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11 理由

 ザクザクと音を立てて雪を踏みしめ、俺はひとまず、いつもの公園に向かうことにした。遠くの方で三時の鐘が鳴り、町全体を包み込む。まだまだ日射しの強い中、雪の中をブーツと日傘で歩くというちぐはぐな格好をした主婦たちが迷惑そうに太陽を睨んで歩いていく。

 俺は肩に雪が積もるのも気にせず、ただひたすら、公園を目指して歩いた。近いはずのその場所は、急いでいるせいかやけに遠く感じて、噴水広場で記者が何やら騒いでいるのを横目にいつの間にか駆け出していた。

 日常生活で体力を無駄にしないためにほとんど動かないせいで、雪に足を取られて、すぐに息切れを起こした。雪の中で身体を動かすって大変なんだ。しかもこの暑い中なら尚更。流れる汗が鬱陶しくて、乱暴に腕で拭った。

 そうして逸る気持ちを抑えきれずに、肺が限界だと悲鳴をあげて間もなくの頃、ようやくあの公園に辿り着いた。

 久しぶりの公園は、それでも優しく俺を迎えてくれた。誰も寄り付かない無人の公園。俺の秘密の場所。

 そして、奈緒との思い出が詰まった場所でもある。

 奈緒のせいで多くの雪を落とした太い木は、また新たに枝に白い衣をつけていた。そして、その下のベンチで一人、積もった雪をびゅんびゅん飛ばして座る女性が一人。あんなことをする人間、俺の知り合いで一人しかいない。

「奈緒」

 俺が、すがるように呼んで近づくと、彼女はおっかなびっくりといった様子で動かしていた手を止めた。最後に振り払った雪が俺に体当たりをしてきたけど、それどころではなかった。

 なんだか、ホッとした。太陽から加えられる熱とは別に、もっと違うところで身体が熱くなっていく。奈緒が目の前にいる。あの夜、怯えて逃げた彼女の姿が上書きされる。もう会えないと思った。会わないと決めていたから。でも、結局それも間違いだった。

「驚いた。まさか本当に来るなんて」

「どういうことだ?」

「なんでもなーい。それよりも、もう大丈夫なの?家の事、大変なんでしょう?あの女の人とか」

「大丈夫じゃないようで大丈夫」

「何それ。意味わかんない」

 そうは言いつつも、奈緒は笑みを漏らして雪に埋もれたベンチをぽんぽんと叩いた。隣に座れってか。嬉しい誘いだけどせめて雪を払ってくれ。

「昔から俺を見ている人達が、ちょっとだけ助けてくれたから」

「ふうん。あ、雪は払っちゃだめだよ。今ね、人の体温でこの雪はどれだけ耐えられるのか実験してるんだから」

 ふと見ると、奈緒の尻の下に溶けかけの雪が広がっていた。また無謀な遊びを。俺は苦笑して、それでも奈緒の隣に座った。もちろん、雪を払わずに。こんな突拍子もない可笑しな考えが、何処か懐かしくて、楽しかった。これこそ、奈緒だった。

「なあ、こないだ」

「……うん?」

「ごめんな。突然、キスして」

「そんなの、気にすることないのに。私こそ、なんだか変な態度だったでしょ。ごめんね」

「いいよ、もう。気にしてない」

「そっか。……なんか、君、変わった?」

 ひんやりとしすぎて、じんじんと痛み始めた尻を少しだけさすった俺は、奈緒を見つめた。変わった。そうだろうか。だったらそれは、奈緒のおかげだ。

 俺は、奈緒のおかげで、彼女の最初の宣言通り、変われた。

「俺さ。ちょっと、色々考えたんだ」

「ほう。何を」

「それこそ、色々。ま、奈緒の事ばっかりだけど」

「いきなりどうしたの?頭でも打った?」

「それならそれで良かったかもな。でも、違うんだ。……その、さ。キスした理由とか、諸々」

 ようやく分かった。四日だ。外出せずに、この隣で無邪気に遊んでいる奈緒と会わないと決めて、延々と切り離そうとした。だけどそれは叶わず、むしろやめようと思えば思うほど、奈緒で思考回路がいっぱいになる。奈緒に会えた瞬間、心の底から嬉しいと思えた。こんなの、久しぶりだ。俺はこいつと一緒に居たい。なあ、それって答えは一つだ。毅と美咲が追いかけてやまない、千夏が偽って掲げる、それしかない。

 これが、恋、なんだ。

「キスしただろ、お前に」

「うん」

「その意味、分かった。ようやく。……俺、奈緒の事が好きだ」

 多分、時が止まったということは、こういう事なんだろう。俺がその言葉を発してから、数秒しか経っていないはずなのに、世界は沈黙に包まれて、奈緒と俺しかいない錯覚に陥った。絶えず頭上から降ってくる雪も、煌めく太陽の光さえも、俺たちを目の前にして、おっかなびっくり、様子を伺っているように止まった。そんな気がした。奈緒が口を開くまで、とてつもなく長い。本当に、俺たちは時間に取り残されたんじゃないか、そう感じるほどに。

「……奈緒?」

 結局、耐えきれなかった俺が先に口を開いた。奈緒は表情を変えずに、俺をひたすら見つめていた。その顔には、いつもの笑顔も、楽しそうな子供の様子も、無邪気さも、何もない。真剣だからこそ、何を考えているか読み取れなかった。

 やがて奈緒が口を開いたのは、俺が沈黙の中で貧乏ゆすりを始めて、五分ほど経ってからだった。おしゃべりな奈緒にしては、随分と長い静寂だった。

「私さ」

「うん」

「恋って、分からないって言ったよね」

「だな」

「君の雇い主である千夏さんの気持ちも、君の幼馴染である二人の気持ちも、正直理解できなくて」

「いや、あの三人は理解できなくて当然だ。常識からかなり逸脱してる」

「でも、だよ。私、普通の人の恋愛ですら分からないの。今までいろいろなものを見てきた。楽しい、苦しい、面白い、切ない。可笑しいよね。これだけの感情を感じているのに、どうしても恋だけは分からない」

 どうして奈緒は、俺の幼馴染三人の事を知っているのか、という質問は呑み込んだ。以前からの疑問であるし、今聞いたってその答えに俺は満足できないだろう。俺が今欲しいのは、奈緒の俺に対する気持ちと言葉なのだから。

 しかし、この口ぶりだとかなり線は悪そうだ。そうだ。なぜ思い至らなかったのだろう。奈緒は、言っていたじゃないか。恋が分からないと。

 そして、俺も分からない一人だった。偽りの、恋人という形だけのものを肩書に生きていたくせに、その意味を知らなかったのだから。恋の道は新人には険しい。

「私ね、真っ白な雪が好き。しんしんと降り積もって、皆を楽しい気分にさせる雪が大好き。ついでに雪みたいに真っ白なケーキも大好き」

「そうか」

「それにね、もちろん澪くんの事も好きだよ?面白くて、見てて飽きない」

「そ、うか……」

 俺は顔を俯かせて、頬が火照るのを隠した。尻から這い上がってくる雪の冷たさがむしろ心地よく思えるほどに全身が熱くなっていく。なんだ、これ。俺は、どうなってしまったのだろう。

「でもね、それは雪やケーキと同じ好きなの。面白いから、甘いから、楽しいから。そういう、好き。ねえ、どうして好きの形は違うの?雪やケーキと君への好きが違うなんて、考えられないよ」

 上げて突き落とす。例えば、山頂に必死に登って、絶景を眺めた後、後ろから突き落とされて崖から真っ逆さま。そんなイメージが俺の中で一巡りした。

 何も言葉が出てこない。だけど、奈緒は調子を取り戻したように、やっぱりよく喋った。

「それと、もう一つ。私ね、澪くんの事、好きだけど、嫌いだよ」

「ちょっとそろそろ俺の心をえぐるの、やめてくれないか……」

 崖の下は地獄だったようだ。俺はもはや、ベンチとキスできそうなほどに頭を抱えて、項垂れた。遠慮のない物言いの奈緒は、本当に馬鹿正直に言葉を放つ。それが時に鋭利なものとして誰かを傷つけると知らずに。

「私の言葉で、君が反応するってことは、少しでも心が芽生えた事ってことだよね。それは良かった」

「俺は良くない」

「でも、まだ足りないな」

 相変わらず人の話を聞かずに強引に話を続ける奴だった。自分で言っておいてなんだけど、どうしてこんな人に恋とかなんだとか言ってしまったのか。ちょっと恥ずかしい。

「君はね、やっぱり違うの」

「……何が?」

「綺麗に身だしなみを整えて、そうは思っていないのに嘘ばっかり並べて、女の人の言いなりになって。君は、上辺だけが輝く中身のない、ちぐはぐな人。面白いけど、同時に見る人を呆れさせる人」

「それは」

 しょうがないじゃないか、と言いかけて俺は黙った。言われた通りだ。俺は、もう七年も自分が自分ではない、千夏の人形として生きている気がしているから。この真っ白なワイシャツも、ピカピカのローファーも、俺の趣味じゃない。かもしれない。今すぐここで自己PRをしろと言われたら、俺はこう言うだろう。東雲千夏の彼氏です。以上。

「私は、そんな君が嫌い。本当の自分を見せない、君が嫌い。……ごめんね?」

「謝るなよ。……なんか、俺が惨めだ」

 間違っていないからこそ、俺は項垂れる。膝にぽつぽつと積もっていた雪を手に取り、はむ、と音を立てずに口にやった。隣でくすくす笑う心地よい声が聞こえたけど、それどころじゃない。俺の口内で広がる冷たい塊は、やっぱり味が分からなくて。

「やっぱり、君は面白い。……味は、どう?」

「分からないよ。……分かるわけ、ないよ」

 千夏との関係を、すっぱり切られたら、雪の味も、奈緒への気持ちも、決着がつくのだろうか。俺という一個人が、昔のように取り戻せたら、俺は奈緒に少しでも気持ちを受け取ってもらえるだろうか。

「俺、頑張るよ」

「千夏さんとの関係を?」

「そうだな。……変えられるなら。昔みたいに、戻れるなら。俺は、戻したい」

 俺と千夏、毅と美咲。仲良く笑って過ごせていた、まだこんな未来があると思っていなかった純粋なあの頃のように。戻れるなら、戻りたい。そして、俺を取り戻して、奈緒と今一度、恋というものを、二人で体験したい。……そう思うのは、俺の傲慢だろうか。

 しかし、俺は奈緒のためなら、動ける。それを確信している。心が空っぽ。いつしか彼女が言っていた言葉は、過去になりつつあるかもしれない。無気力さにおいては誰もが太鼓判を押す俺が、珍しく自発的に動きたいと考えているのだから。

「そっか。……私、待ってるよ。私はいつだって、君を見ているから」

 奈緒はそう言うと、両手を広げて立ち上がり、全身で雪を受け止めた。どさりと白のじゅうたんに身を投げ出し、楽しそうに肩を揺らす。

「そうだな。待っていてくれ。俺は、きっと」

 変わるよ。

 そう言って、俺も奈緒の隣に並んだ。どこかで俺をゴミのようにしか思っていない女の隣より、ずっと安心出来て、心地よかった。


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