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八月も終わりに近づいているが、季節はまだまだ真夏で涼しくなる兆しは一向にない。うちわや扇風機だけでは蒸し暑さが防げないので、兎々津の自宅では常にクーラーが利いている状態である。十月の半ばごろまでは扇風機のお世話になるのが、例年の流れなので、九月に入って猛暑日を記録する日が出たとしても、別に不思議だとは思わない。冬が異常に冷え込むせいもあって、地球温暖化について兎々津は懐疑的な視点を持っているが、暦が一つ増える度に、地球環境が悪化している事実は近頃の気候や異常気象からも疑いようがなかった。
この日、彼女は教員との論文の打ち合わせで、大学まで足を運んでいた。夏休み真っ只中の学内は人通りも疎らである。樹木に留まった蝉だけはやたらと多く密集し、あちらこちらで鳴いている。おぞましい様相の昆虫は桜の木がお気に入りで、キャンパスの並木道から毎年、攻撃的な大合唱を披露してくれる。大学は八月の上旬まで通常授業があって大変だが、夏休みは九月の末までと長く、貰うべき対価として十分なものを受け取っている。早いもので、飛鳥が学内に忍び込み、後輩カップルとひと騒動起こしてから、もう一ヶ月が経過している。ここまでの夏休み生活を振り返ってみると、似合わないリクルートスーツを着て面接に行くか、飛鳥宅で動画を作るか、家に籠って一人でペンタブレットを走らせるかの三パターンしか浮かばない。友達とはどこにも出かける予定がなかったので、このまま就職活動と創作活動で新学期を迎えることになりそうだ。女子大生の夏休みとしては華やかさに欠ける終わり方だが、兎々津にこれと言った不満はない。
打ち合わせが二十分ほどで終わってしまったので、少し論文に修正を加えてから帰ることにする。持ち歩くには重いので、今日は愛用のノートパソコンを持って来ていない。作業には研究室のデスクトップパソコンを使わせてもらう。みんな夏休みを満喫しているのか、研究室に行っても人影はなかった。電気を点け、冷房を入れる。部屋の中央部にある大きな事務用テーブルは文献や菓子袋、漫画、ペットボトル、折り紙などで散らかっている。ゼミの会議で使っていたときはもう少し片付いていた気もするが、どこの研究室でも大体こんなものだろう。綺麗とは言い難いが、飛鳥の部屋を見てある程度の免疫がついているので抵抗はない。逆に、上には上にいるということで幾分かまともに映ってしまうので恐ろしくもある。
兎々津は埃被ったデスクトップパソコンの電源を入れ、IPodで音楽を聴きながら資料を用意する。音楽プレーヤーに落とし込んだアニメソングを聞いていると、作業が驚くほど捗っていく。バトルもののアニメOP曲がある種のドーピング作用をもたらし、タイピング速度がいつもより格段に上がってくるのだ。区切りが良いところまで進め、データはひとまず、USBメモリに保存する。息抜きついでにインターネットを開くと、サイトのトップページには当たり前のように、歴史認識が関連する近隣諸国とのきな臭いニュース記事が掲載されていた。こういった趣向の記事はネットで煽り合い、罵り合いを生むネタの王道なので、飛鳥が見ればさぞ歓喜することだろう。まったく、大学を卒業してろくな大人になっていない。誹謗中傷、悪意と憎悪で埋め尽くされた書き込みを傍観するのが、あの男の生きがいの一つでもあるのだ。
「おつかれさまでーす」
兎々津が最新のニュースを巡っていると、女子学生の一団がぞろぞろと入ってきた。兎々津は慌ててIPodをポケットに仕舞い、後輩たちに挨拶する。集中講義の授業を受けに来た三年生たちで、福永汐莉もいる。また、何人かは他所のゼミ生である。研究室に詰めかけては馬鹿騒ぎを繰り返していた配属直後に比べてみると、彼女たちも随分と大人になったものだ。以前の研究室は、ろくに落ち着いて作業ができる環境になかった。少し騒がしくなる程度であれば許容もするが、あまりに度が過ぎていて、研究や就活で忙しい四年生や真面目な三年生からは敬遠されていた。その大半は節度をわきまえないDQN集団の入室と同時に、逃げるように研究室を後にしたものだ。最近になって改善されたのは夏休み前、教員が該当する学生らにメールを送り、注意をしたからである。三年生たちは賢くはないが聞き分けが良い。その点、飛鳥よりは扱いやすいとも言える。あの男は自分が納得できなければ、上司や大学教授が相手でも抗議していくので非常に面倒だ。
「久しぶりです、安城先輩。卒論しに来たんですか?」
「まあ、そんなところ。右腕どうしたの?」
約一か月ぶりに会った福永汐莉は腕を怪我していた。区切りの良いところで記事を読み終えていたので、話し掛けられたついでに容体を尋ねる。包帯を巻いている辺り相当、重傷のようだ。
「ああ……これ? 自転車で事故ったんですよ。雨で滑って、電柱に激突です。スピードも結構出していたので、ゴチーンってぶつかっちゃって……痛かったなあ」
「汐莉の奴、馬鹿だから傘さし運転をしてたんですよ。下り坂だったからブレーキも全然利かなくて。こんな感じにぶつかったみたいっす」
傍で聞いていた友人がフォローを入れる。所属しているゼミが違うので名前までは分からないが、汐莉が度々、連れ込む三年生なので顔は知っている。彼女は福永汐莉になりきってご親切にも、事故の様子を再現してくれた。わざとらしくバランスを崩し、ハンドルを握った手を振り子のように揺らしてアピールする。
「一歩間違えたら大惨事ですよ、大惨事」
内容は具体的だが、話が少々嘘っぽい。本人たちは上手く誤魔化しているつもりでも、表情や動きの一つ一つがわざとらしく見える。多分、怪我の理由を訊かれたときにどう説明していくか、あらかじめ相談でもして段取りをつけておいたのだろう。なぜ、そうしなければならないのか。深追いしなくとも大体の想像はつく。福永汐莉の怪我には彼女が溺愛している体育会系男子、飯塚レオが絡んでいるのである。ゼミ生の間では、福永汐莉が彼に束縛されているとの噂で持ちきりで、ほとんど奴隷のような生活を送っており、命令通りに動かなかったら暴力を奮われるなんてことは日常茶飯事だと聞いている。兎々津には飯塚レオとの接点がないので、安易に彼の人間性を語れないが、飛鳥とのやり取りを見る限り、気性が荒いのは確かである。何かの拍子にキレ、あの時のような勢いで暴れた結果、汐莉が包帯を巻かなければならないほどの怪我を負ってしまったとしてもおかしくない。自転車事故だと本人は言っているが、彼氏が原因の可能性は十分ある。
因縁のある飛鳥曰く、飯塚レオは恋人に対して歪んだ愛情を抱くヤンデレの典型だという。交際相手との立場は対等ではなく、常に自分が優位に立って彼女を支配しようとする傾向にあり、思い通りにならなければ乱暴を働くことだってあるそうだ。飛鳥が恨まれているのは在学中、遊び半分で彼を失恋に追いやったせいである。どのような手段で失恋させたのか、詳細は教えてくれなかったが、挨拶しただけで殴られるということは、かなり汚い手を使っているのだろう。
飛鳥は恋愛での揉め事を面白いものだと認識している。それだけならまだ良いが、嬉々として首を突っ込み、場を滅茶苦茶に混乱させて楽しむという面倒な一面がある。習性ではなく性癖と行った方が適切だろうが、自分から憎しみを買っているのである。大方、ネットでの煽り合いと同様の娯楽とでも考えているのだろう。恋愛嫌いの兎々津には、理解できない神経をしている。相方とは唯一、分かち合えない価値観だ。
兎々津は恋愛を面白いとは思わない。恋人の有り無しが一種のスペックとして語られる歪んだ恋愛至上主義、そういう風潮が社会全体に出来上がっているのは正直、気持ち悪い。クリスマスやバレンタインなどのイベント事ではやたらと持ち上げられ、CMや広報活動に熱が入ったりもするが、ああいうのは企業が商業としての利用価値を見出しているに過ぎないのだ。単に一年の行事と恋愛を結び付けた結果、そうなっているだけなのに、気付かない人たちは盲目的に恋愛を讃えている。実に愚かな話である。
ただ一方で、人の心理を表現するのに恋愛ほど分かり易く、共感を生む題材もない。歌を聞くにしても、小説を読むにしても、アニメを見るにしても同じである。実際、兎々津も創作物の題材と位置づけて、恋愛要素を含んだ動画をアップしている。ウケが良いのは、恋愛賛美とは程遠い楽曲だが、不本意とはいえ、自分が嫌いな恋愛至上主義に加担しているのは、堂々と否定できない。
男女が互いに惹かれあい、恋人になる。結婚してパートナーとの間に子供ができ、家庭を持って幸せを謳歌する。理想論や夢物語が行き交う世の中だが、大雑把に言えばそれだけのことである。大多数が当然の如く肯定的に捉えているし、表向きは素晴らしいものに相違ない。しかし、恋愛の異常性を目の当たりにしてきた彼女に言わせれば、現実の恋愛なんて素晴らしいどころか醜く、残酷極まりないものである。確かに「男女が両思いになる」のは喜ばしいことだろうが、そこへ到達するまでの過程で犠牲にしなければならない事柄が多数、存在しているのも事実である。それは必要経費として割り切れる金や時間ではなく、両思いになるうえで生じる醜さとエゴイズムだ。例えば、誰かが意中の相手と繋がりたくて、誰かを不幸に陥れる。場合によっては喧嘩でもして別れてくれればいいのに、と想い人の不幸すら願う。恋愛絡みでこういう問題が起こるなんて決して珍しくない。要は全てが自己満足で成り立っている世界なのである。横恋慕、略奪愛、などはその象徴であり吐き気がする。相手の幸せを願っている、ともっともらしい美辞麗句を並べ立てておいても、根本を突き詰めれば、自分と二人で幸せにならなければ認められない。好きな人が他人と幸せになるのは耐えがたく、許せない。そして、自らの理想に沿わなければ誰かを激しく憎悪し最悪、殺人事件にまで発展してしまうケースもある。殺人の動機に「恋愛関係でのもつれがあった」と、ニュースで報道されているのを聞くたびに、恋愛こそ害悪ではないか、と思わずにはいられない。愛情の肩書きに埋もれた陰湿さや恐怖、憎悪がドロドロに絡み合った恋愛は、兎々津にとって蛇蝎のように忌まわしいものに他ならないのである。恋人を作るプロセスで誰一人傷つくことがなければ、特に異論も唱えはしないが、他人がどれだけ苦痛に感じているのか、測るものさしがないのだから現実は難しい。さわらぬ神にたたりなし。もう何もかもが複雑で面倒なので、彼女は出来るだけ人の恋愛事情について触れないようにしている。そういう部分では、遠慮もなく平気でずかずか踏み込んでいく飛鳥と正反対である。
大体の人は、兎々津のこういった思想を知ると拒絶反応を示し、距離を取ってくる。受け入れてくれた人物は、奇人変人の飛鳥を含め、ごく僅かとなる。そのため、他人には出来る限り恋愛批判論を展開しないようにしている。兎々津にも理解者を求める意向はないし、歪んでいるとの自覚もある。だから、押しつけを止めてくれさえすれば、それで全然構わない。巷では「若者の恋愛離れ」が囁かれているが、余計なお世話である。女の子なら恋愛をするべきだ、などというふざけた論調には付き合っていられない。
福永汐莉に関して言えば恋愛を止めようとするのなら、力になれる。逆に苦難を乗り越え彼氏との恋愛を続行して行こうとするのなら、深い詮索は遠慮させてもらう。気の毒ではあるが、肉体的にも精神的にも辛いくせに、それさえも美化して受け入れている愚か者には何を言っても無益である。
「よいっしょ……」
福永汐莉が冷蔵庫からミネラルウォーターを取り、机に置く。包帯を巻いている方の手では二リットルのペットボトルが持てないのか、左手だけでキャップを開けようとしている。不自由そうにしているのを見かね、兎々津が手を貸してやる。イヤホンで音楽を聴きながらレポートを進めているうちに、他の三年生たちは授業に行ったらしい。いつの間にか研究室内は、彼女と二人きりになっている。自転車事故を説明してくれた友人もいない。
「ありがとうございます。先輩」
彼氏との喧嘩で疲れているのか、活気のない痛々しい笑顔を向けてきた。
「この時間、集中講義はないの? みんなもう授業に行ってるみたいだけど」
「あたし、みんなとは別の授業取っているんです。午前中で終わったので、後は帰るだけですよ」
「そうなんだ」
無視しようと努めれば務めるほど、白い包帯が目立ってくる。飯塚レオに痛めつけられてこうなったのだと自己主張でもされているようだ。
「あのさ……その腕。本当は自転車で転んだんじゃないよね?」
誘惑に負け、ついつい聞いてしまう。
「転んだんですよ。さっきも言ったじゃないですか? 雨で滑って電柱にぶつかったって。アホですよね、友達からも散々、いじられています」
「それが本当なら良いけどさ。最近、うちの研究室で妙な噂が立っててね」
「噂ってどんな?」
「あんたが彼氏に乱暴されているんじゃないかって」
「ないです、ないです。誰がそんなことを?」
「さあ、誰だったかな……」
「どうせ、嫉妬した奴らでしょ。適当なこと言って、根も葉もない噂を広げて。悔しいからってそんなことでしか発散できない。可哀そうな人たちですよ」
「嫉妬ね……でも、随分と厳しい束縛に遭っているんでしょ?」
「平気ですよ。束縛はあたしを愛してくれている証拠だし。彼もあたしと同じ条件で付き合っていますから」
「ふーん」
「どうでも良いじゃないですか、レオ君との付き合い方なんて。先輩には関係のないことでしょ?」
「確かに、それはごもっともな意見だね。私はあんたが乱暴されている現場を直接見ている訳ではないし、あんたの言う通り嫉妬した奴がデマを流しているだけかも知れないもの。だけど、一つ忠告させてもらって良い?」
「……何ですか?」
「苦痛なものを無理やり美化して、自分の感情を誤魔化すのは止めといた方が良いよ。でないと、そのうち、あんたはぶっ壊れる」
「何それ。彼のことを言っているんですか?」
「ううん、これは先輩からのただのお節介で、彼氏との付き合いに限った話じゃないよ。ただ、辛さの原因が彼との恋愛にあると考えているのならそうなるのかな。理不尽を我慢して得られる愛情なんて、何の価値もないと思うからさ」
「苦痛なもの」と聞き、最初に彼氏の名前が出てくる辺り、本人も潜在的に飯塚レオとの付き合いに難があるのを認めている。苦痛とまではいかないにしても、二人の間に行き違いが生じているのは間違いないようだ。
「知った風な口利かないでください。レオ君があたしを束縛するのは、強そうに見えて本当は繊細で凄く弱い人だからです。あの人の傍にはあたしがいてあげないといけない……だって、一番の理解者はあたしなんですから」
「だからと言って、あんたが傷付く必要もないんじゃない?」
「あたしは全然、傷付いていません。勝手に彼を悪者扱いしないでください」
福永汐莉は熱くなり、左手で机を叩く。まるで、彼女自身が支配を必要としているかのような貢献姿勢だ。
「ごめん、ごめん。語弊があったね。言い方を変えようか」
「いえ、もう良いです。これ以上、先輩とはお話しません」
彼女は引き留める暇もなく、研究室を走り出る。
「待って……」
兎々津は閉まりかけの扉に掛け寄り、汐莉を呼び止める。だが、肝心なところで足が震え、動きが重くなる。よろめきながら廊下に出ると、いつの間にか研究室の扉が木製の引き戸に変化していた。天井との距離が狭まり、左右に現れた窓からは、眩しい夕日が廊下へと差し込んでいる。「ファイト、ファイト」という掛け声が、大学のサークルとは違う懐かしい響きで、どこからともなく聞こえてくる。白昼夢とでもいうのだろうか。何やら不可思議な現象が起こっている。兎々津がこのおかしな感情の正体に気付いたとき、彼女は以前通っていた高校の校舎に立っていた。廊下を走り抜けているのは後輩ではなく、ブラウスを着た少女に変わっている。
「何なの、どうしてあいつが……」
うっかり迷い込んだ真っ白なパラレルワールドに過去の忌まわしい光景が呼び起され、体が硬直してしまう。