17 愛憎
帰り道、毅の様子は何処か気が張っていて、気軽に話しかけられるような雰囲気ではなかった。かまくらで遊んでいたのがいけなかったのか。そう思ってしまうくらいには、彼の陽気な性格にしては珍しくむっつり黙っていて、何も話してくれない。俺と会話をしていなくたって、隣にいるであろう美咲にはマシンガンのように恥ずかしげもなく愛を囁く男だというのに、どうしたのだろう。目の前を歩く毅の後ろ姿との距離は一向に縮まらなかった。
そうしてしばらく、悶々と気まずい雰囲気を味わいながら毅の家に向かって歩いていると、今やたいして珍しくもない雪が降りだした。そこでようやく毅は足を止める。雪を見上げた彼の瞳は、何かを決心したよう見えた。
「なあ、澪」
ふと、頭上から降り積もる小さな塊を掌に乗せた彼は、俺をゆっくりと見据えて視線を交わす。怒っているわけでもない。悲しんでいるわけでもない。
ただ、何か、後悔をしているかのような顔に、俺は身構えた。
「何?」
「俺は、この町はもうダメな気がするんだ」
「……ダメって?」
「雪だよ。この雪は、もうきっと、この町から消えることはない。降って降って、これでもかというほどに降り続けて、やがて俺たちを埋め尽くすに違いない。……なあ。澪。お前、それでいいのか?」
「意図が見えないな。……確かに、この町はもうダメかもしれないな。毅の話の通りなら。……でも、それがどうして俺の意思の話になるんだ」
「……俺が後悔しているからだ」
毅は右手を出して美咲を引き寄せる仕草をすると、誇らしげに胸を張る。彼の肩には次第に雪が積もっていくけれど、それは二人の愛が溶かしてしまうんだろう。全く、おめでたいことだ。
「俺は美咲が隣にいれば、幸せなんだ。だから、この町が雪に覆いつくされて、消えていったって構わない。俺は美咲と一緒に居られるならそれでいいから」
「大袈裟だな。まるでこれからこの町のみんなが死ぬみたいな話だ」
「だって、可能性はあるだろう。雪に埋め尽くされて隔離された町は、人々と共に死んでいく。充分に有り得るさ」
「そうかもしれない。で?」
俺は顎を使って話を促すと、毅は再び歩き出して背を向けた。宙に出された右手はきっと見えない彼女と手を繋いでいる。話をしながらも視線が右に向いているのは、きっと見えない彼女が隣で微笑んでいる。
俺だって、そんな関係を築きたい。
「でも、俺はお前に死んでほしくない。……数年間、お前が苦しんでいるのを見放してきた俺は、今更だけど、お前に幸せになってほしいと思ったんだ。勝手だと思うだろうけど、本当なんだ」
「ありがとう。親友にそんなことを言われて、俺は嬉しいよ。今までの俺だったら、そんなことは思わなかったからな」
「そうだ。何も、感じなかっただろう。感情を殺したお前に、俺の言葉はただ空気で泳ぐだけなんだ。……なあ、澪。気づいてるか?お前が奈緒ちゃんと話す時、ころころと表情が変わるんだ。子供みたいに、嬉しそうに。俺は、お前のそんな顔を久々に見たよ。それこそ、美咲が死ぬ前だってそんなに見られなかったのに」
ぎり、と大きな音がした。毅が歯ぎしりをしたと気づいた時、彼は俺に頭を下げていた。俺は、友人の突然の行動に戸惑うばかりだった。ちらちらと雪が毅の背中を侵食していく。だけど、真ん中辺りでぽっかりと雪が消えていく部分がある。まるで何かに遮られているかのように。
「本当に、ごめん。俺の、曖昧な願望で大切な友達を見捨てた。心を殺してしまったっていうのに、俺はそれを無視していた。……本当に、ごめん」
「何だよ、やめろよ。そんなの、気にしてない。自分でどうこう出来なかった俺が悪いだけだ。毅は関係ない」
「関係なくなんかない。美咲が死んだから千夏は行動に出た。美咲と千夏がお互い恋を叶えるために俺たちはこうなったんだ。結果、俺はこうして満足のいく結果になったけど、お前は違うだろう」
俺たちは、一蓮托生なんだ。
そう言った毅の顔は顔面蒼白だった。
俺はその時悟った。七年前、美咲が死んだ日の事を。
美咲が毅に好かれるために死を選ぶと同時に、千夏も俺を自分のものにするために二人が協力して動いていたことを。
でも、俺はそんなこと、最初から勘づいていた。
美咲と千夏はずっと一緒に居たから。二人が協力し合うなんて、ずっと前から分かっていた。例えば、その日、美咲が死ぬのを千夏が手伝っていたとしても、違和感なんてない。ただ、恋を叶えるために必要な事だっただけなんだ。
それから俺を狙って千夏が両親とともにアイシングを狙い、行動することに、頭の良い美咲が一枚嚙んでいたとしても、それも違和感がない。毅はきっと、七年前、徐々におかしくなっていく千夏の気持ちと行動に気付いていながらも、自分の事に精いっぱいで俺には何も言えなかったんだろう。だけど、だからどうしたというんだ。
俺は、こうして奈緒に出会ってようやく人間性を取り戻すことが出来た。なら、もうそれでいいんだ。
終わりよければすべてよし。そう言うだろう。まだまだ、終わりだなんて先だけれど、一蓮托生の四人が交錯し合って、結果こんなことになって、それでもみんながみんな、恋という感情に振り回されてもがいているのだ。
もう、いいじゃないか。みんな、目の前を見るだけで精いっぱいなんだ。今も昔も、自分の事で精いっぱいだ。だから、毅が謝ることなんて少しもない。
「いいよ、俺たちは切っても切り離せない関係だって知ってる。だから謝るなよ。もう、良いんだ」
「そうか。そう、か」
毅は納得したように頷くと、それでも、頑固な意思を見せた。つまり、今まで俺の不幸に手を伸ばさなかった懺悔をさせてほしいと、何かのチケットを渡してきたのだ。
「なに、これ」
「新幹線のチケットだ。お前は奈緒ちゃんと遠くに逃げろ。もう、千夏に怯えて生きることはない。俺が言えた事じゃないが、千夏はどうかしてしまったんだ。これ以上ここに居ると、またお前は元に戻る。だから、雪でこの町が覆いつくされる前にこの町を出ろ。遠くに行って、奈緒ちゃんと幸せになれ。金なら俺が援助してやる」
「どうして。そんなことする必要なんて」
「あるんだ。お前は、もっと自分に素直になっていい。今まで奴隷のように扱われてきたお前には、これから幸せになる権利がある。なあ、これは俺の償いなんだ。頼むから、受け取ってくれ」
二枚のチケットは、雪で少しだけ濡れてしまい、毅は俺のポケットに無理やり入れ込む。そして早足で自宅へ向かった。当然、俺は納得いかないから追いかける羽目になる。いくら何でも急すぎる。
このチケットをどうやって返そうか迷っているうちに、あっという間に毅の家に着いた。マンションの一室、最上階。だが、家主の彼も、もちろん俺も、家の中に入ることは出来なかった。
思わず毅の背中に隠れるようにしてしまったのは、やはり過去の恐怖が付きまとっていたという証拠だ。
玄関先で大声を上げる千夏を、近所の人が迷惑そうに一瞥していくのが視界の端で見えた。
「ねえ居るんでしょ澪!出てきてよ澪!私の前から消えるなんて許さない!ずっと一緒に居るって約束したじゃない!愛してるって言ったじゃない!あれは嘘だったの!どうして!出てこないとどうなるか分かっているんでしょうね!あんたを引きずり出して二度と外に出せないようにしてやる!毎日私の隣で百万遍の愛を囁いてくれないと、あんたを地獄の底まで追ってやる!」
俺はアンタの操り人形じゃないんだよ。そう言ってやりたかった。玄関口で拳をぶつけて鬼気迫る顔の千夏は、かつて俺の隣で笑っていたあの無邪気な面影なんて一かけらもない。
「あの女のせいね。絶対に許さない。引きずり出して殺してやる。あんたの前で殺して、私以外見えなくしてやる。澪はずっと私だけのものなんだから。ずっと、私だけがあんたを見てきたんだから。あんな女に渡してたまるものですか!」
俺は何度も千夏の元へ行って言い返してやろうと思った。けれど、どうしてもそこから動けなかった。何より、ずるずると玄関で膝をついて恨み言を言う千夏は泣いていた。
「どうして。どうして?美咲は上手くいったのに。あの子は死んでもなお、恋して楽しそうなのに。ずっと想っていた私はどうしてこうも上手くいかないの?会社も何とか経営できるようになったってのに、澪は私を見てくれない。なんで」
彼女の独り言は、あまりにも大きくて、俺は俯いた。毅が背中を叩き、首を振る。それだけで、全てを察した。
「千夏は、本気でお前が好きなんだよ。……ただ、やり方を間違えたけどな」
ならば彼女はいったいどこで間違ってしまったのだろう。俺は、どこで彼女を見放してしまったのだろう。金切り声をあげて、声を枯らすまで俺への恨みと愛を放つ彼女は、恐ろしくて、俺には手に負えない。
「千夏はずっと、俺の事を理想の彼氏に仕立て上げるための人形として見ているんじゃないかって思ってた。でも、違うのか」
「ああ。思い通りにいかない現実にわがままを貫いた、子供だよ。千夏は、あまりにも幼稚な考えしか出ないんだ」
おかげでこうも間違えてしまった。好意に応えてほしくて、相手の心を壊した。
毅は遠い目をしてそんなことを言う。あいつは間違えた。こうするべきではなかった。そう漏らしつつも、毅の眼には憐みだとか、親しみだとか、そんなものばかりが浮かんでは消えていく。俺のように、恐怖で支配されることがなかった毅には、幼馴染の変わり果てた姿は、大切な人の辛い現実としてしか映り込んでいないのだろう。
俺にはそれが、とても羨ましかった。
俺だって、千夏が嫌いなわけじゃないさ。ああ、もちろんだとも。
物心ついた時から、ずっと一緒に居たんだ。好き嫌いも、性格も、何もかも知り尽くしている。だからこそ、彼女の変わりようは俺には理解しがたく、恐ろしくてたまらない。俺は、七年前からずっと、彼女の愛憎をただひたすらに受け止めてきた人形なのだから。
「千夏のあの姿を見て、お前はどう思う。あの場所に戻りたいか?」
「…………ごめん。……千夏の事が嫌いなわけではないんだ。今でも大切な幼馴染として俺の中では確固たる地位にいるさ。……でも、それとこれとは話が違う」
「なんたって、お前には好きな人が居るんだからな。そして、もうお前は千夏の人形じゃない」
「そうだ」
なんだ、よく分かっているじゃないか。そうだよ。俺は、もうあの場所に戻るわけにはいかないから。
「行けよ。奈緒ちゃんとこの町を出るんだ。千夏は俺が何とかする。気にするな、この町は雪に埋もれた伝説の町にして見せるさ。それこそ、神秘的で歴史に名を残すくらいの、素敵な大団円を描いてやる」
「……そうだな」
もう、毅は諦めているんだな、と俺は首を振った。絶対に溶ける事のない雪を前にして、大手企業の跡継ぎである彼は、この町と消えることを悟っている。この雪が、この町の脅威となることを誰よりも悟っているんだ。
「千夏の事、よろしく頼むよ。……美咲と仲良くな」
「ありがとな。美咲とは死んでからも一緒だ。出来れば千夏も一緒になってやるよ。……じゃあな」
夕陽が徐々に落ちていく中で、俺は毅と千夏を背に歩き始めた。背後で足音が遠ざかっていき、やがて千夏を宥める声がする。澪はここに来ていないよ、どうしたんだ。そんなの嘘よ。嘘じゃないよ。澪を一緒に探そう。探すに決まっているわ。許さないんだから。許さないんだから。ユルサナインダカラ。
俺はポケットにねじ込まれたチケットを握りしめると、早足で立ち去る。もしかしたら、二度と会わないかもしれない。けれど、ごめん。俺の人生は、俺のものだから。したいように、させてもらうよ。




