14 過去
スペクトロフィリア、という言葉を知っているだろうか。
あるいは、ネクロフィリア、なんて言葉であれば、漫画をよく読んでいる人には分かるかもしれない。いわゆる屍体に性的な好意を持つという、特殊な嗜好を指す。恐らく近年のドラマや漫画など、あるジャンルの作品で扱われることもあっただろう。おかげで知っている人もちらほら、いるかもしれない。
では、スペクトロフィリアとは何か。
ネクロフィリアの類義語で、つまり、性的倒錯の一種。
意味は、霊魂、精霊、亡霊に性愛を抱く精神疾患。
まさか、そんなことあるわけないだろう。実在しない、不確定な存在に恋愛感情、あるいは性的好意を抱くなんて。
そう、思うかもしれない。だけど、俺は幼い頃からそのスペクトロフィリアに罹った人と成長してきている。おかげで、真っ向から否定は出来ない。人の趣味嗜好は十人十色で、だからこそ、面白い。そんな中で、ちょっと変わった嗜好を持つ人間がいたとして、何が可笑しいのだろう。
つまり、俺の幼馴染である剣崎毅は、スペクトロフィリアに罹っていた。
剣崎毅という男と出会ったのは、そもそもいつだったのか。思い返してみれば、それは二十年ほど前になる。俺たちがまだ幼稚園に通い始めた頃だった。誰もがみんな、大人に甘えてこれから先の将来なんて全く考えていない、希望に満ち溢れてすらいなかった時期だ。
俺はその時すでに千夏と出会いを果たしており、今や考えられない逆転した立場で幼稚園内を笑顔で闊歩していた。母が俺と千夏を迎えるために幼稚園にやって来ては、釘原の運転で屋敷へと帰る日常の中に、毅は驚くほど、すんなりと入って来た。
俺の両親は今や雲の上の人間となり、俺自身もぼろ雑巾のように千夏に扱われ、心を失くすに至っていたが、昔は俺が社長の息子だった。俺の家族がアイシングという地元で有名なスーパーを展開させ、俺はその社長の跡継ぎ。そして、その屋敷の使用人の夫婦の娘が千夏だった。
歳が一緒であれば、必然と仲も良くなるもので、俺たちは本当に一日中離れず、ずっと一緒に居た。俺の両親も息子に良い遊び相手がいる事に安心して、千夏も娘同然に可愛がっていた。
そんな俺たちがようやく幼稚園というものに慣れ、先生の名前もクラスメイトの名前も覚え、落ち着いてきた頃。アイシングの新たな大手取引先の息子が、俺たちの目の前に現れた。歳も一緒で、住んでいる地域もそう遠くない。これはなんという偶然、仕事も子供もよろしく頼むよとまとめて俺たちのクラスに放り込まれたのが、その毅だったのだ。
「はじめまして、おれはみお。こっちはちか」
「はじめまして、つよしくん。なかよくしましょうね」
俺は未だに毅と初めて話した時のことを忘れられない。こちらから自己紹介をして、両親たちの計らいとはいえ、仲間が増えたことに嬉しくて。だからこそ、進んで話しかけたというのに。幼稚園の教室で、皆が外に遊びに行っていた時、毅だけがぽつんと座って絵を描いていた。俺たちは毅の返事を聞かずに続けざまに質問したのだ。
なにかいてるの?って。
毅は、こう答えた。
「しんだひと。おれのすきなひと」
幼稚園児ながらに空気がひやりとして、千夏と首を傾げ合ったのは懐かしい。
その後、何だかんだと三人で行動するようになったけれど、それでも、毅がたまに変な方向を見て突飛な事を言い出すのには全く慣れることが出来なくて、俺が彼のスペクトロフィリアについて理解することが出来たのは中学に上がった時だった。
「結局、お前はあの時誰を描いていたんだ?」
「あれ、言ってなかったっけ。こっちに越してくる前に、俺とよく遊んでくれてた近所のお姉さん。幼稚園に来る前に、病気で死んじゃってさ。それからだよ、好きになったのは。初恋ってやつ。ああ、美咲が寝てて良かった」
がむしゃらに恋して生きる毅は、幼い頃に初恋を済ませてしまったらしい。これだけ一緒に居たのに初耳だ。飲み干したグラスを脇に置くと、俺は立ち上がって冷蔵庫の中をあさることにした。俺は味覚がないからどうしようもないけど、毅はつまみを食べたい頃だろう。枝豆を見つけた俺は、ほろ酔いの毅に差し出してやる。
「お、ありがと」
笑顔でお礼を言ってくる毅はちょっと眩しい。この男は、あれだけの苦労を重ねながら幸せを手にして、のらりくらりと過ごしている。今の俺には、それが酷く羨ましかった。
毅が死んだ人しか愛せない、ということを明確に理解するのは難しかった。何せ、彼はいつも誰かしらに恋をしていて、それが俺たちには分からない人で、もしかして遠くの人と遠距離恋愛をしているのかなと思わせられるほど、毎日が幸せそうだったのだ。今日はあの人と久々に会えるんだ、今日は何処をデートするんだ、今日はあの人の記念日だうんぬん。聞いていれば、ちょっと恋多き普通の男にしか見えない。実際、彼は精神を病んでいるわけでもないし、おおらかで思いやりもあって、むしろ俺たちよりよほど人にモテるような性格だった。どこにそんな変わった嗜好を持っていると思えるだろう。
毅の事を、分かっていたようで分かっていなかった俺と千夏は、そのまま中学生になってもよくつるんだ。そうして、毅がスペクトロフィリアだと暴露したのは、中学生にあがって、一人の女の子がグループに入って来たからだ。
安藤美咲。それが、俺たち三人の運命を決定的に変えてしまう女の子の名前だった。同時に、俺たち四人という幼馴染が、こうして大人になっても何かしら連絡を取るという繋がりが出来る始まりだった。
中学一年は、俺と毅、千夏は同じクラスになり、ともすれば何があっても一緒に居ることが多かった。そして、千夏はそのわがままな性格が災いして、昔からどうしても友達が出来なかった。俺たち男が二人も周りでうろうろしているのも影響していたのだろう。中学に上がってからもそれは変わらず、千夏は俺たち以外とつるむことはなかった。
しかし、だ。
そんなわがままで、今よりはましなものの、女子から毛嫌いされる面倒な女子に友達が出来た。
それが、美咲だったのだ。
どういう思惑があったのか、それとも本当になかったのかは謎だが、美咲は千夏とよく行動し、とにかく気が合った。穏やかでタオルよりもある柔軟性は、千夏のピースとぴったりはまったらしい。気づけば千夏と美咲、俺と毅、そうして四人、といった具合で行動していた。
四人でテスト勉強をしたり、映画を観に行ったり、何もない河原でひたすら語りつくしたり。俺が社長の息子で、使用人の娘の千夏、取引先の息子の毅、一般人の美咲。そんな肩書きは捨てて、とにかく遊びつくした。思えば、あの頃が一番楽しかった。
そんな中で、おませな毅はしばらく彼女が居ない時期があった。どうやら片思い中らしいと俺と千夏はいつもの事だと様子を伺っていると、美咲が動いたのである。
「私、毅くんが好き。誰よりも、好き。私と、付き合って」
普段、自分の感情を抑え込んですらいるのではないかと思うほど、自分の意見を言わない美咲が、まさかの告白だった。蒸し暑い夏休み前、四人で給食を囲んでいた穏やかな昼の時だ。
俺たちは、毅が遠距離恋愛を好み、そして片思い中だと思い込んでいたから、美咲の告白を聞いて顔を青くした。これはとんでもないことになるぞ。これから美咲は傷ついてしまう。まだまだまともに他人を思いやれる余裕があった俺と、美咲だけには激甘な千夏はその場で食べる手を止めておどおどし始めた。丁度くそ暑い中だというのにカレーを出されてぶつぶつ文句を言いながら食べていた矢先だったのだ。
「美咲、今は……」
千夏が助けを出そうと口火を切った瞬間だった。毅から、衝撃の言葉が出てきたのは。
「ごめん。俺、好きな人が居るんだ。楊貴妃っていう人。知ってるだろ?」
楊貴妃。あれ、その人って世界三大美女の一人ではなかったか。歴史の参考になると思って買った世界史の漫画に出てきた気がする。あれ、同姓同名?もしかして今の片思いの人って、中国人?どこでそんな人と知り合ったんだ?
俺はそんな疑問を頭の中でソフトクリームのようにぐるぐるとさせた。千夏と美咲は呆然とし、毅はため息をつく。恋する男の魅惑的なため息だった。
「これがさ、なかなか楊貴妃が見つからなくて。見えないんだよな。……一目惚れ、なんだけどな」
わあ、中学生とは思えないほど恋に恋してる人が居る。俺が白目を向きそうになり、さてソフトクリームという思考回路が溶けだした頃、千夏がいち早く復活した。
「え、と。楊貴妃って、中国の人?何処で知り合ったの?」
もはや美咲の傷をえぐるかもしれないという気遣いをつけられずに、千夏は単刀直入だった。美咲も顔面蒼白で頷く。意外すぎる答えは、これまた意外な方向へと飛んでいく。
「本だけど?聞いたことあるだろ?三大美女の一人で、玄宗皇帝っていう人に寵愛された人」
それ歴史人物、では。というツッコミはこの場の三人が揃えてしてしまっただろう。ショックで動けない美咲は手をぷるぷると震わせ、俺と千夏が動くしかなかった。というか、自分の頭の中を整理したかった。いまいち、話が分かっていない。
「楊貴妃って、もう死んでるだろ?冗談ならよせよ、美咲の事を考えてくれ」
「は?全然、冗談じゃないけど。……むしろ、みんな気づいてないのか?千夏と澪ならもう知ってるかと思ってた。俺、普通に恋人の話とかするし」
「……何のこと?毅は確かにいつも恋愛してるけど。おませだし。……でも、それって遠距離恋愛よね?」
「遠距離……?ううん、というより、種族の違う恋愛ってやつ?越えられない壁がある。そして燃える」
ますます意味が分からない。美咲は暑さのせいなのか、それともショックが強すぎるのか、頭を抱え始めた。自分の好きな人が、他に好きな人が居るどころではなく、変な人の可能性があった。そんな心中が見える。
「ごめん。よく分からない。……ちゃんと説明してくれるか?俺たち、勘違いしているのかも」
俺が顔を引きつらせて、千夏の視線に頷きつつ毅の言葉を待つ。そうして、俺たちの長年の絆を少しだけ違う色に塗り替えるような、衝撃の事実が明かされた。
「俺、死んだ人しか愛せないんだ。今まで付き合ってきた人たちも、皆死んでる」
なるほど、これは美咲のように頭を抱えるしかないな、と思った。まさか幼馴染が電波だったなんて、思わなかったのだ。どういうことだ。
俺はしばらく黙り込んでしまい、少々この場の状況を整理するのに時間をかけた。千夏も同じく黙り込んでいて、僅かに重苦しい空気が漂う。毅はその場の空気に気付かず、ただ一人だけカレーをむしゃむしゃと食べているし、美咲も頭を抱えたままだ。どう動けばいいのか分からなかった。
「毅くんは。……それで、平気なの?」
やがて耐えられないといった様子で切り出したのは、美咲だった。一番傷が深い彼女は、目に涙を薄らと浮かべていて、これ以上の刺激を与えてやりたくなかった。千夏が隣で美咲の肩をそっと抱いていた。
「平気、とかよく分からないな。死んだ人しか愛せないのは、もう物心ついてからだし、慣れちゃってるし。他の人と違う嗜好をしているのも、分かってる。でも、それで何か特別嫌な思いをしたことはないな。だってしょうがないだろう。俺には死者が見えて、その人たちに惚れてしまうんだから。それに、相手が誰であろうと、恋を追っている時間と、叶っている時間の幸せは何物にも代えがたいよ」
至福の表情を浮かべる毅の向かい側でついに美咲が崩れ落ちた。涙がとめどなく溢れはじめ、やがてはカレーに大雨を降らす。同時に千夏が鋭い目つきで毅を睨んだ。俺まで震えあがってしまうほどのその眼光に、さすがの毅もたじろいだらしい。思えば、暴君の形はここで頭角を現し始めていたのだ。
「サイッテー」
恨みがましく言われたその一言に、毅も苦笑してごめん、と呟いた。
「別に美咲を傷つけたかったわけじゃないんだ。でも、理解してほしいとは思ってる。だって、俺たちは仲の良い友達だろ?俺が少しもまともな人間じゃなくて、いつも死者相手に喜んだり楽しんだり、恋してるってことを知っていてほしい。勿論、千夏と澪にも」
「毅くんは、幸せなのね」
「とっても。毎日が楽しいよ」
美咲は涙を乱暴に拭うと、そっか、と笑顔で立ち上がる。そして、すたすたと教室の扉を開けて出て行こうとした。千夏が焦って叫ぶけど、美咲はそれでも立ちどまる気配を見せない。
「大丈夫、ちょっとトイレに行くだけ。……毅くん。死んだ人なら、いいんだね」
「……ああ。そうだよ。ごめんな」
ただそのやり取りだけを残して、美咲はその日、教室に帰ってこなかった。
俺は俺で、どうしたらいいのか分からなくて、結局その日は給食を残してしまった。美咲を可愛がりすぎて我が子のように振舞う千夏はしばらく毅と口をきかず、だからこそ、四人の初めての壁は予想以上に大きかった。俺たちは一度ここで、ちょっとした仲たがいを起こしていたのだ。
「俺がこんな嗜好で、引くか?」
千夏も美咲も話しかけてこなくなって一週間、三人の間を行ったり来たりして中立の立場をとる俺に、毅はこう問いかけた。
いつも明るくて、何ものにも恐れず、無鉄砲とすら思える彼にしては珍しく不安げで、それこそ遠距離恋愛をしていると思っていたころ、必ず叶えて見せるさと自信満々に言っていた表情とは月とすっぽんの差だった。ははあ、毅にとって俺たち三人は、代えがたい友人なんだ。なるほどね。そんなことを心中で察した俺は首を横に振って全力で否定した。今更だ。
「そんなに引いてないよ。毅は毅だろ。恋愛ごとにいつも無我夢中で、その対象がちょっと変わってるだけじゃんか」
「そっか……そ、っか……。なんだか、嬉しいものだな。俺、ことあるごとに変な方を向いたりして他の人には気味悪がられることもあるんだ。死者が見えたり、死者しか愛せない嗜好を持っていたりなんてこと、なかなか認めてもらえないからさ」
「俺たちは幼稚園から一緒だからな。慣れたもんだ。そんなに気にすることはない。まあ、死者が見えるとかは信じるのに時間かかるけど」
「いいよ、それで。俺のこれはな、スペクトロフィリアっていう精神疾患らしい。でも、俺は全然病んじゃいないんだ。だからこそ、他の人には理解されにくい」
「スペクトロフィリア。へえ……。なあ、毅。大丈夫だからさ。そのうち、千夏も美咲も納得して受け入れてくれる。だから、そんなに泣きそうな顔をするなよ」
俺がそうやって毅の肩をぽん、と叩いて励ますと、ようやく彼は笑顔で頷いた。どうしようもない趣味嗜好を持っていて、それを周囲が認めてくれない恐怖というのは、俺にはとても想像がつかないものなのだろう。でも、それの何がいけない。それで友人という関係が壊れるなんてくだらないじゃないか。何せ俺たちが数年間培ってきた絆は嘘じゃないんだから。
そう、俺と千夏だって、何か思惑の上で一緒に居るとしても。今までの時間は、全て真実なのだから。




