1 夏雪
もし俺が死んだら、心の底から悲しんでくれる人は居るのだろうか。
ふと、そんなことを思いついて立ち止まる。ドラマや漫画では、誰かが死ぬと、必ずと言っていいほど他者が悲しみ、嘆いて、前を向いたり、未来に進めなくなって閉じこもってしまう。愛する人がこの世から居なくなって、自分一人だけになってしまう。そうすると、とてつもない孤独感に苛まれて、深い絶望を味わって、もう、どうにもならなくなる。残された側は、それから周囲の人に支えてもらったり、一人で深い闇底に堕ちていったり。千差万別の違い。十人十色というわけだ。
それなら俺は、残す側として、誰かに深い悲しみを与えられるほどに、誰かに愛されているのだろうか。
後を追うように、身を投げようとしてくれるほどの深い愛情を、俺は今も、受けているだろうか。
じりじりと煩いアスファルトを踏みしめて、輝く青空を眺める。ぼうっと立ち止まって、顔を上げているのは可笑しく見えるのか、通りゆく人は不審な目をして俺を一瞥していく。
俺の頭の中に思い浮かんだ、それなりに関わりのある人を青空のパレットに並べて、首を傾げる。そうすると、俺を心の底から愛して、死んでもなお、愛し続けてくれる人は、女性どころか男性も居ない。
きっと、幼馴染や過去に少しだけ遊んだ友人など、ほんのちょっとだけなら、悲しんでくれる人はいるのかもしれない。それなりの人生を送っていれば、誰かと関わって、情を移し移されるのは日常茶飯事なのだから。でも、それでも。
俺が死んで、葬式に出て、それから何も出来なくなる人は、きっといない。いるはずがない。
そもそも、俺自身、周りの誰が死んでも、そこまで落ち込みはしない自信がある。多少、何か引っかかるものがあるかもしれないけれど、いつの間にかけろりとした顔で外を闊歩しているだろう。何せ、俺はもう昔の俺ではないのだから。
そんな俺が。人に情の薄い存在が。
深く愛してもらえるわけない。
結局そんな自問自答を長ったらしく終えた俺は、立ち止まったままだった足を動かして、汗を拭うことすらせず、近くのコンビニの壁際に寄った。中に入れば夏とは思えないほどの涼しい風が出迎えてくれるだろうけど、俺は人が嫌いだ。こんな俺が中に入ったって、嫌な目で見られるに決まっている。
死にたいわけじゃない。人間の生存本能とやらが、一応働いてしまっていて、だからこそ死には恐怖を与えるし、何が何でも生きなきゃとは思わないけど、それでも自殺行為をすれば生きたい、なんてわずかな心の反抗が生まれる。だから俺は、こんな現実は嫌だな、もう、死んでしまいたい、と思っても、この命を軽々しく手放すことが出来ないんだ。
生きたいと思っているわけではない。叶うなら、こんなにも俺に優しくない世界とおさらばしたいところだ。
それでも、そうはいかない。
「俺はいつ、自由になれるかな」
ぽつりと呟いた言葉は誰に届くでもなく、空に消えていく。真夏の暑すぎる、ともすれば人を殺してしまいそうな日差しは、俺に構うことなくぎらぎらと輝いていた。
自由だけど、自由じゃない。
何かに縛られて生きるのは、誰しも同じだ。だけど、俺はこの縛りから解放されて生きていたい。
ぼんやりとした頭でくだらないことを考えて、俺はコンビニから離れ、またあてもなく歩き続ける。俺の自由時間は多いけど、心の自由時間は少ない。ああ、何て面倒くさい生き物だろう。
そうして、太陽の容赦ない攻撃を受けながら俺は歩き続け、隣町に行き、やがて野生動物のように帰るべき場所に近い所へとまた戻ってきた。
そんな時、早足で歩いていく人々がざわざわと騒ぎ始めた。
「見ろ、あれ」
「……なに、これ。……ちょ、とりあえず写メ」
「おい待てよ。今、何月だ?」
ずっと俯いて歩いていた俺には、通行人の大きすぎる驚きの声たちの理由が分からず、耳障りだから耳を塞いだ。自然と目も瞑ってしまうのは、まだまだ子供の証拠だろうか。
まったく、こんな真昼間からなんだよ。俺はお前たちの煩い声が嫌いなんだ。頼むから、静かにしてくれ。
イライラしてどうしようもない俺は、唇を強く嚙むと、早足でその場を立ち去る。
しかし、いくら歩いても人のざわめきは消えない。むしろ、声たちは煩くなる一方だ。あの場所からこんなにも歩いたってのに、何なんだ。スーパーやコインランドリーが立ち並ぶ歩道の真ん中で、さすがの俺も顔を上げた。普段はこんなに人も多くないのに、どうしてここまで観衆が多い?事故でもあったのか?
そうして、俺の予想は外れ、答えは酷く斜め上のものであることが、分かる。
「……これは」
無意識に出てしまった言葉は、どうしようもないくらいに俺を落ち着かせた。一瞬だけ混乱して、だけど、面白い玩具を見つけた子供のようにはしゃいだ感情と、年齢相応な態度を見せなきゃという矛盾した感情がぐらぐらと揺れている。
灼熱地獄のこの中で、空から白いものが降っている。手を出して少しだけ受け取ってみると、それはまさしくこの湿度の高い空気の中ではオアシスとでも呼べるほどに最高の冷たさで、だけど本来この季節に降らないもので。ああ、クリスマスなんかに降ってしまえば民衆から綺麗だなんだと有難がられるだろうに。
つまり、夏に雪が降っている。
「ハハッ、面白いじゃん」
道理で普段は静かな道が騒がしいわけだ。店や家から物珍しさに人が吐き出される。客なんて知るかとでも言うように従業員も慌てて外に出て、キラキラと眩しすぎる空から降る落とし物に目を奪われていた。
「え~見えますでしょうか、こちら、A市では夏だというのに雪が降り始め、異常気象を起こしています。ここは是非とも、専門家のお話を伺いたいところで……」
早速テレビのリポーターが駆けつけたか。普段ならここらの人間は、リポーターが来ると映りたくてそわそわしているのに、さすがの今日ばかりは、そういうわけにもいかないらしい。
俺はニヤリと顔を歪ませると、そのまま近くの公園に足を運び、暑いのに頭にかかるものは冷たいという、滅多にない体験を満喫することにした。
ベンチに座って、公園の外で慌てている人々を見つつ、この雪が一体どんなものなのか、思考を巡らす。……なんて、するわけないだろ。俺は面倒なのは嫌いなんだ。動きたくないし。
だから結局、俺のすることと言えば、慌てふためく哀れな人間を見つつ、ただひたすらに、視界を目いっぱいに塗り替えていく雪に好奇心を募らすだけだ。
やがて時間が経ち、ひとまず生活に戻ろうという民衆の順応性の高さを観察した俺は、静かになった公園に一人、居座る。
遠くの方では、未だにカメラのシャッター音や、大勢のマイクの声が聞こえる。ここいらのメインとなる大通りでは、騒ぎ立てるのが茶飯事だ。それでも、この忘れ去られた公園に来ることなんてそう滅多にないだろう。
「この暑さなのに、溶けないし、積もるものなのか」
お前たち、頑張るんだな。そんな上から目線な言葉を投げかけて、俺はついにベンチから立ち上がった。そうして、花壇の隅に積もっている異物を、間近で見ることにした。
冬にだって、こんなに短時間で雪は積もらない。一時間、二時間。あるいはもっと時間をかけて、ようやく地面を白銀の世界に変えていくというのに、今のこいつたちは、このくそ暑い中、溶けるという言葉を忘れてしまったようにしんしんと地面と融合している。触れればもちろん、冷たい。だけど、この蒸し暑さの中では、素敵な清涼剤だ。ああ、不思議だ。
掌にしっとりと雪を乗せて、俺はしばし見つめ合う。真っ白な、綿菓子のようなそれは、酷く美味しそうで。そういえば、朝から何も食べていないのを思い出した俺は。
そのまま雪を食べた。
シャリシャリと妙な音を立てて食べるものの、味はしなくて、いつかの日、夏祭りで食べた綿菓子のようには甘くない。あの頃は、あんな些細なお菓子でも心底美味しいと思えたのに。今では、美味しかろうが不味かろうが、この舌は、感覚しか掴んでくれない。だから、この雪は美味しいのか、そうでないのか、はっきりと分からなかった。ただ一つ、言えるのは、かき氷よりも固くて、歯ごたえがあるということだけだろうか。
俺はそれでも、ぼんやりとした頭で目の前に輝く雪を、口に運び続ける。何でもいい。味なんて、どうせ何を食べたって変わらないのだから。腹が満たされて、尚且つ涼めるのなら、それは一石二鳥として喜ぶべきことだろう。
シャリ。
シャリシャリ。
サクッ。
そんな音を響かせて、ただひたすらに、無我夢中で食べている時だった。
隣で何かの気配がして、笑い声が漏れたのは。
「それ、美味しい?」
俺は、ゆったりとした動作で、右隣から顔を覗き込んできた、その人物を見る。綺麗な黒のポニーテールを揺らして、この日差しの中、透けるような白い肌をきらきらと輝かせ、にこにこ笑うのは、世間一般から見ても可愛いと言える、若い女性だった。
俺の隣でしゃがんで、これでもかというほどに可笑しそうに笑って首を傾げている。突然の会話に、俺は驚きもせず、ただ、ゆっくりと首を振った。
「分からない。けど、腹が満たされるのなら、それでいい」
そう言うと、女性は今度こそ耐えきれないとでも言うように、腹を抱えて笑った。やがて立ち上がり、短パンの下で覗く、眩しい足が露わになる。白い肌に、どこまでも健康的な身体。体育会系ですと言われたら、すぐに頷いてしまうほどに、その姿は俺と正反対合だった。
「ふふ、ふふふ。何それ。お腹空いてるんだ?」
「それなりには」
「じゃあ、お腹は満たされた?雪で人間のお腹は膨れるのかな?」
「……食べないよりは、マシだ」
「でも、それでも道端に落ちてるものを食べているのと同じだよ。君の身なりからして、そこまで貧しい環境で生活しているわけではなさそうなのに。どうして、雪を食べたの?」
俺は無意識に立ち上がって、自分の服装を見る。
真っ白なワイシャツに、黒のスラックス。よれよれなんてほど遠いほどに、折り目がきっちりとつけられた襟。毎日丁寧にアイロンがけされているのを、俺は知っている。ピカピカの革靴は、磨きに磨きをかけた、汚れ一つもない、ともすれば芸術品のように美しい。……かもしれない。
自分で自分の服装に評価をつけるなんて、そんな洒落たことは、俺には不可能だ。しかし、言われてみれば俺の服装は、とてもお腹が空いて道端の雪を食べましたという貧困さは見て取れない。
ふむ、それは疑問を持たれて当然か。
俺は一人で納得すると、それでも見ず知らずの女性に説明するのは面倒で、さあ?と首を傾げた。女性も同じように首を傾げて肩を寄せる。
「君、面倒くさがりでしょ」
「……どうかな。何にでもやる気がないから、そんなランキングがあったら堂々の一位になれるくらいには、面倒くさがりかも」
「面倒くさがりなのと、やる気がないのは違うよ」
「別になんだっていいだろ」
「ふふ。そうかも。でも、言われてみれば、君の眼は死んでる。この世の何処からも、声をかけてもらえなくて、絶望してる。そうじゃない?」
「……あんた、さっきから何?」
「何だと思う?いきなり現れて、この女は一体何者だ、気持ち悪い、とでも思ってる?」
「そこまでは思ってない。ただ、よく喋るなって」
「そうだよ。私はよく喋る。だって、人と話せるのって、こんなにも楽しいもの」
こんなにも、と言われても、俺はよく知らないし、困る。ふうん、と相槌を打った俺は、そのまま掌にのった雪をはむ、と食べる。冷たくて気持ちいい。このうだるような暑さの中では、こんなに最高な天気、ないだろう。
すると目の前の女性は、唇を尖らして、酷く不満そうに俺の手を取る。初対面にして、やけに馴れ馴れしいうえに、スキンシップだと?この女、頭の方は大丈夫だろうか。これが逆の立場だったら通報ものだぞ。
しかし俺は、その手を振り払うことは出来なかった。どうしてかって?
彼女の手が、氷よりも冷たかったからだ。
アイスみたいで快適だ、なんて言っていられないくらいに冷たくて、ものを一瞬で凍らせてしまうかと慄いてしまうほどに。俺の手が、動かせないくらいに。彼女の手は、冷たかった。
「あんたの手、冷たい。この暑さの中、何してたんだ」
「雪で遊んでた。だって、こんな時だよ?そうしなくてどうするのさ」
もっと他にやることあるだろう、と突っ込もうと思ったけれど、俺も大概人のことは言えない。腹を満たすために、雪をむしゃむしゃと食べていた俺だって、もっと他にやることくらいあったはずだ。
そう、例えばあの家に帰って、話題を振るとか。
「で。どうして私が目の前にいるのに、雪を食べるの?そんなに美味しい?」
「美味いかどうかなんて分からない」
「じゃあなんで食べたの。二回同じこと言わされる私の身になって」
「知るかよ。勝手だなアンタ」
「こんな状況で雪食べてる君に言われたくないなあ」
「……俺は何食べたって味が分からない。だから、食べれるなら何でもいい」
「味覚がないってこと?」
「……そうじゃない。と、思う。ただ、味は分かるのに、頭が理解してくれない。だったら、何食べたって同じだろ」
「なるほどね。君は、心が空っぽなんだ」
「どうしてそうなる」
ようやく手を振り解いて、距離を取った俺は、少しだけ彼女を睨んだ。ぽつぽつとポニーテールに雪がくっつくのを遠目に、俺は心を落ち着けるために深呼吸した。心が空っぽ。図星だ。
おかげでちょっとだけムキになって、そっぽを向いた。この女は口が回るだけじゃなくて、頭も回るのだろうか。俺の事を見透かして、どうしたいんだろう。
「どうしてかって?人間はね、感じ取ることを放棄してしまうなんてそうそう有り得ないんだよ。特に、三大欲求の一つである、食は人生の楽しみの一つになりやすい。食べて味が分からないなんて、心の中が空洞じゃないと考えられないなあ」
「論理的に言おうとして、だけど失敗するくらいなら言わなきゃいいと思う」
「それ、支離滅裂で分かりづらいってこと?酷いなあ」
あっはっはっと笑いながら言う彼女からは一ミリも傷ついたという感情は見えなくて、口先だけの出任せなのは分かった。だけど、その後の言葉で、彼女の印象はガラリと変わった。
「心が空っぽだからこそ、この状況に面白さを見出したんでしょう?君、さっきから口元の笑みが隠せてないよ。雪が降って、最高に気持ちが昂っている」
何だ。見てないようで意外と見てるもんだ。初対面にして、ここまで踏み込んでくる不躾な女、最悪なイメージしか湧かないだろうと思いたいけど、こいつとのテンポのいい会話は存外楽しい。もっと話してもいいかもしれない。気が向いたら、だけど。だるいし。
「まさにその通りだけど。……で、何。俺に何か言いたいわけ」
「ふふん、では次に君が言い当ててごらんよ。私は、ここに何をしに来たと思う?」
「……さあ?」
「も~、ちょっとは考えなよ」
ぷりぷり怒りつつも、太陽に煌めく彼女はその場でくるりと器用に回転して、ビシッと俺に指を指す。ちらちらと降り続ける雪が、違和感の中で活動を再開しようとしている。だけどどうしてだろう。彼女は、照り付ける太陽と雪という違和感しかない背景に、とても似合っていた。
「あのね。よく聞いて」
にっこり。満面の笑みで誇らしげに。彼女は言う。
「私は君に会いに来たの」
そうして俺、明石澪は雪の降る暑い夏の日、不思議な女性と出会った。
彼女はいつだって快活で、自由奔放で、俺に余すところなく影響を与え続けた。
そして、どこまでも夏が似合う女性だった。太陽みたいな笑顔で、雪のように冷たい手で俺を引っ張って、翻弄し続けた。
これから話すことは、少しだけ不思議で、ちょっとだけ切ない、俺の、俺だけの物語だ。人生に絶望して、もうどうにでもなれってやけくそになった俺に訪れた、夏の日の贈り物だ。
その贈り物の中身をそっと覗いたとき、一体どれだけのものが得られるかなんて、人それぞれ。でも、俺は。俺だけは大いに得るものがあった。
それだけは、証明しよう。