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 汐莉が右腕を怪我して以降、友人たちの態度が変わり、授業が終わると同時に離れていくようになった。みんなはレオが車で迎えにくることを知っているので、出来るだけ汐莉と同席しないように気を利かせてくれているのである。中には、汐莉の彼氏に怯え、「ばいばい」と挨拶して、逃げるように教室を出ていく子もいる。このところのレオは女友達と一緒にいても機嫌が悪くなるくらい神経質なので、男子といたりしたら問答無用でアウトとなる。学内では友達との雑談も最低限に留め、話が長くなりそうだと適当な理由を付けて途中で切り上げている。ただ、男子の方から率先して近づいてくることはほとんどない。レオが汐莉と口を聞いていた同期の男子学生を捕まえて、「俺の女に手を出すな」と脅して回っているからである。実際に汐莉がその現場を見たわけではないが、彼をキレさせたら無傷で済まないことは仲間内でも有名な話になっている。なので、女友達らも彼女の意図を酌み、出来る限り男との接触を持たせないように工夫してくれている。

 だが、元を辿れば怪我をしたのも束縛が厳しくなったのも、学校帰りに友人たちとファミレスに立ち寄った汐莉のせいである。八月半ばのことだ。一年の頃からの恒例として、授業が夜まで長引くと、近場の食堂で夕食を摂ってから帰宅するようにしていたが、メンバーに男子学生が含まれていたのが良くなかった。店を出て即解散すれば大丈夫、そんな軽い気持ちで了承した汐莉だったが、アパートに帰ると地獄が待っていた。レオが玄関の上り口で苛々しながら待ち構えていたのである。

「おせーんだよ、馬鹿。何で電話に出ねえんだよ? 心配したんだぞ?」

 彼はドアが閉まるなり頬を平手で叩いてきた。帰りが遅くなったのに加え、電話とメールに無反応だったのが、導火線となったようだ。

「携帯確認してみろ、早くしろ」

 汐莉の襟首を掴み、顔を近づけて命令する。その勢いでブラウスのボタンが千切れ、部屋の隅に転がった。携帯を確かめると膨大な数のメールと着信履歴が残っていた。授業開始前からバイブレーション無効のマナーモードに設定していたが、講義が終わった直後に確かめたときはメールと着信、合わせて五件も入っていなかった。なのに、約一時間で桁数が変わっている。レストランに行って帰ってくるまでの間、休まず電話を掛けメールを送り続けたのだろう。連絡を後回しにしなければ良かった。前もって許可を貰っていれば良かった。彼と会う予定がなかったとはいえ、全ては汐莉の怠慢が招いてしまった事故である。そこには毎晩、遅くまで頻繁に連絡を取り合って疲れたので、少しだけ休ませて欲しいという甘えもあった。

「お前、帰って来るまでどこで何していたのか言ってみろよ? 男と遊んでいたんじゃないのか?」

 髪を鷲掴みにして奥に連れ込まれたら、すぐに詰問が始まった。恋人になってから何度も似たような経験をしているが、この日のレオはいつもより増して暴力的で、異常な迫力だった。「お前」という二人称は、暴行の前兆を示している。既に叩かれているが、この様子だと折檻はまだまだ終わりそうにない。男は壁の端っこにまで汐莉を追い詰め、逃げ道を塞ぐ。

「答えろよ、男と遊んでたんだろ?」

 長身の彼に見下ろされ、黙って震えていると、頭部に拳が振り下ろされた。割れそうな痛みに脳が揺れ、視界が歪む。

「ち、違うよ、友達と晩御飯食べに行ってただけだよ」

 答えに躊躇っているとまた殴られそうだったので、慌てて首を振る。

「友達は全員女か? 男もいただろ? とぼけても無駄だぞ。お前が学部の男と一緒にいるのを見ていたからな」

「見ていた? どこで? 隠れてあたし達の行動を見張っていたの?」

「だったら何だよ? お前が遅いから悪いんだろ。心配して様子を見にいくのは彼氏として当たり前だ。嫌なら早く帰ってこい。勝手に男と会ってんじゃねえよ」

「でも、女の子もいたし、あたしらご飯食べてすぐに解散したよ……ほんと、ごはん食べただけだから。連絡先の交換もしてないし」

「飯を食っただけとか、連絡先がどうとか関係ねえよ。男と同席してんのが問題だっつってんだ。誰だよ、一緒にいた男は? そいつらの名前を言え。全員の名前を教えろ」

「そんなの聞いてどうするの……」

「黙れ」

 両腕で頭を覆っていると腹に膝蹴りが入った。あまりの痛みに立っていられなくなり、せき込みながら床に体を折り曲げる。

「口答えしてんじゃねえ」

 慈悲の欠片もなく、繰り返し蹴りが打ち据えられる。つま先が体にめり込み、息が出来ない。食べたばかりのハンバーグが喉の奥まで逆流して来たので、両手で口を塞ぎ、涙を流しながら痛みに耐えた。

「ほら、早く言えよ。待っててやるから言ってみろ」

 蹴りが止まってもしばらくは動けず、腹部を抑えてうずくまる。内臓が破裂してしまったのではないかと疑ってしまうほどの激痛だったが、男に情けはなかった。

「誰だ、誘った奴は」

 髪の毛を掴み、無理やり顔を上げさせる。彼はもはや、汐莉の想い人ではない。おぞましく得体のしれない獣になっている。その瞳は野生的に光り、狂気が宿っていた。

「誰なんだ」

 腕が首に巻き付き、ゆっくりと締めつける。膨張する筋肉に頸動脈が封鎖され、骨が軋んでいくようだ。

「あ……あ……」

「早く言え」

 窒息しそうになりながら、声を出そうとしても、言葉が途切れて上手く繋げない。汐莉は苦しさのあまり、筋肉質の堅い腕に爪を立てていた。

「喋れないのか、世話の焼ける女だ」

抵抗は弱々しかったが、蛇のように巻きついた腕は解かれていた。

「お前じゃ話にならねえ。同席した女友達に頼んで男どもを一人残らず、ここへ呼べ」

 恋人が死んだように横たわっていても、男に哀れみはない。傍に転がっている汐莉の鞄を奪い取り、中身を部屋にぶちまける。

「こ……ここに? どうして」

「俺の女に手を出したことを思い知らせてやるんだよ」

「そ、そんなの……無理だ……よ。二人は悪く、ない。悪いのは……あたし……だから。許してあげて」

 教科書や配布資料がクシャクシャに散らばる中、足に縋り泣いて懇願する。最愛の彼女に対してここまでの乱暴を働ける獣に、男友達を会わせると勢い余って殺してしまうかも知れない。ボロ雑巾のようになるまで殴り、死ぬまで踏みつけるのだ。

「二度と行きませんから。もう……許してください、許してください」

 必死になって訴えても、レオの耳には届かない。けたたましく吠え、右腕を思いきり踏みつける。汐莉は激しい痛みに悲鳴を上げ、転げ回った。痛みは瞬間的に通り過ぎ、腕の感覚がなくなっていく。折れてしまったのだろうか、指先すら動かせなくなっていた。だらりと垂れた腕を引きずりながら這い、部屋の壁に背を寄せる。自力で逃れた彼女を男が追ってくることはない。彼は肉食動物が憑依したかのように一人で「ウーウー」唸りながら、部屋のあちこちを徘徊し始めた。そうして、机やテーブルに置いてあった物を順番に払い落としていく。物が落下していく振動が汐莉の肌に伝わり、気が狂いそうになって傍にあったクッションで顔を覆う。誰かが警察に通報するか、近隣住民がインターホンを押して文句を言いに来るのを待っていたが、やはり助けは現れなかった。

「ごめん、汐莉……」

 気が付くとレオは汐莉を抱きしめ、ゴムの塊になった右腕を優しくなでていた。汐莉はレオの掌を弱々しく握り返す。いつもの優しい彼に戻ってくれたので、安心して肩を預けられる。青っぽいあざが出来ているが、骨折まではしてないようだ。わずかだが指も動かせる。

「あたしたち、別れた方が良いのかもね」

 落ち着いているうちに勇気を振り絞って言う。考えたくはなかったが、こんな付き合いを続けても、お互い窮屈なだけだ。

「……別れる? 俺のことが嫌いになったの?」

 逆上されたらどうしようかと思っていたが、過ちを自覚してなのか、彼は顔を覆って泣いている。

「レオ君のことは大好きだよ。今まで付き合ってきた男とは比べ物にならないくらいね」

「じゃあ何で? 何で別れるなんて言うんだよ」

「あたしだって別れたくないよ。だけど、今みたいに暴れられたら怖いし、どうすれば良いか分からなくなる。レオ君が重すぎて正直、ついていけないの」

「もう暴れない。絶対に暴れないって約束する。だからお願いだ……考え直してくれ。俺には汐莉しかいないんだよ。失いたくないんだ。もう一回チャンスが欲しい。汐莉の理想の人になりたいんだ」

 汐莉を抱きしめ、恥を忍んで「ごめんな」と謝るレオには、強烈なダンクシュートを決めるスポーツマンの面影はない。脆く壊れやすい少年になって、繊細さを曝け出している。汐莉は彼の弱さを初めて知り、支えになってあげたいと思った。いつも守られてばかりだが、たまには自分が守る側になるのだ。

「もう良いよ、謝らないで。レオ君の気持ちもよく分かったから。もう一度、初めからやり直そう」

「本当?」

「汐莉も誓うよ。二度と男友達とは行動しない」

「ありがとう……絶対に絶対。幸せになろうな」

「うん」

「この先、何があってもレオ君を支えるからね」

 汐莉の言葉を聞き、救われたような微笑みを向けてくる。

「まずはこの部屋、片付けないとな」

 汐莉は紙の散らばった室内をぐるりと見回した。

「そうだね。手分けして片付けないとね」

「俺一人で大丈夫だよ。滅茶苦茶にしたの俺だしさ」

「でも、明日で良いよ。今日はもう……」

「分かった、疲れてるもんな」

 そう言って、レオは再び汐莉を抱きしめる。いつもよりずっと強く優しく抱きしめる。





 汐莉の怪我は翌朝一番に、病院で検査してもらった。全身が筋肉痛になってしまったかのように、体の自由が利かず、あちこちにできていた打撲やあざは、一晩明けて猛烈に痛み出していた。動くたびに関節が割れていく感覚がして、学校どころではなかったので、丸一日休みを取った。怪我を負わせたことに責任を感じていたレオもバスケの練習を休み、病院まで付き添ってくれた。怪我が最も酷かった箇所は右腕で、クレータ状の青あざが残り、二倍ほどの大きさに腫れ上がっていた。それが目につくたびにレオは謝罪し、自分の行いを咎めた。診察前には、「正直に踏まれたと言っても良いよ」と言ってくれたが、不注意の事故で転んだということにして、怪我までの経緯をねつ造した。医者の診断によると、骨にひびは入っているが、骨折までには至っていない。軽いひびなのでしばらく安静にしていれば、すぐに快方へと向かうそうだ。

「これは学校終わったらお迎えが必要になるな」

 それ以降、レオは集中講義が終わるといつも外で待ってくれるようになった。夏休み中であっても、履修科目がなくても、教室前に来てドライブしながら二人で帰る。一日も欠かさず迎えに来てくれるのは、彼が汐莉に合わせて履修数を減らしているからである。レオの現在の取得単位数は少なく、研究室の先生からはこのまま行くと進級にも支障が出てくるので、なるべく多くの授業を取るように言われている。本来なら、汐莉にばかり構ってはいられない筈なのに、自らの単位を犠牲にしてまで尽くしてくれる。迎えが一つ増えるというのは些細な変化なのかも知れないが、愛情を感じて汐莉は嬉しかった。

 包帯を巻いている期間は、暴力を奮われる頻度も激減した。多少の束縛はあったが、暇さえあれば食事やドライブ、映画や買い物などに連れて行ってくれたし、要望があれば何でも聞いてくれた。友人たちには自転車で転倒したと伝えているが、何人かは間違いなくレオの暴力に気付いている。それでも、汐莉の交際について口出しして来ないのは、彼女たちの間で「本人の前では知らないふりをする」という暗黙のルールが守られているからである。汐莉のつじつま合わせにはそのルールに則って、協力してくれているのだ。彼女たちが用意してくれた自転車事故のシチュエーションは、下手な嘘だとは思ったが、大体の人は納得してくれたので、非常に助かっている。

 包帯を外して数日が経った現在、まだ若干の痛みは残っていたが、周りにはもう完治したことにしている。余計な心配を掛けたくなかったからだ。右腕が使えるようになるのと引き換えに、彼の束縛は厳しくなってきた。過度な暴力は抑えてくれているが、同性の友達と出かけるだけでも文句を言ったり、怒鳴ってくるようになった。

「どこ行こっか?」

 汐莉は車の助手席に座り、彼の横顔を見て尋ねる。フロントガラスの内側には芳香剤が吸盤で張り付けられており、レモンのような甘い香りを発している。クーラーが利いているため、夏特有の煮えたぎるような蒸し暑さはない。彼はエンジンを掛け、無愛想に「海」と答えた。

「どうしたの?」

 車はエンジンを吹かしたまま、駐車場から動かない。レオの雰囲気がいつもと違っていたので、汐莉は一呼吸置いて、あらかじめ無難な回答を用意する。彼には不安を覚えると、口数が減る特徴がある。発作的に汐莉の浮気が怖くなって無口になるのだ。

「今日も男と話したりしてない?」

「してないよ、するわけないでしょう? 約束はちゃんと守ってるよ」

「メールは?」

「携帯見せようか……」

 鞄からスマートフォンを取り出し、メールの履歴を開いて渡す。毎度のことなので、この動作にもすっかり慣れてしまった。後ろめたいことは一切ないので、いつ見られても平気である。既に男友達の電話番号やメールアドレスは電話帳から抹消して、着信拒否までしている。電話帳に残っている一部の男の連絡先は、例外的に彼の了解を得た血縁者やバイトの先輩だけだ。

「なあ、この安城とかいう先輩。確か休場と付き合っているんだよな?」

 レオは熟考するように画面を見つめ、尋ねる。

「多分……。私もよくは分からないけど」

「休場」とは以前、大学で喧嘩を売ってきた貧乏くさいオタク男のことである。汐莉の先輩で、安城兎々津の「相方」でもあるその男をレオは過剰に警戒している。「休場飛鳥は要注意人物だ」と言って、定期的に注意喚起してくるのだ。

「大丈夫、安城さんとも連絡を取る予定なんてないから。気になるなら着拒しようか?」

 兎々津とは研究室で口論して以来、それっきりだ。近頃は学内ですれ違っても互いに頭を下げるに留まり、言葉も交わさない仲である。連絡先を削除したところで特に困る相手ではない。右手の怪我を心配してくれる辺り悪い先輩ではないが、何も知らないくせにレオのことを悪く言ってきた彼女を汐莉は未だに許せないでいる。先輩の方から謝って来るまで、意地でも話し掛けたりしない。

「まあ、あの飛鳥の糞野郎さえ来なければ、どっちでも良いよ」

レオが表情を和らげ、携帯を返す。緊張の糸がほぐれ、鞄にそれを仕舞おうとしたとき、着信音が鳴った。ギアを入れ替え、出発しようとしていた車は再び停まる。

「誰?」

「間違い電話じゃないかな? あたしの知らない番号だし、切ろうか」

 画面に表示されているのは電話帳には登録した覚えのない、見知らぬ番号である。

「疑いたくないけど、出てくれる? 本当に知らない人かどうか確かめたいから」

「でも……」

「でも、じゃねえ。出ろって言ってんだよ。やましいことがないんだろ?」

「分かったよぅ」

 汐莉は直感で応答してはいけないと思ったが、苛立ち気味のレオを前にして断れない。間違い電話であって欲しいと祈る気持ちで、恐る恐る通話ボタンを押す。

「もしもし、福永さん? ごめん、電話がつながらないから別の番号から掛けさせてもらったんだけど」

 汐莉は馴れ馴れしい男性の声に委縮する。相手は同じ研究室の四年生で、連絡先さえ交換していない地味な男子学生だ。

「ごめんなさい。今、ちょっと話せないんです」

 現実にはあり得ない人物からの着信に狼狽し、慌てて電話を切る。

「誰だ、今のは?」

「違う、汐莉は教えていない」

「ごまかしてんじゃねえよ。知り合いだっただろうが」

 携帯を咄嗟に遠ざけると、包帯が外れてまだ日の浅い右腕に拳が叩きつけられた。



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