を処理しきれていない。ただ一つ分かることと言えば、奈緒の言った、行けない、という言葉は、この見えない壁に阻まれているから、という理由から来ることだけだった。

「分かったでしょ?ここから出られない理由」

 君たちは、この町に閉じ込められているの。

 そんな言葉、聞きたくなかった。

 駆け落ちどころではない現実が俺にのしかかってくる。隣町では雪が降っていない。それが普通だというのに、今や雪のない夏の夜空に違和感しか覚えない。人の適応力の高さにほとほと呆れた。

「雪が、関係しているのか?」

「大正解。雪が、この町を埋め尽くして隔離してるって言ったら信じる?」

 見えない壁が目の前にあるというのに、信じるなと言われてそうですかと頷けるわけがない。奈緒の言葉は信じるに値する。彼女は、悪戯好きであれど、人に嘘をつく人にも見えない。そもそも、嘘をついたらすぐにばれそうなくらい、顔に出るのだから。

「毅が言っていたんだ。雪がこの町を殺しにかかっているって。いずれ観光だなんだと言っていられなくなるって」

「そうだね。この町は、いずれ雪に埋め尽くされて消えてしまうよ」

 奈緒はその時、どうしてか笑っていた。酷く可笑しいとでも言うように、くすくすと笑い声を漏らして、肩を揺らしている。吊り上がった口元はまるで悪魔のようで、俺が惚れた女性はもしかして人間じゃないのかもしれないという妙な仮説が立てられてしまった。町と共に奈緒も危険に晒されるというのに彼女はちっとも恐怖を感じていない。その姿に、俺は初めて彼女に対して明確な得体の知れなさを覚えた。 そこがまた魅力と言ってしまえば、あばたもえくぼ、なんて惚気てしまえるのだろうけど。

 俺の過去も、毅の事も、千夏のことも。美咲の事でさえ、関係のない奈緒が知っているのは、正真正銘、俺にとって恐ろしい存在だった。むくむくと湧き上がる恐怖心は、本当だったらもっと早くに味わっていなければいなかったのだ。

 俺は身震いすると、見えない壁に手をつく。すぐそこに景色は広がっているというのに、空から何も降らない隣町は映画を見ているようだった。

「なんでこんなことに……」

 大きな籠に閉じ込められた鳥は、囀ることしか出来ない。俺は、そんなの絶対に嫌だ。ようやく千夏から離れられたというのに。

「そうやってうじうじ考えて解決策を考えないところ、だっさい」

「……なんだって?」

「ちょっとは考えて、前を向いたら?」

 目の前で未だにニタニタと笑う彼女の口から放たれた言葉はあまりにもきつく、俺の心に深く突き刺さる。でも、それ以前に俺はこの言葉に既視感を覚えた。どこかで聞いたことがあるような気がした。だっさい。そう言って、倒れた俺を鼻で笑って立ち去ろうとした人間が、昔もいた。そう、丁度七年前の話だ。

 アイシングが乗っ取られて、千夏の奴隷と言っても差し支えない生活が始まったばかりの頃。

「なあ。前にも、俺たちは会ったことがあったか?」

 彼女の昏い瞳孔を見つめた。その瞳が閉じられて、ふっと息を吐きだす。くるくると踊るように背中を向けて奈緒はもちろん、と頷いた。雪を一欠けら手に取ると意味もなくそれを口に含んだ。

 そして、一言。

「今更気付いたの?言ったよ。私は、ずっと君を見ていたって」


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