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10 放心

 俺はもう、奈緒と関わらない。少しの反発心を前に、それでも決意した。千夏とこのまま、縛られた操り人形として、歪にも死ぬまで生きるのだと。変わらない毎日に、不安を寄こす存在など、俺には邪魔なだけだ。執事達を率いる使用人たちにだって、今回のように迷惑をかけるかもしれない。毅や美咲は、千夏が悲しめばもちろん同情して、俺を責めるとまではいかないけど、それでも非難の眼差しを向けることは明白だ。だったら、会わないほうが懸命。それが平和の選び方だ。人間というのは、損得で動くものだから。

 俺はそうして、外に出るのをやめた。日中、息苦しさを倍増させる暑さを身に受けることなく、ただ流れゆく雪を見つめながら部屋に引きこもっていた。外に出れば、どうしても奈緒との事を思い出す。奈緒がもしかしたら現れるかもしれない。そして、俺は決意を無駄にして奈緒と再び時間を共にしてしまうかもしれない。俺にはそれが、怖い。

 部屋の中でただ淡々と過ごし、本を読み、執事の淹れる紅茶に味も感じないまま過ごす時間は、淡白で、どうしようもなくつまらなかった。四日も経つころには、気づけば俺の頭は数回しか会っていないというのに、奈緒の事で頭がいっぱいだった。どうして。俺は奈緒の事を忘れたくて、関わりたくなくて、だからこそ外に出ることをやめたというのに。

「澪様、最近お顔がすっかり気落ちしておりますが。……何か、あったのですか?千夏様の仕事中は必ず外に出ていたというのに、この屋敷から一歩も出ませんし」

 いつもの如く、千夏は仕事で、さて昼間は俺の自由時間だが、家に居てはする事もない。ならば千夏の好みの本を熟読して、少しでも彼氏として趣味を理解できるようにと過ごしていたころだった。ああ何て仕事熱心、と自分で褒めてみるものの、ほとんどの内容が頭の中から軽やかに滑り出し、読んでも読んでも何も分からない。登場人物が一人しか思い浮かばない。気づけば主人公が奈緒に変わって、雪の中で踊り出していた頃、ようやく部屋に執事が入って来ていたことに気付いた。

「……なに」

「鏡は見られましたか?酷いお顔ですよ」

 執事は身だしなみチェックをするために持ち歩いている鏡を胸ポケットから取り出すと、俺を映した。見たくもない俺の顔が映って、やめろ、と持っていた本で遮る。

「鏡なんて、毎日見てる。身だしなみは大事だからな」

「しかしそれは上辺だけでしょう。……澪様、ご自分の顔を一度でいいので、ゆっくり見てくださいませ」

「しつこい」

「澪様」

 執事は少しだけ怒った様子で俺に鏡を俺に押し付けた。感情をこうまで表に出して、俺に向けるなんて珍しい。結局根負けした俺は鏡を手に、じい、とたいして面白くもない自分の顔を見つめる。いつもと変わらない、アイロンがけされたシャツに乗せられた頭。俺の、顔。

「……おれ、こんなに疲れた顔してたっけ」

 そこでようやく気付いた。いつも無表情、千夏の前では道化を演じられる俺が、やけに苦しそうに眉を寄せていることを。まさか、この顔を千夏の前でも出していないだろうな。真っ先に不安になった俺を、執事は察して大丈夫ですよ、と声をかけてきた。

「千夏様の前では、いつも通りでございます」

「そうか。……いつの間に」

「気がかりなことがあるのでは。……今の澪様は、苦しそうです」

「……なあ」

 俺は栞を挟まずに本を置いた。千夏のお気に入りの小説は、俺には全く訳が分からなかった。いいや、それよりもだ。

 執事の穏やかな表情に、ますます俺は物申したくなった。アンタ、どうしてそんなことを言うんだ?俺の事、千夏のご機嫌取りの道具としてしか見ていないんじゃないか?どうして、そうも俺の事を気にするんだ。やっぱり、千夏の道具の管理を任されているからなのか?

 思わず呟いた言葉に、執事は泣きそうだった。どうして。俺よりも、アンタが苦しそうなんだ。

「澪様。私の気持ちが伝わらず、大変心苦しいですが、それは私のこれまでの行いが原因でございますね。……ええ、分かっています」

「何のことだ」

「いつからか、貴方様は随分と変わられた。あの頃のように、笑わなくなりました。私は久しく、貴方の笑顔を見ていません。……どうしてでしょうか」

「馬鹿か。俺はいつだって笑ってる。千夏の前で、彼氏として」

「それは作り物でございましょう。私は、貴方の心からの笑顔を見ておりません。……澪様の心は、空っぽになってしまわれた」

「……同じことを言うんだな」

 奈緒にも言われた。心が空っぽなのね、と。そうして、貴方の心を満たしてあげる、とも。ああ、そうか。あいつは確かに俺の心を満たすと言っていた。その結果が、これか。俺はあいつの思惑通り、思考回路が閉ざされるくらいに、本が読めなくなるくらいに、奈緒の事で頭がいっぱいになってしまった。凄いな、はは。

「澪様、感情を失くされた貴方では私の真意は伝わらないでしょう。しかし、私はいつだって貴方を見ておりました」

「千夏のご機嫌取りをしなくちゃならないのだからな」

「そうではございません。……こんな事を言っても、私は信じてもらえないかもしれない。しかし、言わせてください」

 執事は跪き、頭を垂れた。それは物語に出てくるシーンと全く同じで、いつか千夏と幼い頃に読んだ絵本に出てきたものに似ていた。いきなりの事に俺は戸惑い、おい、と声をかける。しかし、執事の口は動き続けた。それが使命であるかのように。

「私は、今も昔も、貴方ただ一人の執事でございます。貴方の安全を確保し、貴方の心を慮って動きたいのです」

「は。そんな事、嘘に決まって」

「そう思うならそれでも構いません。しかし、これだけは絶対に覚えておいてください。私は、いつだって貴方の味方です。あのお方が残した最大の宝を、私は守りたい。……貴方が変わられてしまった事、心の底から悲しい。だからこそ、貴方の今の変化に、嬉しく思い、悲しくも思う。我慢してはなりません。したいようにすればいいのです。私たちの事など、気にしてはいけません」

「何言ってるんだ。俺は、いつだって」

「七年間、我慢してこられたのでしょう。そろそろ、いいではありませんか。今日は、会社の飲み会で千夏様の帰りが遅くなるとのことです。さあ、外へ。好いている方がいらっしゃるのでしょう」

「……どうなってもいいのか。これから、もっとひどい状況が来るかもしれない。千夏の機嫌は、これ以上に悪くなるかもしれないのに」

「知りません。そうなった時は何か考えればよいのです。私は、東雲ではなく、明石家に仕える人間ですよ」

「は、はは……」

 俺は手で顔を押さえて、俯いた。やめろ、よ。いまさら、そんなことをいうなよ。もう、遅いんだよ。 だって、俺も、千夏も、立場が逆転して、もう、元に戻れない。

 でも。

 奈緒に会ってもいいと、誰かに許された。それは、俺の中で一つの勇気に変わる。

 目の前では、幼い頃から俺の傍を離れず、決して退屈させないようにと何かをしては滑っていた執事が、いつまでも俺に忠義を示していた。何だよ、馬鹿じゃないのか。今の会社の持ち主は、東雲だというのに。

「なあ、釘原。…………いや、何でもない。ありがとう」

 俺は深く頭を下げて、部屋の扉に手をかけた。後ろで、釘原が立ち上がる気配がする。

「久しぶりに名前を呼んでくださいましたね。行ってらっしゃいませ、澪様。……お気をつけて」

 俺は手を振って、部屋を出た。雪が止まないうちに奈緒に会いに行こう。かつて、無鉄砲で自由奔放だった、それこそ奈緒のような人間だった会社の息子として。


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