6
飯塚レオは目が覚めてしばらくの間、虚ろな視線を車内に漂わせていた。どうやら待ち合わせ中に、運転席で眠ってしまったようだ。シートを起こし、時計を見る。ぐっすり眠っていたのに、約束の時間までまだ余裕がある。もう一眠りしても問題なさそうだ。レオは再びシートを倒し、瞼を閉じる。少しずつ意識が遠のいていくのを待ちながら、その片隅でコンコン、コンコンとノックの音が聞こえてきた。
「何だよ」
心地よく眠りにつこうとしていたところを中断され、思わず舌打ちする。瞼を擦り、左側後部座席を伺うと窓越しに福永汐莉が手を振っていた。すぐにロックを解除し、彼女を助手席に乗せる。今日はこれから近くの海までドライブデートだ。砂浜しかないところだが、潮風に当たりながら水平線を眺めるだけでも、ロマンチックな感傷に浸れるので、デートとしては十分楽しめる。
「ごめん、レオ君。待たせちゃった?」
「全然。俺もさっき来たばっかだし」
待ち合わせにありがちな問答に笑顔で応じる。車は日陰に停めているので、そこまで暑くはないが、扇子で煽ぐ汐莉のことを考慮して冷房を入れてやる。ついでにCDボックスを開き、汐莉が好きな女性アーティストのアルバムをセットしてやった。会話の妨げにならない程度に音量を落として再生する。ドライブは汐莉との会話で盛り上がったが、内容はほとんど頭に入って来なかった。脳細胞が働きを停止したのか、意味を理解しないまま、言葉が耳を通過していくのだ。彼女の方は声もなく楽しそうに笑っていたが、レオには何一つ面白いことを言っている自覚がなかった。
国道を抜け、海岸線に沿って車を走らせる。会話に区切りがつくと、汐莉は無言で海を眺め始めた。海原より運ばれる潮風が、わずかに透かしている窓からふんわりと流れ込む。彼女は太陽光を集め、鏡のようにキラキラ光って揺らめく波の虜になっているようだ。
「停めようか? そこからじゃ見えにくいだろ」
「うん」
レオは道路と堤防との間に駐車可能なスペースを見つけ、停車させる。堤防の向こう側では、灰色の砂浜が広がっていた。遊泳禁止の海だが、季節が夏とあってか訪客は多い。砂浜にはパラソルが立ち、ビニールシートを敷いて弁当を食べている親子連れや、ランニングしている中年男もいる。一直線に並んだ四本足のテトラポッドは、ここからだと随分と小さく、周辺にはぽつぽつと釣り人の姿もあった。打ち寄せる波はその起伏に合わせ、静かなサウンドを奏でている。自然が歌う子守唄。ずっと聴いていると、快眠にいざなわれそうな優しさである。広大な海の大地に浮かぶ船はまばらで、海鳥が青空を泳ぐように飛び交っている。
レオの車の傍では若い男が一人、堤防に体を預け、水平線をぼんやり眺めている。どこかで見たことがあるような顔だが、誰だったのかは思い出せない。すると突然、汐莉が車を降り、ごく自然な素振りでその男に近づいて行った。男も彼女に気付き、馴れ馴れしく手を振っている。知り合いなのか汐莉は妙に親しげだ。ひょっとするとあれも汐莉の元彼の一人なのかも知れない。
「おい、何してるんだよ。お前ら」
レオは運転席の窓から身を乗り出して叫ぶ。だが、当人らには聞こえていないようだ。二人はレオを無視し、ビーチサンダルに履き替えて砂浜に入る。そうして、波打ち際まで歩いて行き、海水に足を浸したり、手で水を掛けあったりして遊び始めた。デートでもあんなに楽しそうに笑う汐莉は見たことがない。運転席で黙って様子を伺っていると、凄まじい敗北感が襲って来た。彼女は自分といるより、頼りなさそうなあの男と一緒の方が楽しいのである。これからデートを盛り上げようとしていた矢先、大切な彼女を奪われてしまった。汐莉と幸せになる夢はたった今、踏みにじられて潰えたのである。
憎しみに燃えるレオは半ばやけくそになってキーを回し、車のエンジンを掛ける。一気に車道まで下がり、堤防から距離を取る。休日なのに不思議と海岸線の道路を往来する車がない。力強くアクセルを踏み、勢い付けて堤防に突っ込む。硬そうな壁は衝突と同時に木端微塵に砕け、反動で座席から体が浮きあがった。堤防は爆発にも似た音を立てて崩れたが、砂浜で夢中になって遊んでいる二人は振り返りもしない。強靭な中古車はタイヤを砂に取られながらも、前進する。スピードは落ちることなく、右肩上がりに加速している。メーターが時速百キロを超えたとき、子供のように無邪気に遊ぶ二人をまとめて撥ねていた。激しい接触だったのに、親子連れも釣り人も、ジョギングの中年男も犬も事故現場を見向きもしない。やがて、海は血で赤く染まり、男女の死体が海面に浮かびあがってきた。
「ざまあみろ、クソ野郎どもが」
レオは変わり果てた汐莉を眺めながら、煙草を咥えて火を点ける。少々やり過ぎてしまったが、悪いのは目の前で裏切りを働いた彼女である。味のない煙草を吐き捨て、重い荷物となった二人の死体をトランクに詰める。後処理を終え、波打ち際で車を発進させようと踏ん張ったが、タイヤが半分ほど砂浜に埋まっているため、自力では抜け出せない。どうすれば良いのか、考えるのも面倒になり、ひとまず座席を倒して仮眠を取る。その時、再びノックの音が入った。
目を覚ますといつの間にか、ドライブデートの待ち合わせ場所まで引き戻されていた。ボーっと宙を眺めているところ、後部座席の窓がコンコン、と音を立てる。レオはまどろみを残しながらも、さっき起こったことが全て夢だったのだと悟り、少し安堵する。連日、バスケの練習が続いていた疲労もあって熟睡してしまったようだ。精神的に不安定なせいか、見ていた夢は妙に生々しく、リアリティがあった。ただ、今の夢には現実と大きく違う点がある。ドライブデートに行く相手は福永汐莉ではないのだ。
「ごめん、レオ君。待たせちゃった?」
「……全然。俺もさっき来たばっかだし」
レオは瞼を擦って女の顔を確認し、自動車のロックを外す。冷房を入れるついでにメジャーな国内アーティストのアルバムを選んでセットする。
「お邪魔します」
「おお」
助手席に座る女は先週、街中で偶然再会した高校時代の同級生だ。三年ぶりに会い、近況や思い出話で盛り上がっているうちに、今度一緒にドライブにでも行こうと誘っていた。この日はバスケの練習もアルバイトもなく、汐莉は朝から大学で集中講義の授業を受けているため、授業が終了するまでは、海でのんびりと羽を伸ばせられる。当然、彼女には同級生の異性と出掛けることを教えていない。教えるつもりもない。集中講義の間はパチンコで時間を潰していたことにして誤魔化す予定である。もし彼女がこの事実を知ってしまったら、不条理に感じ裏切り行為だとレオを批判して来るだろう。そんな都合の悪いことをこちらから暴露して、得られるものなど何もない。汐莉には自分以外の異性との交友は愚か、連絡先の交換や会話も禁じている。また、不公平にならないように、レオ自身も同じ条件で付き合うと言って納得させている。しかし、それは彼女を従わせるための建て前に過ぎず、守る義務はないと思っている。
相手の行動を制限しておいて、自分は自由に振る舞う。卑怯かも知れないが、彼女の性質を考えるとこうなるのは仕方がない。レオには他の女と会っても、恋愛関係にまで発展させない絶対的な自信がある。しかし、彼女は違う。男と遊べば誰にでも恋情を抱いてしまう、一途とは程遠い女である。それを理解しているからこそ、彼氏として管理しなければならない。別に不公平でも、不条理でもない。分相応に接しているだけなのである。
そもそも、普通に生活していれば誰であれ、後ろめたいことの一つや二つは出て来るものだ。汐莉だって口では約束を守っていると言っているが、隠れて男と出かけていないという保証はない。だからこそ、多少は厳しめの束縛が必要となる。束縛し、背いたら悲惨な目に遭うので絶対に守らなければならない、と肝に銘じさせるのである。約束を破ったらどうなるのか、前回の一件で彼女も身を持って理解している筈だ。包帯を巻くほどの怪我を負わせてしまったのは誤算ではあるが、冷静に考察すると暴力を奮うのもやむを得ないのである。