16 後悔
剣崎グループっていうのは、今でもアイシングの大手取引先として大きな栄光を手にした大企業だ。片やスーパーの取引先に選んでしまうのは申し訳ないくらいに多種多様な事業を収め、その一つ、食品を扱う企業の息子が毅である。
つまるところ、千夏と同様、いやそれ以上に毅はお偉いさんで、とにかく忙しい身なのである。住んでいるところが1LDKの賃貸だとしても、彼は社会を支える一つの大きな柱には違いない。
そんな彼が、俺を匿い始めてから三日も経たないうちに有休を使って俺と外出をすることになったと思うと、それはそれで申し訳なかった。友人として気を遣わせたのかもしれないけれど、彼は今やそう簡単に有休消化させられる身ではないのだ。本当に感謝のしようもない。
「なんか、ごめんな。俺のせいで休みを取ってもらって。貴重な有休なんだろう?」
「まさか。お前、友達のために使う有休が貴重でないわけがない。俺はお前と友情をはぐくむために休みを取ったんだよ」
「そうか。気持ちの悪い答えをどうもありがとう」
「はは。お前もずいぶんと人間らしく答えてくれるようになったもんだ」
外出すると言っても、毅と俺が行くところなんてそうそう見つからない。結局は町中をぶらぶらとして、雪が止まないうえに蒸し暑いのをぶうぶう文句でも言いながら散歩する程度だ。美咲もちゃんとついてきているらしく、時折背後で惚気が始まる。
「ここらも雪に侵食されているな」
「前からだろう。……雪が降り始めて、もう三週間は経ったか?」
「あ、ああ。そうだな。……なあ、お前は知ってるか。雪がこの町にもたらしつつある現象」
毅が遠い目をして言い出すものだから、俺は思わず道端だというのに立ち止まってしまった。道路に雪が積もっているというのにチーターにも負けないスピードで走っていく車や自転車。そろそろ、この雪景色にも適応してきたということだろう。
「他県から興味本位で人が押し寄せてくるとか?」
「ま、それもあるさ」
毅は立ち止まった俺に手招きをして、再び歩み出した。この先には俺の拠点である公園がある。なんとなく、毅もそこに行くのだな、と悟った俺は黙ってついて行った。淡々と語る毅は、今や一人の社会を動かす者としての顔つきだった。屋敷で日々自堕落に生活して、誰かの人形となり果てていた俺とは大違いの、責任感に満ちた顔つきは、ちょっと心配になるくらいだ。
「確かに最近、観光客の類は増えた。一時期、アイシングの売り上げも底上げになったと千夏も言っていたさ。俺もそう思う」
「へえ、良かったな」
「ああ。だけどな、観光客の増える一方で、提供するものが不足したら?需要と供給が成り立たなくなったら?」
「……まさか。そんなこと。だって、他社との取引も万事順調だろう?」
「その取引先が、もう出すものもないんだよ」
毅はやがて、公園に辿り着くとベンチに真っ先に座った。俺も真ん中を空けて座ると、話の続きを促す。
彼は、どうやって話すのか考えているようだった。今や俺はアイシングという企業の息子から立場を落とされ、転落の一途をたどっている。高校を卒業したら大学に進んで経営学を学び、少しでも会社の助けになるようにしたいと思っていた。だけどそんな未来はあの日から潰えて、俺は高校を卒業すると、世間知らずな千夏が跡を継いで会社の力になるのをただ横目に見ていることしか出来なかった人間だ。
「千夏からは何も聞いてないか」
「……聞いてない。言うわけないだろう。あいつは、俺には一切そういうことを話さなかった。知られたくないんだろうな」
乗っ取ったのが両親とはいえ、その立場に嬉々として食いついた千夏は跡継ぎという肩書に誇りをもって仕事に挑んでいるようだった。そんな中で落ちぶれた俺に仕事の話は、あのわがまま女王様のプライドが許さない。
いや、でも。
「そういえば。いつかの日に、千夏が言っていたな。雪が降っているせいで客足がどうの、仕入れがどうのって。独り言だったけど」
丁度千夏と奈緒が初めて顔を合わせた日の事だ。つまり、俺が千夏の機嫌を心底損ねた日でもある。あれは大変だった。だけど、あの日がなければ今の俺はこうしていないんだから、不思議なものだ。
「そうか。……それくらい、切羽詰まっていたんだ」
「結局、何があったんだ」
「ん。そうだな。お前に話しても、なんともならないけど」
毅は俺を突き放すようでいて、アイシングに関わらせたくないとでも言うように肩をすくめた。複雑な立場である彼は、今の俺に仕事の話をしていいのか、迷ったのだろう。だけど、話を振ったのは毅だ。最後まで話してもらわなければ困る。
「この雪、暑い中でも解けることないし止むこともない。本当に不可思議なんだ。触れば当然冷たいし、だけど、太陽の下でも絶対に溶けない。俺たちが触って少しだけ萎む程度だ。つまるところ、この雪は冬の物よりも断然溶けにくい、厄介なものなんだ」
「ああ、それは見れば分かる。……で?」
「つまり、この雪はあらゆるものを覆いつくし始めているってことだ。この町の全てを。いっそ、雪が狙ってこの町を消そうとしているのではないかと思うほど」
「でも、この雪だって溶けないわけじゃないんだろう」
俺はベンチに積もった雪を手に取り、毅に当ててやる。音を立てて滑り落ちたそれは、確かに人の熱で消えかけている。やがては液体になって、空に昇っていくはずのそれは、まあ、確かに上から覆いつくしていく雪のせいでその道を辿ることはなさそうだ。
「確かに溶けないわけじゃない。けど、それを上回るスピードで雪が降り続けている。たまに止んだかと思うと、大雪になる。……一番初めに大打撃を受けたのは農家だ。季節外れすぎる雪に野菜が育たない。それどころか、畑を覆いつくした雪は、もうかきだすのも一苦労なくらいに地面を埋め尽くしているんだ。この土地はまだましな方ってわけ」
「つまり、作物が収穫できないと?」
「そう。他県から流通している品も、どうやらこの町を雪が隔てて滞りを起こしているらしい。じきに観光だなんだと言えなくなるさ。まだメディアで報道されていないが、この町は完全に雪に殺されかかっている。あらゆるものが埋め尽くされ、他所から隔離されつつある。孤立した町は、どうなるんだろうな」
「この町はじきに死ぬかもしれないって言いたいのか」
「ああ。地元密着型と謳うアイシングは特に打撃を受けるだろう。何せアイシングは地元以外から物資の調達をすることが少ないんだからな。取引先の俺もこんなに頭を悩ましている」
「そんなの」
千夏は一言も言わなかった。
いや、言うわけない。あのプライドの塊が、俺にそんなことを伝えて何になる。結局、耐えきれなくなって漏らした言葉があのカフェでの呟きだ。俺にはもう、何の関係もないじゃないか。アイシングが潰れるかもしれないと知っても。
だけど、その事実は予想外にショックだった。
両親が興した会社が、雪によってもろく崩れていく。それどころか、ずっと離れる事のなかった町すら、いつかは消えてしまうかもしれない。
「ま、そんなのは分からないけどな。ただ、ちょっとヤバい状況ってだけ」
毅は明るく取り繕うと、真ん中に座っているであろう美咲の肩を抱いて、俺は視界に入っていないとでも言うように寄り添った。今でも見えない美咲の姿は、毅にははっきり見えているのだろうか。美咲は、このことについて、何を言っているのだろうか。
それは、俺のあずかり知らぬところだ。
そんな時だった。
唐突に雪が止むと、空は真っ白な雲を急速に開いていき、零れんばかりの笑顔を浮かべた太陽を見せる。急な日射しに俺たちは目を細め、そして、いつの間にか隣に立っていた人間に、おかしさがこみ上げてきた。
「どうだ。俺は、変わっただろう」
「少しだけ、ね。まだまだ、及第点はあげられないけど」
「手厳しいな」
「いいんじゃない。人はそう簡単に変われるものじゃないよ。そうだったら、私びっくりして雪の上でごろごろしちゃう」
「いつもしてるくせに」
「よく分かってらっしゃる」
久しぶりに見る奈緒は、やっぱり変わらなかった。太陽のように眩しくて、俺は僅かに目を細める。無機質だった心はようやく正常を取り戻しつつある。奈緒を見て嬉しいと心臓が激しく揺れているのが何よりの証拠だ。
そして、隣で驚いたように立ち上がったのはもちろん毅だ。
彼は驚きの声をあげながら、どうもどうも、と取引先の相手に接するようにぺこぺこ頭を下げた。その姿に俺も苦笑するしかない。
「初めまして、剣崎毅です。澪の幼馴染で、まあ彼のことならそれなりに知っています」
「初めまして。私は奈緒です。……私は、貴方のこと、いっぱい知ってるよ」
奈緒は小躍りしてしまいそうな口調でそう言うと、そのままベンチから離れてくるくるとスキップしだした。相変わらずの自由奔放な姿に、俺はどうしようもなく笑みが漏れる。ああ、奈緒はこうでなくては。隣でハトが豆鉄砲をくらった顔をしている毅はやがて美咲に助けを求めるように手を彷徨わせた。まあ、無理もないだろう。何事にも興味がなかった俺でさえ、奈緒には振り回されている。今やこうして心臓を撃ち抜かれてすらいる。あの自由っぷりと明るいミステリアスは誰もかれも翻弄されるのだ。
「毅くんは美咲さんが好きなんでしょ?ねえ、恋ってどんなもの?」
唐突に、奈緒は問いかける。その横顔は、正真正銘、心底分からないと言った様子だった。無邪気な疑問は、生まれてこの方、恋をしなかったという時期の方が少ない毅でも唸らせた。
「恋ね、ううん。難しいな」
「恋をする事しか考えていなかった貴方が難しいなんて。私には想像もつかないことなのかな」
「……ていうか、何で俺の事どころか、美咲の事まで知っているんだ?澪が話したのか?」
「いや、何も話してない。けど、奈緒は全部知っているんだ。……何でも」
至極真っ当な疑問だった。俺だって何度そのことを考えたか知れない。けれど、もはやそうやって問いかけることは無駄に思えた。奈緒はきっと聞いたって答えないのだろう。ずっと見ていたよ。ただ、それだけを口にするんだ。
ずっと。
見ていたよ。
俺はその言葉を噛み締める。広大な白の絨毯の上で、舞踏会のようにくるくると優雅に踊る彼女は、俺の好きな人だ。
でも、俺が好きになる前に、奈緒は、ずっと俺の事を見ていたらしい。俺には彼女の記憶なんて、一かけらもないというのに。
「ねえ、今日はかまくらを作ろう。どっちが大きく作れるか、勝負ね」
「勝負なら普通雪だるまじゃないのか。かまくらで勝負って」
そう言いつつも、俺はさっさと地面の雪をかき集めはじめ、やる気を見せた。その姿に奈緒もにんまりと笑って、ノリノリで雪に触れた。さて、どちらが大きく作れるだろう。
「毅さんと美咲さんは審判ね!どっちが大きく作れるか、ちゃんと見てて!」
「あ、ああ。了解。頑張れよ」
毅はベンチに座って、少しだけ嬉しそうな、だけど、驚いたように頬をひきつらせて頷いた。彼女の順応性の高さに驚いたんだろう。
奈緒には、美咲は見えているのかもしれない。そうでないのかもしれない。俺はそのシュレディンガーの猫の正体を、知りたくもあったけれど、結局怖くて聞けないから何もしなかった。俺に答えが必要なのは、奈緒の気持ちだけ。美咲はそこにいる。それで、それだけでいいじゃないか。
そうして俺たち二人は日が暮れるまでかまくら作りに熱中した。触れるものは冷たくても、湿気を含んだ日本の夏は相変わらず酷く暑くて、俺たちの身体から水分をどんどんと奪っていった。それでも夢中で作り続けて、たまに毅からの差し入れに水を貰って、ひたすら雪を叩いた。奈緒は途中、雪合戦をしたそうに俺に雪玉を投げてきたけれど、俺は全て無視して目の前の歪な作品に全力を注いだ。その先に見えるのは、奈緒とかまくらの中で過ごす、わずかな幸せという未来だ。そんな妄想で俺は集中力をつけるのだから、恋というのはなかなか面白い。以前の俺なら、絶対に考えられなかった。千夏のために作っていたら、早々に音を上げて今頃監禁部屋だろう。
「で、出来た~~!」
と、どちらからともなくそんな言葉が飛び出した頃、毅はうつらうつらと船を漕いでいて、審判の仕事を放棄していた。公園内に作られた大きなかまくら二つを二人で眺め、いたずらっ子のように歯を見せて笑うと、毅を起こしにかかった。ベンチにもたれてすうすうと規則正しく呼吸する彼は、この暑い中でも寝られる根性に大きなものを感じる。ゆすってもなかなか目を覚まさないので奈緒が頭にチョップをくらわせたり、雪を上からかぶせたり、大袈裟な起こし方を披露する。けれど、毅は一向に目を覚まさなかった。腕を掴んで引っ張ると、炎天下の中でずっと座っていたにもかかわらず、体温は冷たくて俺は咄嗟に手を引いた。驚いた俺はどうして、と声を漏らすけれど、呼吸をしているっていうことは死んでいない。……ならばなぜ、こんなにも冷たいんだ。
「美咲さんが、彼を守っている。いつも、いつも」
奈緒は審判が見ていないのをいい事に俺の作ったかまくらを壊し始めて、歪な形に仕上げていた。俺の渾身の力作は、愛する女性によって無残に壊された。奈緒より大きなものを作っていたのは一目瞭然だったから、悔しさあまってそんな行動に出たのだろう。
それよりも、だ。
「美咲、が?」
奈緒の背中は小さくて、細い。触れると簡単に溶けてしまいそうなその背中は、雪よりも柔いように思えた。
その背中は、俺に頷くと、美咲さんだよ、と言う。
「彼女は、ずっと毅さんを愛してる。いいなあ。恋って、そんなに素敵なことなのかな。誰かに想ってもらって、想う気持ち、とっても羨ましいなあ」
「少なくとも、俺はもう、奈緒を想っているよ」
さらりとそんなことを言うと、奈緒は少しだけ首を俺に向けてニヤリと笑った。それが照れ隠しに見えたのは気のせいだろうか。それよりも、俺の顔が熱いのはきっと気温だけではないはずだ。
この暑さの中で寝入っていても、身体を壊さないようにと見守って行動している美咲に俺はたまらず感心する。あいつなら、やっていても可笑しくない。控えめだけど、しっかりとした意思を持っている子だったから。
「さて、奈緒がずるしたから俺の勝ちだな」
「え、何のこと?」
「とぼけるなよ!俺の渾身のかまくらはこんなに無残な姿になって。誰のせいだ」
俺は奈緒の手を取って、壊されたかまくらをわざと踏み鳴らすと、右隣にそびえた彼女お手製のかまくらに身を寄せた。この暑さの中で熱をためこむはずのかまくらは、夏のせいでひんやりとしていて居心地がいい。二人で膝を抱えて肩を並べていると、どうしようもなく笑いが漏れる。何も可笑しくないのに、お互い声を押し殺して笑い、中で寝そべる。好きな人との時間は、何をしていても楽しい。
そんな当たり前のことを、俺は知らなかった。教えてくれた奈緒は、いつまでも朗らかに笑顔を絶やさなかった。まさしく、俺の太陽だった。
「何だか、今までの俺は間違っていたような気さえしてくる」
「俺はね、千夏も澪も大切なんだ。どっちにも幸せになってほしい」
「おかげで、澪が苦しがっていても千夏が幸せなら、と目をそらしてしまった。いつか、愛してくれる人が居る幸せに気付けて澪が苦しみから解放されると信じていたんだ」
「でも、そんなのは俺の逃げでしかなかった。本当なら、美咲が死んだあの日、自分の幸せだけに浸らずに、千夏と澪にも気をかけてやらなきゃならなかったんだ。二人が、幸せに過ごせる未来を作るために」
「なあ美咲。見ろよ。あの澪の顔。あんな顔、俺にだってもう何年も見せてくれていない。俺は、どれだけあいつを苦しめていたのか、分かったよ」
突然の出来事だった。かまくらでわいわいと二人で過ごしていると、熱に溶かされたようにかまくらは崩れ始め、やがて俺たちを小さな雪崩が襲う。全身雪まみれになった俺たちは唖然とすると、ベンチに座る毅が視界に入った。一体いつ起きたのか分からないけれど、毅は苦しそうに唇を噛み締めて、俺たちを見つめていた。
片手を上げて合図すると、毅ももちろん返してくれる。だけど、その目は虚ろで、懺悔をしているようだった。
生暖かい風が俺の頬を撫でると、何処からか声が聞こえる。
――今度は、澪くんの番だよ。
いつか、聞いたことのある声は、一体誰のものか分からない。けど、ベンチで頷く毅を見ると、その答えも分かった気がして俺は立ち上がった。奈緒はいつの間にか雪から這い上がって、公園を出て行った。手を振ってまたね、なんて言う姿に、追いかけたい衝動を抑え込んだ俺は、毅と帰ることにした。




